第2話 もうひとつの太陽 - さそり座18番星

 てんびん座駅を出発すると、座席を探す乗客たちで、車内が忙しくなった。男が切符を見ながら、ぼくのシートにくると、

「お隣を失礼します」

と云って腰を降ろした。

 列車が加速して宙に舞い上がった。男は突然、

「人を砲弾に入れて月に送るという小説がありましたね」

と言った。

「ベルヌでしたね」

と答えると、

「そうそう、ベルヌ。空想科学小説というサブタイトルがついてました」

「その時代は産業革命で、だから彼はそんな夢物語ばかりを書いたんですね」

「いえいえ、これがなかなか。ときには恋愛小説も書いてたりしてますよ」

「本当ですか?」

男は言った。

「緑の光線、とか言ったかな」

「名前は思いっきりSFですけど……」

「緑の光線とは、グリーンフラッシュ現象のことですね。水平線に太陽が沈む一瞬に発する緑の光線のことです」

男はここで一旦間を入れて、

「で、水平線にこの光線を目撃すると、自分と他人の心の中が見えると言う記事が新聞に出た。それでとある恋人たちが、お互いの心の中を知りたくて、グリーンフラッシュ探しの旅に出るという話です」

「なるほど」

「ところが、いつももう少しというところで、水平線に、雲が出たり船のマストがかかったりで、中々グリーンフラッシュを見ることができない」

「焦らしますね」

「ですが、ついに」


 その時、老婆を連れた男性が現れた。

「母さん、この席だよ」

といった。息子が母親と旅にしているようだった。母親が、

「そうかい」

というと、息子は母親のリュックを外してやりながら、

「網棚にあげとくよ」

といった。母親が息子に答えた。

「加藤さん、ご親切にありがとうございます」

加藤と呼ばれて息子は苦悩の表情を浮かべたが、すぐに僕たちの方に向かって、

「あらためて失礼致します」

といった。隣の男が聞いた。

「ご家族でご旅行ですか」

「ええ、ふたご座駅まで行きます」

「それはそれは長旅になりますね。お母様もご達者そうで何よりです」

と男がいうと、息子は口籠りながら、

「……実はご迷惑とは思いますが、少しだけお耳に入れておきたいことがありまして」

と言い出し始めたので、男はぼくと目線を合わせて、

「何なりとどうぞ」

といった。息子は言い方を思案していたようだったが、

「私の母は認知症を患ってまして重い見当識障害があります」

と言った。

「見当識障害と言いますと」

「家族のことがわからなくなる症状です。十年前から母は私が息子だと分かってません」

「それはお辛いことです」

「それで施設に入れた方が良いと思いまして」

「その施設がふたご座なんですね」

「女房は、何もそんな遠いところに入れなくても、このまま家でと言ってくれてはいるんですが、私の方が根を上げましてね」

「そうですか」

「そんなわけで、道中ご迷惑をおかけします」

と言って頭を下げた。そして窓枠に手をついて景色を見ている母親を見ると、

「今はこんなに小さくなってしまって、認知症はありますが、まあ落ち着いています」

と言ってから、さらに続けた。

「でも、若い時はそうはいかなかった。母はあまり言いたがりませんが、私がまだお腹にいる頃に、父は店の女と駆け落ちしてしまったそうです。二人は小料理屋を開いたばかりで、結局その店もすぐに取り上げられて、あとはその借金ばかり、母は夜の町に戻りました」

さらに息子は、

「ですから、私には子供時代の記憶がない。できる限り自分で消したんですね。覚えていることといえば、母が男が連れ込んだ隣の三畳間で、目を瞑り耳を覆って、布団をかぶってうずくまっていたこととか、見た目は豪華だが結局はバーの客の食べのこしを、夕飯に一人で食ったとか、そんなことばかりです」

と言ってから、

「だから母も、私を産んだ時はさぞや後悔したと思うんです。こうして大人になってから、母のあの頃の状況を考えてみると、なんで子供を産むなどという無謀な事ができたもんだと感心します。要は無責任の一言で片付けることができることなんだけど、子供時代にそのツケを払わせられた私の身になると、たまったもんじゃないです」

といった。


 そのとき室内放送があった。


「お休みのところ失礼致します。よろしければ左側をご覧ください。さそり座の十八番星がまもなく水平線に沈みます。四六光年先のこの星は太陽の双子と言われていて、大きさ、明るさなど、全て私たちの太陽と酷似しております。もし今、あの星からこちらの方を見ると、四十六年前の太陽が、今ご覧になっているのと全く同じ姿で見えることでしょう」


