第7話
程なくして、ぴくぴくと黒い鼻を動かす結狐。すくっと立ち上がると蕩けたような表情になり、何かに取り憑かれたように部屋を出て行こうとする。
「ん?結狐、突然どうしたんだ……」
「美味しそうな匂いがする……匂いが私を呼んでる……!」
周囲の匂いを確認しようと嗅覚を研ぎ澄ませてみるも、いつもの部屋の臭いがするだけで特に結狐の言っている美味しそうな匂いというのはしない。
結狐の姿からして、普通の狐にカテゴライズして良いものか悩まれるが、狐というのはイヌ科だ。それに限らずとも猫も含め総じて嗅覚は人間の何千、何万倍も優れていると言われている。
結狐の嗅覚も、例に漏れず俺と比べて相当高いのだろうが……下半身露出させた状態で家の中を散策されるのは不味い。
「結狐、暫くの間家の中にいるときは狐の姿でいてくれないか。服を買うまでの辛抱だから、一生のお願いだ」
「えー……うーん」
「今まではそれが普通だったのかもしれないけど、ここでは色んな意味で困るんだ!お願いします!」
「分かったわよ」
何度かのお願い、懇願の末渋々了承してくれた結狐は狐の姿になると「これなら良い?」と質問してきた。
肯定の返事を返すと、結狐は目にも止まらぬ早さで階段を降っていく。一瞬、惚けた俺は慌てて追いかけた。
◆
「俊哉さん……狩猟に行くのは良いですけれど、ほどほどにお願いしますね」
「はっはっは、いつも言っているだろう。狩猟者の掟として、過剰な狩りは良しとされていない。言われずとも、程々にしてる」
「そういう意味ではなくて……」
バタバタと追いかけた先の向こうからは、母さんと爺ちゃんの会話が聞こえてきた。ここはリビングの扉の前。俊哉というのは、爺ちゃんの名前だ。結狐はそこで止まっていた。
ここまで来れば、結狐の鼻が捉えた匂いの正体というのも分かる。言わずもがな夕飯の匂いであった。だが、まだ呼ばれていないことから準備中であろう。
「父さん、結狐のことちゃんと説明してくれてるかな……」
「ねえ空君、すっごく良い匂いがする!早く食べに行きましょうよ!」
「ちょ、そんなに服を引っ張らないでくれ。伸びて皺になるから!落ち着け!」
結狐は器用にも服を手で掴むとリビングの方へ俺を引っ張る。完全に夕飯に参加する気満々だけど、当然ながらこの家には昨日まで結狐はいなかった。
そして、この家に帰ってきた時は母さんと会っていない。今、夕飯を作ってくれているのは母さん。説明していなければ、結狐の分など用意されていないのは自明の理だ。
「結狐、ここで待っていてくれるか?ちょっと母さんに説明してこなきゃ」
「お腹が空いて、お腹と背中がくっつきそうなの!」
今の狐の姿からは、どんな感情であるのかイマイチ分からないけど、声からは必死さが伝わってくる。
そういえば結狐は小屋の中でずっと一人だったんだよな。どうやって食い繋いでいたのだろう。
俺もよく考えてみれば、狩猟の前に食べた朝食が最後であることを思い出す。遭難していたので食いっぱぐれていた。自分の腹から見計らったかのようにぐぅぅと音が鳴る。
「俺もお腹空いてきたな……あーもう、分かったから。お願いだからここで待っててくれよ?」
勢いよくリビングへと足を踏み入れる。すると、鹿肉の仄かに香る独特な臭みを掻き消すように絡められた、極上のソースの匂いが充満していた。
キッチンでは母さんが夕食の準備をしている。何か具材を切っているのだろうか。トントンと小気味良い包丁の音が響いている。
いつもの会食の席ではそんな音を意にも介さず、爺ちゃんが新聞を読んでいた。あれは完全に自分だけの世界に入っているだろう。
そして、TVが置かれている方を見遣れば、父さんがソファで寛いでいた。今は何かエンタメの番組を見ているようで、時折笑っている。
漂う肉の匂いに触発され、猛烈にお腹の音が鳴り始めるが、それを無視して、母さんに結狐の分を頼むという目的を遂行しに行く。
「ねえ母さん」
「なーに?」
「あの」
うーん、母さんにどう説明すれば良いのだろうか。そもそも母さんは結狐についてどこまで知っているのか。
このリビングには、爺ちゃんと、そして父さんがいる。しかし、祖父は結狐が言葉を喋れることしか知らないはずだ。
父さんが馬鹿みたいに笑っている様子を見ると、人の姿にもなれることを言ってくれているのか一抹の不安を覚える。
まあ、とりあえず聞いてみよう。
「狐を、俺と祖父が連れてきたのは知ってる……?」
「知ってるわ。何でも、喋れるそうじゃないの。父さんから聞いたわよ」
父さんが説明してくれていたことに感謝する。てっきり、爺ちゃんが教えてくれてると考えていたが、父さん……あの調子だからな。
帰宅の際の、開口一番に放たれた『おかえリッツ』という言葉が頭の中で反響する。それを掻き消すように頭をぶるぶるとして本題に戻る。
「うん、そうなんだ。それで、なんだけど、人の姿になれることも、もう聞いてる?」
父さんがエンタメのテレビを見て笑う声が部屋にこだまする。それと同時に何かが駆け回るような音も微に聞こえた。……こちらは真剣な話を母さんとしているというのに五月蝿いな、全く。
「……」
母さんは料理の手を止めるが、俺の質問には答えない。よく見れば俺ではなく、背後にある一点を見つめているような。
