第2話

 痛みが頭と体を支配している。目の前は依然として黒い。

 空気には雨のようなにおいが少しずつ混ざっていく。雨が降るのだろうか。だとしたら一刻も早く起きなければならない。だがしかし、いくら念じようが体は動かない。死ぬのではないかと絶望にも似た思考だけが脳内で蠢き、脳をいやというほどに活性化させる。息が苦しい。

 かさかさ、と草を駆ける音が聞こえる。獣の類であろうか。近づいているように聞こえるが、定かではない。俺は起きようとする。だが体は一切動かない。音が近づいてくる。唾液が出る。心臓が痛いほど鳴る。また近づいてくる。いる。俺の隣。多分頭の近く。


「チー!!」


 途端、頭から甲高い音が聞こえる。俺はやっと目を覚ませた。そしてずりずりと音の方向から離れる。音。もとい声の主はリスだった。


「……はぁ……」


 安堵の溜息が漏れ、身体の力がずるずると抜けていく。リスは行ってしまった。俺は立ち上がって辺りを見回した。


「……あぁ……あぁ……」


 涙が出そうになる。というかもう出ていると思う。景色は一切見たことのない所だった。霧が立ち込めているし、足場も危うい。こんなところに落ちてよく死ななかったなと思う。その刹那、ずりりと足元の土が崩れる。


「おわっ!」


 早くここを抜けないと本当に死んでしまうと恐怖心が渦巻くが、一体全体どこに行けば助かるのか見当もつかない。ふと、声が聞こえる。


「おーい、そらー!どこじゃー!」


 微かに森の中で響く、祖父の声。俺は叫んだ


「じいちゃーん!どこー!」


 聞こえたかどうかわからない。だがこうするしか手はない。


「そうだ!携帯!」


 ポケットからスマートフォンを開く。 ふと、希望と不安が頭をよぎるが、希望は一瞬でかき消された。上部の圏外という文字を見てまたも涙が出そうになる。俺は歩き出す。どことも知らないが、とにかく歩いて祖父と再会しなければと強く思った。三歩目でまた足元が崩れた。生きて帰れるか心配になってくる。




 スマートフォンを確認すると、どうやら歩いて三十分は立ったそうだ。脹脛が少し震えている。森の匂いは一層強くなる。木々にはツタやらコケが付いており、森の緑を深くしている。どこからか鳥なのか獣なのか分からない鳴き声が木霊する。森は暗くなっていく。


「おーい!じいちゃーん!」


 数分に一度叫んではいるが、山に反響してどんよりとした霧に溶けて消えた。祖父の声はあれから一切聞こえない。俺がさまよう歩いているうちに、熊やら何かに襲われてしまうのではないかと思うと鳥肌が立ち、手汗が出ていき、体温がぐっと下がるような感覚になる。


 そうして歩いていると、木々の間から赤い何かが見えてきた。俺は警戒して近づく。心拍数が上がっていく。少し近づき、それの全様が分かった。小屋だ。安堵する。これで多少は身の安全を確保できたと思うと体の力が抜ける。俺は扉を開けようとした。


「ひぃ!」


 ドアがきしむ。その音に反応して中から声がした。冷や汗が過去一番に出た。中に人がいる。だがしかし、それは一時的ではあるが仲間が増えるということだ。そうであると願いたい。急に襲われたりしませんように、と願いながら扉を開けた。




 中をそろそろと見てみる。人はいない。だがしかし、声の主はいる。


「た、食べないで……」


 中には、一匹、いや一人か。


「食べないでください!!!」


 喋る狐がいた。




「お願いします食べないでください!どうかこの通り!」


 喋る狐が土下座している。よくその骨格で器用な姿勢ができるなと思ったり、なぜ狐が喋っているんだという困惑やらかわいいなどの感情が土砂崩れを起こしている。狐の周りには古くなってボロボロになった新聞紙とちょっとした果実と木の板が数枚――床か天井の一部がはがれたものだろう――あった。部屋の中はかび臭い。


「いやそんな、食べないから……」

「じゃあ売るんですか!?それとも皮とか剥ぐんですか!?やめてくださいごめんなさい!」


 明らかに錯乱している。山吹色をした太い尻尾が縦にびーんと立っており、また山吹色をした体もびくびくと震えている。俺は狐に近づいていく。狐は動かない


「わわわわわ来ないで!やだ怖いよぉ!」


 そのまま隣に寄り添う。


「大丈夫だって、食べたりしません」

「うそだぁ、絶対私を鍋にするか皮剥ぐとか考えてるぅ!」

「だからそんなことしません。だったら反撃すればいいじゃんか」

「反撃とかはいろいろあって私にはできないんです!」


 色々とはなんだ。と言おうとしたが叫ばれるだけだと思い飲み込んだ。


「俺もな、ちょっと怖いんだよ。お前の事」

「私の方がもっと怖いわ……!」


 今思っている感情を言ってみたものの、やはり跳ね返される。だがしかし語気は荒くはない。狐は溜息(のようなもの)をふぅと鼻から出した。


「そういえば、俺のことが怖いのに逃げないんだな」

「もう逃げないわよ。食べるんでしょ」

「だから食べな」

「美味しく頂いてね」


 だめだ。完全に諦観している。ならばと思い、頭を撫でた。


「よしよし、俺は食わねぇよ」

「……本当か?本当なのか?」


 未だ疑うかこの狐は。


「ほら、ぎゅーってしてやる」


 俺は最終手段に出た。狐を持ち上げて抱きかかえる。


「わわ、やめろぉ……」


 声が少し震えている。だが尻尾はゆっくり左右に揺れる。


「ずっと俺がこうしてやるからなぁ」


 それで食べないという証明にはならないが、やってみる価値はあるはずだ。攻撃できないと言っていたし、一応は安全である。


「ふや、このまま生で食うのか?」

「食わないって言ってるだろ。こんなかわいい動物(?)食べるわけないって」


 それきり狐は黙った。頭を撫でたりするとたまに『きゅう』と可愛らしい声を出すくらいだった。


「……食わないな?」

「食わない」

「本当だな?」

「本当」

「……わかった」


 やっと納得してくれた。そして膝の上で寝息を立て始めた。膝に寝息が当たって心地いい。そして毛布なんかよりももふもふである。ほんの少し獣臭いが。


(ん、なんでそんなに臭いがきつくないんだ?おかしいだろ)


 もしかして妖怪か何かの類なのかと思った。それならば今から俺が食われてもおかしくない。だがあの怯え方を見るに、こっちを食べようとする感じはなかったし、なんなら本気で怖がっていた。狐を撫でる手が汗ばむ。だが考えても案の定答えには辿り着かなかった。あまり考えないようにしよう。


(ちょっと寝るか)


 眠気が一気に襲う。本当はあまり寝てはいけないと分かってはいるが、睡魔には抗うことができなかった。狐の暖かさも相まって限界だった。数回の瞬きの後、俺は眠りに落ちた。

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