No.52:混乱


「なんてこった……」


 家に帰ってきた俺は、自室で呆然としていた。

 何も考える気力が起こらなかった。


「あのババア、マジでロクな話を持って来やがらねぇ」


 椅子に座り、机の上に置かれたプリントを眺めながら俺はごちる。

 ハーバード大学と医学大学院への留学。

 それもトータル8年間。

 全く現実味がわかない。


 頭の中がぐちゃぐちゃで整理ができない。

 多分こういうときは、やらなければいけないことを先にやった方がいい。


 俺は部屋を出る。

 まずは保護者への報告が先だろう。


 リビングへ入ると、オヤジが晩酌を始めようとするところだった。

 ちょうどビールの栓を開けようとしている。

 よかった、酒を飲む前の方がいいだろう。


「オヤジ、酒飲む前にちょっといいか?」


「ん? どうした、浩介」


 俺は以前からのババアとの一件を、つまびらかに話した。

 元々は雪奈のお父さん、達也さんの会社へアプローチしてほしいと依頼があったこと。

 その件では、結局竜泉寺社長に出資してもらったこと。

 大山俊介の話は、ババアから聞いたこと。

 そして……8年間のハーバード留学の話。


「ちょ、ちょっと待って浩介。官房長官って、あの小池百合子かい?」


「大池だ」


「ほぇー、びっくりだね……なんとも中身の濃い1年を過ごしてたんだね、浩介」


「関心してる場合じゃないぞ」


「ああ、まあそうだ。しかしハーバードへの国費留学かぁ。医学を目指すものとしては、またとないチャンスだけどね」


「そうなんだけどな……」


「まあ……雪奈ちゃんの事だよね」


 なにが最大のネックなのか……オヤジは既に察していた。


「今の経済状況だけを考えても、受けたほうがいいに決まってる。学費・住居費・交通費、それに生活費まで支給される。こんな好条件、二度とないだろうな……って、オヤジ聞いてるのか?」


 オヤジは腕組みをしたまま、ずっと下を向いたままだ。


「ん? ああ、もちろん聞いてるよ。いや、何かが頭の中で引っかかってるんだよ。何か忘れているような……」


「ひめさんとの次のデートとかじゃないのか?」


「え? ああ、それもあったな。ひめさんが、オムライスの美味しい店に行きたいって言ってた」


「まったく……呑気なもんだな」


 この人に相談しても、無駄だったかもしれない。


「うーん……結局さ、浩介と雪奈ちゃんが話し合って決めるしか、他に方法がないんじゃないかな」


「……ちなみにオヤジはどっちがいいと思うんだ?」


「うーん……浩介のやりたい方を応援する、ってとこかな。だからまず雪奈ちゃんと話をしなよ」


「……そうだな」


「でもその時には浩介がどうしたいのかを、きちんと雪奈ちゃんにも言うんだよ」


「……」


「浩介が行きたいって言ったら、雪奈ちゃんが悲しむとか考えてない? でも浩介がそれを隠して日本に残ったら、多分雪奈ちゃんは後で自分を責めると思うよ。そういう子だろう? 雪奈ちゃんは」


 俺は何も言い返せなかった。

 全くこの人は……。


「わかった。雪奈は私立の試験があるから、それが終わってからにしよう。まずはそこからだな」


「そうだよ。浩介だって、東帝大学の二次もあるじゃないか。そっちだって、大切だよ」


「ああ、その通りだ」


 とりあえず今は東大の二次試験に集中しよう。

 俺はそう考えざるを得なかった。

 いいアイディアなんて、全く浮かびようがなかった。


 そして2月に入ると、私大組はラストスパートだ。

 上旬には雪奈は私大を3校受験した。

 慎吾と葵はそろって京都へ向かった。

 彼らは2校受験したが、2人とも是非合格してほしい。


 ひなは都内の私立短大を受験。

 そして地元の国立の二次試験に備える。

 この1年間で一番頑張ったのは、間違いなくひなだ。

 その努力が報われてほしい。


 俺は一人で25日の東大二次試験に集中していた。

 いや……集中したかったが、できなかった。

 留学の件が、俺の集中力を常に邪魔していたからだ。


 そうこうしているうちに、国費留学の試験案内が届いた。

 2月28日。

 東大二次試験の3日後だった。

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