二章
ロンドの草稿 その二 1
たぶん、それは一目惚れというものでした。
自身は長いこと、この事実を認めませんでしたが、グレウスは異性を愛せないたちでした。
それというのも、彼の家庭における女たちの印象が、はなはだよろしくなかったので。
また、兄妹のなかでただ一人の男として、周囲からの過剰な期待が重圧だったせいもありました。心のどこかで自分も女だったら、どんなにラクだったかと思っていたのです。
姉たちが気まぐれで起こした小さなイタズラは、少年のグレウスに予想外に強い影響をおよぼして、その後もずっと心の奥に
「おどろいたなぁ。グレウス。君、ずいぶん勉強が進んでいるんだね。数学も歴史も、てんで追いつけない」
出会いは最悪でしたが、オスカーは逃げ帰りはしませんでした。てっきり、あのイタズラを侮辱だと受けとって、オスカーが腹を立てて帰ってしまうと思っていたのですが。
おとなしそうな顔をして、オスカーは案外、芯のしっかりした少年でした。もっとも一族総本家の次期伯爵に逆らえないことは、もう充分にわかる年でもありました。
「家庭教師は、ぼくの学力でも入学には申しぶんないって言ってたよ」
「首席でなければ意味はないんだ」
「それはまあ、いい成績にこしたことはないけど、あんまりムリするのも……」
グレウスににらまれて、オスカーは黙った。
初めのころのオスカーは、たいがいこんなふうだった。ワガママな若様につきあってやっているのだと、ありありと感じられた。
遊び相手とは名ばかり。
将来、伯爵の側近になれることを担保に、子どものころから家族と離れ、一人、他人の城で人質のような生活をする。
グレウスだって、そんなことはわかっているから、たいして期待はしていない。
いや、そのつもりなのだが、それにしても、やかましい姉たちや泣き虫の妹たち、気弱な父、恐ろしい母、そういう人々になれたグレウスにとって、同年代の気楽に話せる少年の存在はありがたいものだった。
「学校はやっぱり皇都へ行くのかい? グレウス」
「あたりまえだろう?」
「そりゃそうだけど」
ユイラ皇帝国は十の州にわかれています。州ごとに大きな学校もあるのですが、やはり歴史的格式といい、学問の水準といい、皇都の帝立学校にはかないません。名門の子息は古くから帝立学校へ行くのがならいです。
皇都の貴族は七、八歳から初等部へ通うのですが、州の違う貴族は十四、五になってから高等部へ入ることが多いのでした。入学すれば、遠く親元を離れ、めったに故郷へ帰ることもできませんから。
「まさか、君。父上や母上のそばを離れたくないなんて、言うんじゃないだろうね?」
オスカーがムッとする。
「そんなこと言うくらいなら、君の遊び相手の話が来たとき、ことわってたよ」
「イヤなら、今からだって帰ればいい。ぼくはかまわない」
「君はときどき、ひどく意地悪を言うね。ぼくがことわれないの、知ってるくせに」
「ああ、そう」
グレウスは背をむけて歩きだした。
長い廊下に人影はなく、古い、いかめしい造りのドラマーレの城は、昼でも薄暗い。
「ほら、またそうやって、すぐ怒る」
「さきに怒ったのは、そっちだろう」
「君がバカにしたからだ」
「侍従をバカにして何が悪い。君はせっせと、おべっか使ってればいいんだ」
ちょっと言いすぎたとは思ったけど、ケンカは勢いだから止められない。おどろいたのは、オスカーが平手でグレウスの頬をはたいてきたことだ。
「ぼくをなぐったな!」
「なぐったとも!」
グレウスは叩きかえした。
オスカーもなぐりかえしてくる。
もっとも貴族の子息同士のケンカだから、ゲンコツではないし、いたってお上品なものだが、それでもグレウスにとっては生まれて初めてのなぐりあいだった。
「君なんか、今すぐ追いだしてやる!」
「ぼくだって、かわいそうな子だからって母上に頼まれなけりゃ、誰が君みたいな高慢ちきなやつの友達になんてなるものか!」
その言葉はどんな悪口雑言より、グレウスの胸につき刺さりました。
かわいそうな子。
グレウスはかわいそうな子。
——どうして叔母上は亡くなったの? ご病気だったの?
「ぼくはかわいそうなんかじゃないッ!」
グレウスは叫んで逃げだしました。
(そうだ。ぼくは立派な大人になるんだ。決して、あんなふうにはならない)
血まみれになって倒れていた女の映像を、頭のなかからふりはらいます。
呪われたドラマーレの血筋。
伯爵家の権威の前に、みんな、うわべではお世辞を使っていますが、陰では嘲笑っているのです。
(イヤだ。イヤだ。ぼくは、あんなふうにはなりたくない)
グレウスは自分の部屋に逃げ帰りました。
——叔母上。誰と話してるの?
——小鳥とよ。
——ウソだよ。そんなの。小鳥とお話なんてできないよ。
——あらあら。ちゃんとできるのよ。いい子ね。グレウス。明日、もう一度、ここに来たら、叔母さまが鳥になってあげる。
——ほんと?
——ええ。約束。
幼い日の思い出がよみがえります。
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