SS.13:俺……やってみたい
炊き出しが終わると広岡の車で、1時間半ほど走った。
ひと気が感じられない店舗の入り口から入って、明かりをつける。
すると……こじんまりとした喫茶店の店内が浮かび上がった。
翔平は客席を見回ったあと、カウンターの中に入った。
ほのかにコーヒーの香りがする。
カウンターから改めて客席を眺めると……店主の店に対する愛情みたいなものが感じられた。
翔平の心の中に、今まで消えていた明かりが
「広岡、俺……やってみたい」
「そうか! 山野、それじゃあもうここに住んじゃえよ!」
「え? い、いいのか?」
「ああ。オレもたまにここへ来て空気を入れ替えたり布団を干したりしていたから、今日から寝泊まりできるぞ。家の中にあるものは適当に使ってくれていいからな。電気もガスも水道も止めなくて、よかったよ」
「でも……本当にいいのか? そこまでしてもらって……」
「オレは山野を信用するよ。もし裏切られたら、それはオレが人を見る目がなかったってだけのことだ」
そう言って広岡はこの自宅兼店舗の鍵と、当面の生活費兼仕入れ用のお金を翔平に渡した。
そして「週末にまた来るから」と言い残して、帰ってしまった。
残された翔平は、再び喫茶店の店内を眺める。
「俺は……もう一度生まれ変われるだろうか?」
それでも……こんな俺に手を差し伸べてくれた友達がいる。
その好意に答える義務があるだろう。
翔平の中に、人としての心がまだ残っていた。
翔平は喫茶カメリアの再オープンに向けて、必死に準備を始めた。
2ヶ月眠っていた店内の埃を一掃する。
カップ、グラス類も全て綺麗に磨いた。
週末には広岡も準備を手伝ってくれた。
メニューも今まで継承できるものはそのままに、あらたに翔平のレパートリーからいくつか追加した。
一番苦労したのは、良いコーヒー豆の仕入先を探すことだった。
たまたまいもうとカフェ時代に使っていた業者の伝手をたどって、いい業者に巡り会えることができた。
とりあえず新鮮な豆を使った上質なコーヒーを提供することができる。
開店準備をしていると、店内の明かりに気づいたんだろう。
近所の元常連さんが、何人もやってきた。
「マスター倒れちゃったんだってね。大丈夫なの?」
「ここはまた営業再開するんだね。楽しみだよ」
「前のマスターより随分若くなったね。頑張ってよ!」
そんな励ましの言葉をかけてもらった。
たまにおにぎりとかあたたかい食べ物を、差し入れで持ってきてくれるお客さんもいた。
この間まで公園で寝泊まりしていた翔平には、この『人の温もり』は心に染み入った。
そして……翔平が移り住んでから、わずか3週間後。
喫茶カメリアは再オープンした。
オープン当日は、朝から元常連さんたちがわらわらと押しかけた。
モーニングサービスの時間から、大盛況になった。
「食べ物も美味しいし、何よりコーヒーが美味しくなったよ」
客の評判も上々だ。
喫茶カメリアは、再びその地域の憩いの場になった。
翔平の生活も安定し始めた。
食事は店のあまり物で適当にまかないを作ればいいし、少ないが給料ももらえるようになった。
そして酒とギャンブルは、きっぱりとやめた。
「勝手かもしれないが……俺は娘たちのことを忘れたことは一度だってなかった。家を出るときに泣いていたひめと怒っていたひなの顔が、いまだに夢に出てくるんだ」
翔平は年に数回は、営業報告も兼ねて広岡のもとへ訪れた。
翔平の事情を知っている広岡は、気を利かしてゆめと二人の娘のことを調べてくれていた。
ゆめはなんとか一人で、いもうとカフェを切り盛りしていた。
泣き虫だったひめは短大を卒業し、今では同習館総合病院でナースとして働いている。
勉強ぎらいだったあのひなも、進学校である聖クラーク高校へ進学したらしい。
「二人とも本当に立派に育ってくれたよ。まあゆめが育ててくれたんだけどな……でも広岡のところへ行った帰り、ついついあのいもうとカフェの前まで行っちまうんだ。ひと目でも娘たちを見られないかと思ってな。たまにバイトでもしているのか、ひなを見かけるときがあったよ。子供ってのは、知らない間に大きくなるもんなんだな……」
「そうだったんですね」
確かに全ての原因は翔平にある。
ただそれでも……今は地元に愛されている喫茶店のマスターだ。
谷口は翔平が、少し不憫に思った。
「やっぱりゆめさんとひなちゃんには、会えないんですかね」
「会わないほうがいいんだよ」
翔平は寂しそうに笑う。
「娘たちとは会わないって、ゆめとも約束したしな。それに今更どのツラ下げて会えるんだよ……」
「でも今は立派な喫茶店のマスターじゃないですか」
「まだまだだ。所詮雇われだしな。でも娘たちにもゆめにも悪いことをしたと思ってるよ。今少しずつだけど金を貯めててな。いつかゆめが肩代わってくれた俺の借金を、少しでも返したいと思ってるんだよ。全額はちょっと難しそうだけどな」
「あの……ひめさんとひなちゃんの、写真見ますか?」
「あ、あるのか!」
翔平はあからさまに食いついた。
谷口は自分のスマホに写真を表示させ、カウンター越しに翔平に手渡した。
先日一緒にレストランへ行った時の写真だ。
「ああ……ひめもこんなに大きくなって……ゆめの若い頃そっくりじゃねえか。どうして二人揃って、母親に似るかね……」
翔平は谷口のスマホを、ゆっくりとスワイプしていった。
その写真ひとつひとつに、愛おしそうな視線を落としていく。
時折目頭を抑えていた。
「すまねえな。みっともないところ見せちまって」
翔平はスマホを谷口に返しながら、鼻声でそういった。
時間はとっくに夜の9時を過ぎていた。
そろそろ失礼しないといけない。
谷口が帰り支度をして財布を出すと「金はいらねえよ」と声をかけられた。
「え? でも……」
「遠いけど、よかったらまた来てくれ。その時に……また子供たちの話を聞かせてくれないか?」
翔平はバツが悪そうな表情でそういった。
谷口は翔平の表情を見て、いかに彼が娘たちを愛しているかを理解できた。
それに今ではちゃんと更生して…十分立派じゃないか。
「はいっ、わかりました。では遠慮なく、今日はご馳走になります。また写真をたくさん撮って、持ってきますね」
「そいつは嬉しいなぁ。待ってるよ」
翔平は心から嬉しそうな笑みを浮かべてそう言った。
谷口はなぜか、自分までが嬉しくなった。
決して悪人じゃない。
そうじゃなければ、あんなに美味しいナポリタンやコーヒーが作れるはずがない。
帰りの運転中、谷口はそんなことを考えた。
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