「ど、どうしたの?」
「その、今席に座っている子?」
「え゛」
思わず嫌な予感が、悪寒と共に身体中を駆け巡った。反射的にリビングの席に目を向けると、結狐が勝手に椅子に座っている。
ここで重要なのは、椅子の上ではなく、椅子に腰掛けて座っているということである。それは言うまでもなく、狐の姿ではないということ。
風呂場で見た中学生くらいの少女の顔つきと体躯で、狐耳をぴょこぴょこさせながら何食わぬ顔でいた。涎が垂れそうになっているだらしない顔もセットで。
この視点からは見えないが、恐らく尻尾も元気に動いているだろう。
「結狐!?」
「ゆこ?」
思わず、名前を叫ぶと母さんから疑問の声が飛ぶ。……そういえば名前を決めたのはさっきのことだ。爺ちゃんは勿論のこと、父さんにだってまだ教えていなかった。
「あー、えっと、この子の名前」
「なんだ。名前、空がつけたのか?」
「い、いや、ちが──」
俺は無性に恥ずかしくなり否定しようとする。
俺の人生は、16年間。この間に、何かに名前を付けるみたいな経験は殆どなく、動物に名前を付けることも同様にしたことない。
それも影響してか、自分が作った名前を家族の皆んなに公表するのには心の準備が欲しかった。しかし、現実は待ってくれない。
結狐は、真剣な表情に瞬時に戻ると、意気揚々と挨拶を始めた。
「改めて、空君の家族の皆さん、空君に結狐っていう素敵な名前を付けてもらいました。よろしくお願いします」
自分が考えた名前を、流れるように褒められた俺は顔を引き攣らせる。嬉しい気持ちが一つと、この気持ちを隠したい気持ちの両方が綯い交ぜになった結果だ。
この挨拶は不意打ちではあったが、咎めることもできないし、咎める理由もない。結狐は、純真無垢な顔でにこにこしていた。
思わずその年相応の仕草にドキッとするが自分の感情を何とか抑えつける。
「……ふぅ。うん、俺が名付けました」
「良いネーミングセンスだな。息子の子だとは思えない」
爺ちゃんがそう言う。正直言って、この名前はあの時、結狐が髪を結いたいという言葉なければ生まれなかった。だから、100%俺が作ったとは言い難い気もする。
息子の子というのは、この場合、爺ちゃんの息子。つまり、俺にとっての父さんのことを指しているのだが、何も言うまい。父さんのネーミングセンスは壊滅的なのである。
「おいおい。いやまあ、自覚はあるが。ん……?」
爺ちゃんの余計な一言を目ざとく聞きつけた父さんはこちらに目を向けると同時に不思議そうな表情をした。
「だ、誰だ⁉︎空、ついに手を出したのか⁉︎」
「父さん、そんなわけないだろ。狐耳と尻尾が生えてるんだぞ」
そういえば父さんが部屋で見たのは、また別の形態の結狐だった。今の姿は限りなく人間に近しいもの、驚かれるのも無理はなかった。
だが、そんな見知らぬ女の子がいたからって真っ先に俺を疑い、そして何かしら性的行為に及んだのではないかという疑問を持つのは可笑しいだろう……。
……大事なことを忘れている気がする。
「って……結狐、まだお前服着てないだろ!」
「だって……早く食べたくて。席に座ればご飯出てくるんじゃないの?」
「人の姿にならなくても、ご飯は貰えるから!とにかく、暫くの間家の中にいるときは狐の姿でいてくれって約束しただろ」
結狐は、はーいと簡単な了承の意思を返して狐の姿に戻る。思わず、生理的嫌悪を催しそうな変身の過程に鳥肌が立つが、一度見ているため取り乱しはしない。
爺ちゃんや、父さん、母さんは揃ってこちらに目を向けていたので、その光景を見てしまう。数十秒間、辺りに静寂が満ちた。
「みんな、どうしたの?」
結狐が沈黙を打ち消すように問いを投げかける。
リビングの空間では、その後結狐についての詳しい説明をすることになった。あと、忘れずに、母さんには結狐の夕飯を追加するのを頼んだ。
◆
「鹿肉のステーキなのか」
「どうしたの?嫌だった?」
「いや、別にそういうのじゃないんだけど」
爺ちゃんが鹿をよく狩ってくるので、この家庭での料理は鹿肉が多い傾向にある。その為、また鹿肉なのかという気持ちが漏れてしまった。匂いに触発されて口の中からは絶え間なく唾液が出てくるけど。
鹿肉自体は好きだ。味は牛肉と遜色なく、非常に美味しい。脂身も少なくあっさりしているので、とても食べやすいという素晴らしい食材だ。
だけど、何度も食べたらそりゃ飽きてくるのは無理ないと思う。
爺ちゃんは羽釜を開けると、金の杯にほかほかとした白飯をよそった。
「空、仏壇にご飯お供えしてこい。ふむ、丁度いい。結狐もこれからここに住むなら家族だ。一緒にしてきたらどうだ」
「はーい」
夕食前に、金の杯にご飯をよそり、仏壇にお供えする。これは我が家のルーティンである。
「結狐、そういうことだから、良かったらするか?特に楽しいことでもないんだけど……」
「いいよ。空君についてく」
快く結狐から快諾を得た俺は、リビングを出て廊下を渡る。間も無く、仏壇のある部屋だ。
仏壇の置かれた部屋は、和室で、藺草の匂いが篭っている。仏壇の上には、祖母の写真が立てかけられていた。
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