ロンドの草稿 その十二 2



「あぶない!」


 とつぜんの怒声。

 目の前に迫ってくる馬車。

 路上に倒れる私。


 馬車は貴族持ちだとひとめでわかる立派なものでした。御者はあわてて馬車をとめました。が、倒れた私のすごい顔(そうでなくてもヒドイのに、涙で化粧がグショグショでしたから)を見て、ギョッとすると、そのまま発車しようとしました。


 ところが、

「待て」


 馬車のなかから声がして、御者をとどめると、一人の若い貴公子がとびだしてきました。まっすぐな黒髪。人なつこい茶色の目。まじめそうな顔をした、私の……知らない人でした。


「君は——」


 彼はかけより、長いあいだ私をまじまじと見つめました。やがて、涙が彼の頬にこぼれ、私を抱きしめたのです。


「君を、探していた。ずっと……」


 彼の声はふるえていました。

 私ときたら、こんな立派な人物が、なぜ私みたいな女を抱きしめて泣くのか、わけがわからず、キョトンとしていました。


「生きていたんだね。グレウス。生きて……」

「あの、お人違いですわ。わたし、クレアという街の女です。殿さまのようなかたとは面識が……」


 ふたたび、彼は私の顔を見つめました。


「僕がわからないのかい? グレウス。僕だよ。オスカーだ。君の従兄弟で……友人の……」


 私の真に愛するただ一人の人、オスカー……。


 でも、そのとき、私は彼の名前を聞いても何も思いだせませんでした。あまりにもつらい過去の苦痛が、何重にも記憶に鍵をかけていましたから。


「僕が、わからないんだね?」


 彼は激しく泣いて、また私を抱きしめます。

 彼の腕に抱かれると、なぜか、むしょうになつかしくなり……。


 思うに、空白の二年のあいだに、私は無意識にオスカーの生家のある街をめざしていたのです。


「あのとき、君を離すんじゃなかった。あんなにすがりついて、すてないでくれと言ってたのに。僕は君をおいていった。僕が君の手を離したばっかりに、君は……こんな姿になって……」


 流しても、流しても、オスカーの涙は止まらないようでした。彼は変わり果てた私を見るに忍びないようです。


「君が、そこまで追いつめられていたなんて……」


 彼の涙が私の頬をつたうたび、私はわけもなく胸の奥が痛くなりました。それ以上、苦しくならないうちに、私は彼と別れようとしました。


「ごめんなさい。お殿さま。わたし、帰りませんと。夫が待っておりますし……ええ、そう。あの人、怒るとすぐ出ていけって言うけど、でも、本気じゃないの。いつもあとになって短気を反省して優しくしてくれるの。身寄りのないわたしをひろってくれて……だから、帰りませんと。早く帰って、夕食の支度もしませんと……」


 彼は強くひきとめて、私を馬車に入れました。


「君の夫というのには、あとで話をつけておく。いったい、君はどんな生活をしてたんだ。君が行方不明になったと聞いて、ずいぶん心配したんだよ」

「ですから、わたしはクレアと申しまして……」


 お城にむかうあいだ、わたしはポツリ、ポツリと、この二年間のことを語りました。ルースのもとで少しずつ息をふきかえした私が、小耳にはさんだウワサや勝手に空想でこしらえた過去の話をまじえつつ。


 私はこのころ、自分をクレアという女で、酒場の踊り子が生んだ父なし子だと思っていました。六つの年に母にすてられ、さまよっていたところを、ルースにひろわれたのだと。年齢とか、細かいことはあっていませんでしたが、私の混乱した頭では、それが真実でした。


 オスカーは馬車のなかでも、お城に帰ってからも、私を正視しようとはしませんでした。私の言葉の一つ一つ、私の仕草の一つ一つが、彼を悲しませるようでした。

 だから、彼が不幸な生い立ちの私に同情してくれたのだと考えました。


「まあ、大きなお屋敷。こんな素敵な部屋、見たことないわ」

「ドラマーレの城にくらべたら、小屋みたいなものだよ」

「ここよりもっと素晴らしいところがあるなんて、わたし、信じられない。ほんとに、この部屋をわたしが使ってもいいの? ああ、ルースに見せてあげたいわ。でも……あの、奥さまがいらっしゃるのでしょう? わたしみたいな汚れた女がお屋敷にいては、奥さまが気を悪くなさるんじゃ……」


 オスカーは苦々しく唇をゆがめます。


「妻はいるが、ここにはいない。旅行をすると言ってたから、どうせまた新しい男ができたんだ。このごろは別居してるがね。彼女は君へのあてつけのためだけに僕と結婚したんだ。僕ときたら、あのころ彼女のしおらしい態度に、すっかりだまされていたからね。もっとも、すぐあとに君が行方不明になったと知って、あてつけも何もなくなってしまったが」


「まあ、不幸な結婚をなさったのね。わかったわ。それで話し相手がほしいのね。いいわ。わたしが聞いてあげる。わたしのこと、誰かとまちがえてもかまわないわ」


 オスカーは遠い目をして、私を見ました。


「君は僕の好きだった人に、とてもよく似ている。彼は僕のあこがれだった。天才というやつで、彼は何をやっても一番。颯爽さっそうとしてね。ほんとはとても深い苦しみをかかえていたが。僕だけがその痛みを知っていたはずだった。なのにウッカリ、自分の恋に夢中になって、彼のことをあとまわしにして……僕をゆるしてほしい」


 オスカーは私の手をとり、嗚咽しました。


「これだけは信じてほしい。僕は君を見すてたわけじゃない。あのときは気が動転して、とにかく落ちついて考えたかった。だから、君の城をぬけだしたんだ。あのあとすぐに手紙を書いた。返ってきたのは代筆の手紙で、君はもう僕には会いたくないと……まさか、そのときすでに君が行方不明になってるとは思いもしなかった。僕が知ったのは一年もたってからだ。今さらこんなことを言っても、とりかえしはつかない。言いわけにしか聞こえないだろうが、この四年間、君のことを案じない日はなかった」


 オスカーが手紙をよこしてきた時期というのは、私の奇行が始まって、一室に閉じこめられていたころと思われます。あんな状態の当主を人前に出すわけにはいかないので、誰かが嘘の手紙を返したのでしょう。もっとも、あのころオスカーに会ったところで、私が正気に戻ったかどうかは疑問ですが。


 私はクレアとして、オスカーをなぐさめ、歌をうたってあげました。

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