十一章
ロンドの草稿 その十三 1
ゾナチエとの一件があってから、しばらくのちです。
「クレア。起きてごらん。もう朝だよ」
朝はいつも、オスカーの声とくちづけでめざめる。窓辺には光があふれていて、その日も幸せな予感。
「おはよう。起きぬけの君は可愛いよ」
寝起きに頭がハッキリしないのは、変な夢を見るせいです。グレウスだったころの記憶が、悪夢という形で、とぎれとぎれに戻ってきていました。それは幸福をおびやかす不吉な足音のような気がして、わけもなく不安になったものです。
「オスカー。離れないで。ずっと、わたしのそばにいてね」
「わかってるよ。可愛い甘えん坊さん。今日は君にプレゼントがある。おいで」
「何かしら」
「いいものだよ」
オスカーの言ういいものとは、ドレスだったのですが、私のために作らせた特別サイズでした。私の瞳の色にあわせた淡い水色や、プラチナブロンドに映りそうなもの。それに、なんと言っても、デザインが男の私でも似合いそうなスッキリしたドレスです。
「あら、ドレス」
内心、私はちょっと地味すぎると思っていました。いつもの私は、ことさらに女らしいフリルやリボンのたくさんついた服ばかり着ていたのです。が、もちろん、オスカーの好意ですから喜びました。
「着てごらん」
「でも、似合うかしら。わたし、女のくせに大柄だし、こんなにモダンなドレスを着たら、男の人みたいに見えない?」
「いいから、着てごらん」
私はなかで一番、可愛らしく見えた薄いピンク色のドレスを身につけました。
すると、オスカーは部屋の外で待っていた侍女たちを呼び入れ、命じます。
「クレアがキレイに見えるように化粧してあげてくれ」
それまで私は、お姫さまのようなこんな待遇は遠慮していたのです。が、やはり最初から、化粧についてちゃんとした知識を持つ女性の助けを借りておくべきでした。できあがった鏡のなかの自分を見て、私は目をみはりました。
「これが、わたし?」
昨日までとは別人の私が鏡のなかにいます。ちっとも見苦しくないばかりか、たしかに見間違いではないと思うのですが、美しくさえ感じられました。私は感激して、何度も何度も鏡を見なおしました。
「わたし……わたし、変じゃないわ」
姉たちにムリヤリ女の子の服を着せられて、鏡のなかに現れた、あの少女でした。
たしかに女にしては背が高すぎるし、よく見れば男の女装だとわかるのだけど、でも、見よう見まねで顔をぬりつぶしていたときとは違い、男とも女ともつかない魅力があったのです。
私は嬉しくなって、オスカーの首に抱きつきました。
「ねえ、わたし、きれい?」
「とってもキレイだよ」
「嬉しい!」
その日、私は有頂天でした。オスカーに誘われるまま、劇場や闘技場へ行きました。誰もがふりかえって見ます。ですが、それは決して嘲りや蔑みの目ではありません。
「わたし、もう、あなたに恥をかかせないですむのね」
「君は僕の自慢だよ」
遊び疲れて屋敷に帰ったのは、夕刻に近いころでした。傾いた日差しが金色に部屋を染めています。
オスカーと私は居間に入って、長椅子に倒れこみました。かたわらで、侍女がお茶の用意をします。
私は疲れていたせいか、神経過敏になっていました。ソファーによこたわったあと、急にいつもと違う、何かの匂いをかぎとりました。
「オスカー、なんだか、となりの部屋に人がいるみたい。誰かに見られているような気がするの」
このときの私の勘はあたっていたのです。
「そんなはずはない。見てこよう」
オスカーは立ちあがって、隣室の扉をあけました。が、これと言ったこともなく、じきに帰ってきます。
「気にしすぎだよ。クレア」
「そうかしら」
半分狂った私の感覚が、動物のようにするどくなっていたのかもしれません。
「お茶ができました。お召しあがりください」
私は不安なまま、侍女のいれてくれたお茶を受けとりました。
赤く染まったスープ。
生あたたかい血をあびて、目の前のあらゆるものが赤くなる。
不吉な光景が、一瞬、脳裏をよぎりました。
すべてが、赤く——
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