天高く狐ゆる空
虹火ますみ
第1話
「空、もうすぐ狩猟可能地域だぞ」
「ちょっと緊張してきたかも……」
車窓から緑豊かな森林が視界に飛び込んだ。空は澄み渡り、夏の日差しが車内にも入り込む。今日は夏日であった。
車の運転をしながら優しく、落ち着いた声音で話しかけてきたのは俺の祖父である。そんな祖父は、猟友会から支給されている鮮やかな朱色と黄色のベストを着込んでいる。
そしてまた、俺もお揃いのベストを着用していた。首からは双眼鏡をぶら下げている。後部座席に視線を遣れば、ライフル銃が積み込まれているのが見えた。
そう、これから狩猟を行うのである。
しかし、狩猟をするには20歳以上でなければならなかった。更にライフル銃というのは10年間の猟銃経験が無ければ所持する事を許されないベテラン専用の銃器。
今の俺はまだ16歳であり年齢的にも、経験的にも狩猟をすることができないのだが、無理を言って邪魔をしないことを条件に連れて行ってくれたのである。
「爺ちゃん、今回は鹿を探すのを手伝えば良いんだよね?」
「あぁ、そうだ。空も狩猟者になるなら良い経験になるだろう」
今から行われる狩猟劇に胸が高まっていく。爺ちゃんはこれまで今回の様に同伴をさせてくれなかった。それは山の中で熊などに遭遇する危険を危惧してのことだった。
だが俺も既に高校生。承認が降りた背景には心身共に成長した事を認めてくれたというのがあるのだろう。
「だが、絶対に離れるなよ。山の中で遭難したと思ったら、迷わず道を引き返せ。それか見通しの効く場所へ登るんだ。分かったな」
「うん、分かってるよ」
また爺ちゃんの癖が出ている。昨日も、出発前も、出発中にも何度も言い聞かせてきた内容だ。
狩猟に関して言えば、本当は小学生くらいの子でも見学できるプログラムは有るのだが、これまで容認されなかったのは爺ちゃんの非常に過保護な面も影響しているだろう。
暫く経ち、車は駐車場へと停まる。
「着いた。双眼鏡はちゃんと持っているな?」
「うん」
期待と不安を胸に、車のドアを開けると鬱蒼とした、迫力のある杉林が周辺に広がっていた。同時に瑞々しい自然の風が身体中に吹き付けてくる。
祖父はライフル銃を手慣れた動作で取り出し、手に持った。新緑の環境も合間って、ベストが迷彩服であれば宛ら貫禄のある歴戦の軍人の様に見えただろう。
祖父が猟友会の会長である事を今までの期間、懐疑的に考えていた。唯、今この瞬間だけは、謝辞の念を送りたくなった。
恥ずかしくて『かっこいい』だなんて面と向かって言えないけどね。
早速、森の中へ祖父と一緒に足を踏み入れていく。一歩一歩進む度に落ち葉を踏み締める音が聞こえる。
夏の昼間と言えど、天に木の葉が犇き、太陽光の侵入を阻んでいるため少し薄暗い。
「何か見えたか?」
「いや、まだ何も見つけられてないよ」
双眼鏡を目に押し当て、周囲に目を凝らしてみるも、特に動物の影は発見できない。
「中々見つからないね、爺ちゃん」
「まあそのうち見つかるはずだ。空もしっかり見落とさないように頑張ってくれよ」
爺ちゃんの言葉をしっかり受け止めながら、注意深く四方を観察する。
木々の密度は増していた。
何処からともなく聞こえてくる動物の鳴き声が、森の中を漂う濃厚な自然の香りが、周囲の環境が森林地帯である事を知らせている。
爺ちゃんとは付かず離れずの距離を保ち続けた。遭難なんてしたら、きっと鬼の様な形相で小一時間叱られ続ける未来が見えるため、絶対に見失わないようにしないと。
「ん?」
遠くの方で大きな動物の影が見えた気がした。すぐさま携行している双眼鏡で影の方向を観察する。
「ん〜、よく見えないな」
動物の影をしっかりと確認する為に、近づいてみようかと思考を巡らせる。そして、チラリと爺ちゃんの背中を見た。
……少しだけ離れるだけだ。ちょっと確認したら直ぐに爺ちゃんの元へ戻ろう。報告だけしてただの見間違いだったなんてヘマはしたくない。
爺ちゃんにバレないように、颯爽とその場を離れる。早く確認したい一心で、双眼鏡を再び目に当て観察するがまだ判断がつかなかった。
「よし、もう少しだけ」
足を素早く動かす。ふと、足が硬い物にぶつかる感触がした。
「……ぁ」
考える暇も無く、視界が傾く。反射的に手で防護しようとするも、生憎双眼鏡に邪魔される。そのまま俺は、高低差のある落ち葉が敷かれた地面へと勢いよくダイブした。
「いっ……」
頭から鈍い音と、強く硬い物に勢いよくぶつかった感触がする。
何か頭がぐらぐらしてきた……手を頭部に当てれば絵の具のように赤い血がべっとりと付いている。
嘘だ……こんな事になるなら、ちゃんと爺ちゃんに相談してからにするんだった。どうしてこうなったのかな……。
意識は軈て朦朧となり、瞬く間に、暗い海の中へと沈んでいくように途絶えた。
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