そして放送が終わると、

「車掌です。切符を拝見します」

と検札が始まった。ぼくたちは切符を渡すと車掌に言った。

「太陽の双子、とても面白いですね」

車掌は切符に鋏を入れながら、笑みを浮かべて、

「最近では双子でなく、我らの太陽そのものではないかという説も出てますね」

といった。どういうことなのかと、僕たちが顔を合わていると、車掌は検察鋏を鞄にしまながら、

「重力レンズをご存じでしょうか。アインシュタインが予想した現象で、強大な重力があると、直進するはずの光が曲ってしまいます」

と言うと、さらに続けて、

「実は、最近、太陽と十八番星の中間にブラックホールが発見されて、それが重力レンズ現象を起こしているのではないかと言われてます」

と言った。男は聞いた。

「それはつまり」

「計算上ではそこで太陽からの光が360度折り曲げられていうことです」

「360度と言うことは鏡?」

「はい。ちょうど中間地点に鏡を立てたようなものです。ですから今みえるあの星の光は四十六年前の太陽の光かも知れません」

その時、外を眺めていた母親が頓狂な声を出した。

「四十六年前なら、たかしが生まれた年だよ」

息子はそれを制しながら、

「すみません、たかしというのは私のことで……母さん、そんなに大きな声出さなくても」

というと、母親はそんなことには一向に構う様子もなく、車掌に、

「どの星が、四十六年前の太陽ですか」

と聞いた。車掌は身を乗り出して、車窓の一箇所を指で示すと、

「ちょうど、今、水平線に沈みかけているあの星がそうです」

母親は指を指された方をしばらく凝視していたが、

「あれが、たかしが生まれた時のお日様なんだねぇ」

と言った。車掌は笑顔を浮かべて、

「今日はご家族でのご旅行ですか」

といった。母親はそれに答えて、

「加藤さんが連れてきてくれました」

息子の顔が引き攣ったが、車掌はもう一度お辞儀をすると、

「それでは良いご旅行になりますように」

と言って静かに去っていった。


 母親はずっとその小さな星を食い入るように見つめていたが、

「星から緑の光が伸びてきたよ、綺麗だね」

と突然、頓狂な声で叫んだ。息子は母親の肩を押さえながら、

「母さん、声が大きいよ」

と叱った。窓を見ると、天の川が横たわる海原に、ほんの小さな星が沈みかけており、それが水平線にかかり始めると、母親が言うように緑色の燐光が、十字に輝き始めた。それを見ていたらベルヌのグリーンフラッシュの話が脳裏に蘇った。例の水平線にこの光線を目撃すると、自分と他人の心の中が見えるという不思議な話。それを教えてあげようと、視線を戻すと、母親とその肩に手を掛けた息子が、一枚の母子像の絵のように見えて、まるでそこだけ時間が凍結しているようだった。そして時間が再び動き始めた時、息子が声を震わせて言った。


「母さん、ぼくを産んだ時にそんなことを思っていたの……」


母親はそれを聞くと驚いたように振り返った。そして息子の半泣きを見て毅然とした声で、

「たかし、そんな顔をするんじゃないよ。男が人前で泣くなんてみっともない」

と言って、袂からハンカチを出すと、それを息子に渡した。

「母さん……」

息子は突然自分の名前を呼ばれたことに呆然としたが、母親はすぐに前のトーンに戻って、

「加藤さん、お恥ずかしいところをお見せしました。今息子と十年ぶりに会いましてね、泣きたいのはこちらの方なのに、息子が先に泣き出すもんだから」

と言った後、相好を崩しながら、

「でも元気でよかった。息子がいなくなってから、そればかり気になって。それが今、元気な顔を見せてくれました」

と言った。とその時、車内放送があった。


「まもなく、さそり座です。お出口は右側です。今日も銀河黄道線をご利用頂きましてありがとうございました。さそり座を出ますと、次はおとめ座に止まります…」


隣の男が立ち上がった。

「次は私の下車駅です。それではみなさん、どうかお体に気をつけて。良い旅を」

というと、それに合わせて息子も立ち上がった。

「母さん、ぼくらも降りるよ」

母親は当惑した。

「加藤さん、私たちはふたご座まで行くんでは」

息子は断固として、

「予定変更だ」

「それは急ですね」

「たかしが家で待っているんだ。母さんはこれからたかしと暮らすんだよ」

「そうかい。それは早く帰らなくては」

と母親もいそいそ立ち上がった。息子が荷物を取っている間、隣の男は母親に手を貸しながら、

「息子さんと暮らせますね」

というと、母親は笑いながら、

「ほんとあの子は十年もどこをふらついていたんだろう。叱ってやりますよ」

と言った。ぼくは息子の方の荷物を手伝いながら、

「強い決断をされましたね。この決断は、グリーンフラッシュで、お母さんがどのような思いであなたをお産みになったかがわかったからですか」

というと息子は

「はい。そうです」

ときっぱり言うと、男に手を引かれて出口に向かう母親を見ながら、

「それは言葉ではなく、大きな大きな感情のうねりでした。私を産んだことの感謝、それから喜び、そして私を育てる断固たる決意。そのときようやく、私は母親がどんな思いで金を稼ぎ、食べ物を集めていたか、その全てが見えました……今度は私の番です」

と言って母親を追った。ぼくは皆が出口に消えるのを見ると、再び座席に座った。

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銀河黄道線 地球号 モトヤス・ナヲ @mac-com

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