その十六
*
一本のロウソクの火を頼りに、文字をつづっていたロンドは、ペンを置いて顔をあげた。風もないのに炎がゆらめき、小さくなって消えていく。文書室のなかは完全な暗闇になった。
「あと少しで書き終えるところだったのに、気がきかないのですね」
先夜の黒い影が、ぼんやりと背後にいる。
ロンドは立ちあがった。
「近ごろのネズミのさわぎは、あなたのせいでしょう? 人が死ぬときのエネルギーは黒魔術師には一番のごちそうだというから」
《私の死体をやつらが食ったからだ》
「あなたの死体を食べたので、あなたの一部になった、ということですか。それで、あなたはネズミたちをあやつり、人間を襲わせた。そのことが知られるとマズイので、ジュールをさらった。彼はどこです?」
《ここだ》
黒い影が両手をひろげると、空間がゆらいだ。
立っていられなくなって、ロンドは倒れた。この前の夜の数十倍の力で、ロンドはあっけなく空間の渦に飲みこまれた。一瞬、妙な浮遊感があり、次に気づいたときには、どこにも異常はない。ただし、文書室のなかは明かりもないのに、昼のように薄明るくなっていた。
ほんとの空間ではないからだ。そこは黒魔術師が作りだした思念の空間。じっさいには存在しない影の空間なのだ。言ってしまえば、魔術師の心のなかに閉じこめられたようなもの。
(ちょっとのあいだに、段違いに魔力が増大している。死のエネルギーをたくわえたからだ)
半人前以下の魔法使いにすぎないロンドなど、対抗しようもない。圧倒的な強さだ。
しかし、ロンドには切り札がある。いささか頼りないが、彼をこの世に召喚したのは、ロンド自身であるという切り札が。
あれは砦に流れついたばかりのころ。
魔術の基礎もほっぽって、オスカーを生き返らせるためだけに魔術書をあさり、無謀な魔法にふけっていた日々。
どんなに努力しても、ロンドの力では時間を超えることはできなかった。それ以前に、時間の流れを見ることすらできなかった。一たす一を知らずに高等数学の難問を解こうとしているようなものなのだから、当然と言えば当然だ。
困りはてていたときに、あの本を見つけた。
それは封印された魔物に関する書物だった。まるで何かに誘われるように、ロンドはその本を手にとった。書かれているのは、多くは古い時代の伝説的な生き物。
しかし、ロンドの目をひいたのは、それではない。ほんの四百年前、この砦で魔法使いの長をしていた男の記述だ。
この男は地下の魔術師のなかで一番の実力を誇っていたにもかかわらず、黒魔術に傾倒していった。魔術師のあいだで禁忌とされている魔法。人間を殺め、この世の理を乱す邪法。
むろんのこと、周囲から弾圧され、砦にいる魔術師全員との死闘のすえ、生きながら封印の刑に処された。
この男なら時を超えることができる。
ロンドの心がまともだったことなど、ここ十年ないのだが、あのころはオスカーを失ったばっかりで半狂乱だった。そういう悪魔の考えにとりつかれて、ロンドは記述どおり封印をといた。解放された魔物はそれをといた者をあるじとする。それが魔術界の鉄則。この男の力を借りようと思ったのだ。
封印をとくことはかんたんだった。なぜなら、男の声が聞こえたからだ。彼が封印された場所に立つと、内から声がした。
あるいは強い願望を利用され、あやつられていたのはロンドのほうかもしれない。ロンドは彼の指図どおりに封印をとけばよかった。
ところが、解術したとたんだ。
封印されていた四百年の時の流れが、いっきに彼を襲った。
ロンドの見ている前で、またたくまに黒魔術師は白骨と化していった。だが、彼の肉体が消滅する寸前、かすかに魔法の波動が空間をゆるがした。
ロンドが気づいたときには、黒魔術師の姿はどこにもなかった。ロンドは彼が死滅したと思ったが、そうではなかったのだ。
「完全に肉体が消滅する前に、時間の流れを閉じて、自分の上にだけ時が働かないようにした。そして四年のあいだに力をたくわえたというわけだ」
《時を止めるのが一瞬でも遅ければ、私は
ネズミが急に異常な行動をみせたのは、彼が食べられた肉体を媒体にして、逆にネズミの体をのっとったからだ。おそらくネズミの体内で、寄生虫のように彼の血肉は生きているのだろう。
「それで私を襲ったのですか? 私はあなたの主人なのに」
彼は笑った。
黒くゆらめく影のなかに、生前の黒魔術師の姿がかいまみえる。いわゆる霊体だろう。
《おまえが私の主人になるには千年早い。だが、封印をといてくれたことには感謝しよう》
「では、私の頼みを聞いてくれ」
影は笑ったようだった。
《よかろう》
いけない——と、誰かの声が聞こえた気がした。
だが、ロンドは……いや、グレウスはふりはらった。
このときを待ちのぞんでいた。このときだけを。
暗い墓場のなかで目ざめた四年前のあのときから、ずっと。
目の前が赤く染まる。
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