第6話

 体を拭くことさえ忘れて、ダンダンと勢いよく階段を上る。そして案の定盛大に滑る。


「おわっ!?」


 何とかつま先で体を支えて、自室へと戻ることに成功した。さっきのずっこけがどうでもよく思えるほどの非現実な光景が未だ目の裏で再生され続けている。体の疲労感が全身に行きわたってめまいがする。


「おいおい空、どうしたんだよそんな慌てて!」


 父さんがこれまたダンダンと階段を駆け上がってきて僕の部屋に飛び込んだ。僕も父さんも息は荒い。しかもこっちは生まれたままの姿だ。なんだこれは。


「い、いやあの、狐、きつねが……」

「狐に食われたか!?それとも食おうとしたんか!?」

「狐は食わねぇよぉ!」


 狐を食べようとしたというのには突っ込まないでおいた。きっと『そっちの意味』に違いない。ふと階段から音がする。今度は爺ちゃんかとも思ったが音の速さと重みが違う。タンタンと軽い音で、爺ちゃんよりんも早く上ってくる。家には母さんはいない。つまりは、あいつだ。


「どわーっ!?」


 父さんが叫び膝から崩れる。きっとあの少女の形をした奴に違いない。そいつ、いやそいつらしき者が俺の部屋の前で急ブレーキをかました。


「ちょっと、なんで急に飛び出すわけ!?」

「え……!え……!?」


 もうわけがわからない。体にはさっきの狐と同じ毛が短いながらも全身に生えていて、鼻先は動物みたいに黒い。ライトノベルとか漫画で見た『獣人』と全く一緒の姿。そんな奴が目の前で、しかも全裸で俺の部屋の入り口で仁王立ちをかましている。女の子の大事な箇所は獣人の毛で隠れているにしても、思春期を闊歩している真っ最中の僕には刺激が強すぎるという域を超えてしまっていた。


「あ、え、あ……」


 言葉が出なくなる。酸欠を起こしたみたいに頭がくらくらして痛い。そして別の部位も痛い。主に下半身。


「あ、ちょ、どこおっきくしてんのよヘンタイ!」


 女の子座りのような体勢であった僕が悪い。だが『それ』に気づいたお前も同罪だ。僕の頭がそんな意味不明な遺言を残した直後、前頭葉付近に激痛が走り視界もろともシャットアウトした。




 目の前にはさっきと同じ獣人の少女が座っていて、僕と対面するような形になっている。もちろん彼女は服なんぞは着ていない。僕は下着だけさっさと穿いた。


「あの、なんか服着てください……下だけでもいいんでぇ……」

「きみのパンツ穿いていいの?」

「あ、やっぱTシャツだけでオネガイシマス……」


 変な妄想が頭を埋め尽くす前にTシャツをとって投げ渡した。心臓の音が彼女に聞こえそうなほど激しく鳴っている。持久走で残り一分の時に全速力を出した時よりもドキドキと鳴っている。ドキドキというよりバクバク、いやバッコバッコという感じに響いていて、息が変に荒くなる。


「いやぁ、さっきはすまないねぇ。急に頭に手刀かましちゃって」


 笑いながら朗らかに答えてみせているが、痛いとかいう言葉が通用しないほどの激痛だったし、手刀は普通赤の他人に飛ばすものではない。耳をパタパタ動かしながらスパーンという音が鳴って気持ちよかったと彼女は続けて言ったが、スパーンが鳴らない程度の力にはできなかったのか。未だに前頭葉がピリピリする。


「おまたせ~」


 ドアが開いたその刹那、彼女はまた風呂場で見たあの姿に一瞬でなった。待て、その姿はいろいろとこっちの都合的に悪い。Tシャツの裏が透けて見えるような気がしてしまい、無意識に目をそらした。入ってきた父さんはせんべい類の菓子を持ってきていて、やはり元獣人現少女の方をじろじろと見ていた。


「空、もう手を出したんか」

「なんでTシャツ一枚で判断するかなぁ」


 やはりそっちの方の話をし出す。彼女は少しにやりと笑っているように見える。笑ってはいるけれど一応目の前にいるのは自称神なのだから、もう少し場を弁えてほしい。菓子を置いたら父さんはそそくさと出ていって『ほんじゃ楽しんで』と笑って出ていった。楽しむってなんだ。どっちの意味なんだ。そしてなんで彼女はいつの間にか獣人の姿になってるんだと思ったが、女の子ゾーンが隠れるので極力今はそのままでいてくれと思った。


「ということで改めて自己紹介。私は神様です!名前は覚えとらん!あと見ての通り変身ができる!以上!ここに今日から居候するんで、よろしくお願いします!」

「え、名前覚えてないの?てかあったんだ」


 威勢よく自己紹介をする目の前の自称神。目はくりくりキラキラしていて若干威圧さえ感じる。居候もとい保護するというのは帰る前に決まってしまったのでもう突っ込まないが、名前がないということには驚いた。まずどうやって呼べばいいか。安易に狐と呼ぶか、あだ名か何かをつけるか……。


「なあ、名前決めた方が良くないか?」

「名前かぁ……」


 彼女はしんみりしてみせた後、


「うん、じゃあお願いするよ」


 と言った。そして目をこすった。


「って言っても名前ねぇ……どうしようか……」


 安易に名前を付ければ絶対に怒られるだろう。また前頭葉大破壊チョップを下される可能性だってある。真剣に考えなければ……。真剣に……。だめだ……。彼女の下半身に目が行く。何故とは言わないが、視線が吸い込まれる。ふわふわの毛並みが時たまクーラーで揺れ動いたり、太ももがすれる動きの一つ一つに目を奪われる。だがしかし、いかんいかんと妄想を振り切って名前を決めようと目を瞑る。


「う~ん……う~ん……?」

「そんな悩むんなら、決めなくていいんじゃない?狐さんとかで呼んでくれればいいし」


 そう言われてはいそうですねとはあまり言いたくない。頼まれたことは最後まで通さないとバツが悪い。こういうところがある意味頑固なのかもしれない。必死に考える。あちこちを見回したりして、パッと何かいい案が浮かんでこないかと思ったりしたが、いい案が一つも浮かばない。もやぁっとした生暖かい案だったものだけが残るのみだった。


「ちょっとさ、髪を結うやつなんかないかなぁ?紐とかでもいいから」


 不意に彼女がそう言いだす。結う。そうだ結うだと僕の頭がフル回転しだす。キュルキュルととんでもない回転数を出しながら答え導き出されていく。


「そうだ。結狐(ゆこ)」

「へ?なにそれ」

「お前の名前だよ。結狐。どう?」

「……うん、いいと思うよ。なかなかいいじゃん」


 彼女、もとい結狐は笑ってみせた。さっきよりも一段と可愛く見えるような気がするが、自分で名前を付けるのがここまで恥ずかしいものなのかと勝手に思い知らされた。顔が熱くなる。


「とりあえずさ、紐かなんか取って。髪結いたい」

「あ、うん」


 スペアでとってある靴紐を取って渡してやると、かなり慣れた手つきで髪を結い始めた。手が右から左へ行ったりして、紐の音がするすると聞こえる。


「そういえばさ、君のことはなんて呼べばいい?」


 唐突にそんなことを言われ、体が少し跳ねる。


「え、空でいいよ」

「そんじゃ空君」

「何?」

「紐、ありがと」


 空、と呼ばれて意味もなく恥ずかしくなる。恥ずかしくなってばかりだな、僕は。と思ってしまった。髪の纏まった結狐は、とても綺麗だと思えた。

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