ロンドの草稿 その十二 3
それから一年が私の人生のなかで、もっとも幸福なときでした。
おそらく、オスカーが手切れ金を渡したのでしょう。ルースからはその後、別れの手紙が来て、いっときわたしを悲しませました。けれど、オスカーの城で、オスカーとともに暮らす生活が、じきに私から過去のことを忘れさせました。
生まれ変わったように明るい気分でした。
オスカーは結婚したときに、両親からル・アーニ家の別荘の一つを譲りうけ、そこに一人で住んでいました。使用人も必要最低限で、私たちは誰にもジャマされず、好きなことができました。私はクレアとして、なんの束縛もなく、毎日を楽しんでいればよかったのです。
オスカーは最初のころ、なんとかして私を正気に戻し、伯爵として復帰させたかったようですが、いつのころからか、あきらめました。
「小鳥といっしょに歌い、花のなかでまどろむ君を見ると、これでいいんだという気がする。君のそんなに晴れやかな顔は、学生時代ですら見たことがなかった」
「わたし、今、こんなに幸せよ。幸せすぎて、怖いみたい」
毎日が楽しいことばかり。
晴れた日には庭で洗濯しようとして叱られたこともあったけれど。
「そんなことは小間使いに任せておけばいいんだ。君はそんなことしなくても」
「ごめんなさい。だって、お世話になるばかりで、わたし……あなたのために何かしてあげたかったの」
オスカーは困惑したようだった。
「君はそんなこと、気にしなくていいんだよ」
なぜ、オスカーが戸惑うのか、そのわけはだんだんわかってきた。
あるとき、庭で力つきて死んでいる小鳥を見つけて、クレアは一日泣きとおした。そんな私を見て、オスカーは狩りの日のことを思いだしたみたいだ。
「君が変わったと思うのは、僕らの勝手な思いこみなのかもしれない。君の本質は少しも変わっていない。君はとても感受性が豊かで、傷つきやすい。君のなかにはずっと前からクレアがいたのに、僕らが気づいてなかっただけなのかもしれないね」
「わたしが誰のなかにですって?」
鼻をかむ私を、オスカーは笑って抱きしめてくれました。
「いや、君は君だよ。クレア。僕はこのごろ、君が可愛くてしょうがない」
オスカーの優しさは、クレアの心を急速に彼に傾けました。不仲とはいえ、彼に奥方がいることや、身分が違うことはわかっていても、彼の人柄、静かな笑みに惹かれました。
彼といるときの、この感じはなんなのでしょう。
遠い昔も、彼とこうしていたような気がする。自分と彼が愛しあうことは、前世からの約束のような……。
ある日、ふとしたはずみで、そんな気持ちを少しだけ、オスカーに告げました。
なんだか、オスカーは物思いにふけりながら、
「子どものころ、ままごとの結婚式をした。相手は男の子だったけど、女の子のふりをしていた。僕はすっかりだまされて、あとになってほんとのことを知ったとき、ずいぶんガッカリしたものだ。でも、あれが、僕の初恋だった。彼はその後も僕に鮮烈な印象を残し続けた。自覚はなかったけど、僕の恋が遅かったのは、そのせいだと思う。たぶん、ずっと、ままごとの結婚式の少女の面影を探していたんだ」
十二歳の春。祖父がいて、母がいて、ベレッタやシモーヌがいて……。
もう還らぬ、昔。
「ほんとの結婚をして、その生活に幻滅してから、僕はよく、あのときのことを思いだす。花冠をかぶって愛を誓いあった、もう一人の僕の花嫁。一度はおどろいて逃げてしまったけど、僕は今でもあの子を愛しているのかもしれない。僕もまた、彼の歌声に魅せられた一人だったんだ」
オスカーの手がクレアの肩にかかり、彼は私にくちづけました。彼の言葉は私ではない誰かにむけられたはずなのに、不思議と私の胸にしみこんできます。
私たちはその夜、しぜんに抱きあいました。
涙が星の数も流れるほど、幸福な夜でした。
あのときは、永遠の一瞬。
生まれてきた喜びが全身を満たします。
彼のなかで私が生まれ、私のなかで彼が生まれる。
「なぜ泣くの? クレア」
「わからない。わからないけど、わたしのなかで誰かが泣いている。もう死んでもいいと……」
「バカを言うな。これから二人で幸せになるんだ」
「そうね。ええ、そうね」
幸福な日々でした。
愛して、愛されて、ずっと満たされないでいたものが、いっぺんに満たされた思い。やっと何かをとりもどしたという心地。それは私が生まれて初めて知った、心の底からのやすらぎでした。
今からでも、帰れるものなら帰りたい。
オスカーのそばで、ずっと笑っていたい。
彼の優しい胸。優しい言葉。優しいキスをとりもどしたい。
すべてをめちゃくちゃにしたのは、あの女。
かつて私からオスカーを奪い、狂わせた、あの魔女がふたたび、私たちの前に現れた。
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