十章

ロンドの草稿 その十二 1

 ※注

 カクヨムはR15サイトなので、ここからしばらく省略します。

 状況だけ説明すると、オスカーを探して街をさ迷っていたグレウスは、ひじょうにつらいめにあって完全に記憶を失いました。以下、続きです。



 彼のなかに残っていた、グレウスとしての最後のかけらが消えてなくなって、何もかも忘れてしまいました。


 つらかった過去のこと、全部。楽しかったことも。毎日通った校舎。川面にかかる霧。笑い声。ああ、愛していたよ。君を。セイレーンの歌声。自分がどこの誰で、どうやって生きてきたのか。祖父のこと。母のこと。オスカーのことも……。


 朝になって意識をとりもどした彼は、野良犬のように水を探しました。噴水で喉をうるおし、人からなげあたえられた食べ物で空腹を満たしました。


 彼は物乞いになったのです。いつしか、彼の着ていた服もボロボロになり、顔の化粧もはげおちていました。


 ほんと言うと、このあたりのことは、あまり記憶にありません。生贄にされたあの夜のことが、彼の心を殺してしまったので。生きているという自覚もなく、私はただ本能だけで生きる人形でした。


 記憶がいくらか戻ってくるのは、もう少しさきのことです。あとから考えてみるのに、二年あまりの空白があるようです。


 そう。白状しますが、私はグレウス・ル・ドラマーレです。いえ、グレウスだった男です。これを書いている私は、かつて伯爵と呼ばれた男のなれの果てです。


 私の書くべきことは、もうあまりありません。ですが、私の人生で、もっとも幸福だったことと、もっとも不幸だったことが、このあとにあるのです。


 物乞いをして日々を暮らしていた私をひろってくれた男がありました。このさい、この男の詳細は重要でないので、はぶきます。が、私を完全な自己喪失から、いくらかでも正気の側に戻してくれたのは、たしかにこの男のおかげでした。


 彼は薄汚れた、ざんばら髪の私のなかに、舞踏会の花形だったころの私の片鱗を見いだしたのでしょう。家につれ帰り、きれいに洗ってくれました。むろん彼には最初から、私を利用しようという意図があったのでしょう。ですが、私の恩人ではあります。


 卵からかえったばかりの鳥のヒナが、最初に見たものを親だと思うように、私は無条件にこの男に心をゆるしました。

 人間らしい感情が日に日に戻り、この男のささやいてくれる、うわべだけの愛をすっかり信じてしまいました。長いトンネルのなかをさまよっていた人が、ひとすじの光を見つけたように、狂気のなかから、はいあがりかけていた私は、そのきっかけをくれた彼に全身ですがりつきました。


 たぶん、そのせいで、のちに彼は私を重荷に思うようになったのでしょう。


 最初のうちはまずまず、うまくいっていました。なにしろ私は生まれたての赤ん坊といっしょです。彼の言うことはすべて正しく、彼の喜ぶことが私の喜びでしたから。彼が自分で働くかわりに私を街頭に立たせ、客をとらせても、何も疑問に思わなかったのです。


 そうして私はゼロ歳から人生を生きなおしていたわけですが、そのとき、なぜだか、自分を女だと思いこむクセだけはぬけませんでした。

 たぶん、封印されたグレウスの記憶の最後のあたりが、私にそうさせたのでしょう。私は彼にみっともないと罵られながらも、小柄な少女が着れば似合うような服を着たがり、厚い化粧をし、そして彼のために夜の街へ出ていくのです。


 ちょうど二年。そんな生活が続きました。

 運命のイタズラが起こったのは、あの日。

 今から五年前のことです。


 そのころ、私は私をひろってくれた彼(ルースという名でしたが)と、毎日のように口ゲンカしていました。二年のあいだに私も知恵がついていましたし、彼は前述のように私を重荷に思い始めていたのです。


 あの日、いつものように昼ごろに起きてきた私は、ウンザリしている彼をよそに、自分に似合わない女物の服を着て、厚ぬりの化粧を始めました。今思うと、ルースがやめさせたがるわけもわかるのですが、あのころはそれがふつうだと思っていました。


「朝は昨日の残りものですませてね。わたし、買い物に行ってくるから」

「そのカッコで歩くのはよせよ。笑われるのは、おれなんだぞ」

「わたし、笑われるようなことしてません」

「鏡を見ろ。見苦しい」


 こう言われるのが、私にはひどくつらいことでした。自分は女だと信じていましたから、女の服を着ることが変だとは思わなかったのですが、それにしても、いくら着飾っても似合わない自覚はありました。だからよけいに化粧は厚くなるし、そうするといよいよ化け物のようになるという悪循環。


「そんなに言わなくてもいいじゃない。わたしが醜く生まれたことは……わかっているのよ」

「だったら化粧なんてするな。そんなカッコで行くから、昨日も客がとれないんだ」

「だって、わたし……」

「まさか、わざとか? わざと客をよせつけないために——」

「違う。違うわ。でも、わたし、もう嫌なの。あなた以外の人に肌をふれさせたくない」

「じゃあ、どうやって暮らしていくんだ。金もパンも残ってないんだぞ」

「わたし、働くわ。台所でも、洗濯でも、なんでもしてお金をかせぐから。お願い」


 何がおかしいのか、ルースは笑いだしました。


「誰がおまえなんか雇ってくれるものか! おまえみたいなできそこないの男女」

「ひどい……いくら、わたしが醜い女でも……そこまで言わなくても……」


 ルースは怒鳴りつけました。


「おまえは男なんだッ。何度言ったらわかる!」

「わたし、女よ?」

「もういい。出ていけ。狂人の寝言にこれ以上つきあってられるか。二度と帰ってくるな」

「待って。ルース。ごめんなさい。もう口答えしないわ。ゆるして。わたしをすてないで」


 ルースは私をひきずるようにして戸口の外につれだしました。そのまま、扉に鍵をかけてしまいます。


「ルース! なかへ入れて! お願い。ルース!」


 私は泣きくずれて扉をたたきました。そういうケンカはそれまでにもありました。が、そのときはついに最後まで、ルースは私をなかへ入れてくれませんでした。


 きっと彼は昨日、わたしの稼ぎがなかったから怒っているんだ。イヤだけど客をとって、たくさんお金を持って帰れば、きっとゆるしてくれる。いつもみたいに、わたしをゆるして、待っていたよと言ってくれる。


 そう思って、とぼとぼ歩きだしたのです。


 いったい、どこをどう歩いたのか。大通りをよこぎったのは、ぐうぜんでした。人々の蔑みや嘲笑が恐ろしくて、人通りの多い道を、ふだんはさけていましたから。


 なのに私は、その日にかぎって大通りを歩き、あやうく馬車にはねられるところでした。ルースとケンカしたことで頭がいっぱいで、まわりのことが見えてなかったのです。


(どうして、わたしは、みんなにすてられるんだろう。わたしはそんなに醜いんだろうか。そんなに罪深いんだろうか。わたしの何が悪いのだろう……)


 誰かに泣いてすがって、すてないでくれと言った……あれは、夢?

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