第3話

 よく聞き慣れた声が、俺の名前を呼んでいる。暗く閉ざされた意識は、この朧げな声に反応した。


「……ら……」


 今とても気持ちよく寝ているというのに、睡眠の邪魔をするのは一体誰だ……。いつもなら母親が起こしにくるけど、あれ、俺は一体何をしていたんだっけ。


「空!」


 叱咤するような感情を帯びた嗄れた声が意識を現世へと引き摺り戻した。慌てたように身体を震わせると、膝の上にもふっとした柔らかな感触、そして確かな重量感があった。


 瞼を開けば、声とは裏腹に優しい表情をした爺ちゃんが立っていた。周りを見渡し、そして膝の上で未だに寝息を立ててすやすやと眠りに更けている狐を確認する。


 何だかその姿に心身共に癒されて浄化されそうになる。そうだった。


 爺ちゃんの目を盗んで、自分勝手なことをした結果、山の中で迷子になって……遭難したんだった。


「空、よかった。死んでなくて、よかった……」

「爺ちゃん……」


 完全に自分の不注意により起きた事故であった。そのことを強く自覚しているから、余計に罪悪感と後悔で胸が一杯になる。


「ごめんなさい、勝手なことをして、こんな事になって」

「空が無事でいてくれるだけで、良かった。兎に角、もうすぐ夕方だ。早く帰るぞ。それと……」


 爺ちゃんの目線を辿った先には、言わずもがな膝の上に居座り続ける山吹色の狐がいた。そういえばこの狐は、世にも奇妙な事に喋っていた。確実に、声を出して喋っていた。俺の分かる日本語を。獣の言葉とかじゃない。人の喋る言語をだ。


 あれは……夢などではなかったのだろうか。もしかしたら、頭を強く打ち付けたことに起因する幻覚症状の一種だったのかも。


「今日は何も収穫がなかったと思っていたが、ついているみたいだな。今夜は狐鍋にしようか」


 そう言うが否や、早速とばかりにライフル銃のメンテナンスを行い狐を撃つ準備を始め出す祖父。


「え!?いや、爺ちゃん、待ってくれない?さすがにかわいそうだよ……それに……」


 食べないって俺はこの子に言ったんだ。って馬鹿正直に話せたらどれだけ楽なことだっただろう。爺ちゃんに頭が可笑しくなったのかと思われてしまう。


「ん?何だ。空、その狐に愛着が湧いたのか」


 何方にしろここを移動するために立たなきゃいけない。少し可愛そうだけれど、狐は起こすことにしよう。


「起きてるか?俺、もう家に帰らなくちゃいけないから、起きてくれないか」


 トントンと優しく叩いたり、身体を手で揺すって刺激を与えることによって覚醒を促してみる。


「もう朝なの?」


 人らしい幼さの残る声でそう呟くと、むくりと軽やかに狐は起き上がる。そのまま祖父の方へと肉球を備えた手を持ち上げて進んでいく。コツンと頭がぶつかる。そして、そのまま天辺へと顔を向けた。


 祖父と狐、双方が対面し、双方が固まっている。


 狐は震え出す。


「た……食べないでください!お願いします食べないでください!どうかこの通り!」


 喋る狐が土下座している。よくその骨格で器用な姿勢ができるなと思ったり……ってこの下りさっきもした気がする。


 やっぱりあれは夢なんかでは無かったんだ。


「大丈夫。この人は俺の爺ちゃんだから」


 先程狐鍋にしようと積極的に食そうとしていた祖父の何処が大丈夫なのか。俺も分からないが、一先ず狐を安心させてあげたかった一心で放った言葉だった。


 狐は此方に振り返り、一瞥する。


「本当だな?」

「本当だよ」


 ここで一息吐く。すると、祖父が漸く思考停止の状態から治ったのか、反応した。


「何だその狐は」

「いや……俺もよく分からない。遭難したあと、この小屋を見つけて、人の声が聞こえて、そしたら狐だったんだ」

「そうか……長く生きていると不思議なことに出会うものだな」

「俺はまだ16歳だよ」


 『俺もその現場にいるのですが』という意味を込めて、祖父の何気ない台詞に茶々を入れておく。こんな事で時間ばかり経つのは良くない。日が暮れて仕舞えば、この森の中にいるのはとてもおっかないだろう。


「もう俺は家に帰らないといけないから、お前とはここでお別れだな」


 座った体勢から起き上がり、狐に一声かけると立ち所に小屋から出て行く。外の景色に目を向ければ、すっかり霧は晴れ、視界も明瞭になっている。


 じめじめとした不快な空気も、漂っていない。太陽は斜め上に存在を確かめることができた。間も無く空は茜色になるだろう。


 ふと気になり、狐の様子を確認してみればこちらを一瞥することもなくごろんと小屋の床で横臥していた。


 ここに再び来訪した際にも、この狐はいるのだろうか。大した会話もせず別れてしまうのは名残惜しく感じてしまうがしょうがない。


 もやっとした心境を携えながらも、祖父についていくことだけを考える。




 帰路について間も無くだった。


「お、おい」

 

 背後を見遣れば、狐が1匹。……この声は、間違いなくその狐のもの。


「まさか、付いてきたのか?」

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