銀河黄道線 地球号

モトヤス・ナヲ

第1話 心の糧 ー きりん座ケンブルズ・カスケード

 一月一日、オリオン座に見送られて出発した地球号は、千重連されたDD51型880形ディーゼル機関車の大爆音と共に宇宙空間に舞い上がった。やがて軌道に乗り、機関が心地よいリズムを奏で始めた頃、車内放送があった。


「今日も、銀河黄道線外回りをご利用くださいまして、ありがとうございます。 この列車は、地球号環状線です。途中の停車駅は、てんびん座、さそり座、おとめ座、おひつじ座、ふたご座、しし座です。各駅到着時刻は午前三時となっております。レディズ・アンド・ジェントルマン。ウエルカム・トゥ・ギンガ・コウドウセン……」

 

 ぼくは、網棚にバッグを乗せると、四人掛け木製クロスシートに深々と腰をかけた。一年間の長い旅が始まるという強烈な旅情がぼくを捉えた。

 席に落ち着いてからしばらくすると、車窓前方に三角形の巨大な表示板が見えてきた。地球号はその表示に従ってポイントを通過した。右サイドにかかるGに凄みあった。

「すごいなぁ」

思わずつぶやくと、いつの間にか座ったのか、正面の初老の男が、

「すごいでしょ、あの形式の腕木式信号機は、もうこの黄道線だけです」

「そうなんですか、大きいです」

「ええ、スピカ、リグルス、アルクトゥールスの三星結合の信号表示板というのは沿線では最大です」

ぼくは感心しながら、

「お詳しいですね」

というと、

「典型的な鉄道マニアってやつですかね。私は鉄道なら目に入れても痛くないです」

と男は答えた。


 ぼくは子供の頃から、物事に深くのめり込むということがなかったので、このように三度の飯を忘れて何かに夢中になるタイプの人間に憧れがあり、今まさに、その典型みたいな人と話をしているうちに、気持ちがどんどん面白くなってきた。男がいった。

「お願いがあるのですが……」

「何でしょう?」

「この先にぜひ撮りたいものがあリまして、ここにカメラを設置させて頂きたいのです」

「どうぞ、構いませんよ」

「もしご迷惑ならいつでもいってくださいよ」

と男は念押して、網棚からものすごい大きさのリュックを下ろした。肩のストラップが経年の重さで歪んでいて、縁の部分がボロボロになっていた。

「うわ、重そうですね。それをいつも持ち運んでるんですか?」

「はい、どこに行くときも。撮影道具一式です」

「いい写真を撮るにはちゃんとした機材でないとダメなんですね」

すると男はかぶりを振りながら、

「いやぁ、本当はスマホで十分なんです。スマホで撮ると、AIや何やらで、下手したら私よりも上手に取ってくれますよ。記録や思い出を撮るという意味ではスマホにかなうカメラはありませんな」

「じゃ、なんでそんな重い機材が必要なんですか?」

「多分、私にとって写真を撮るということは、記録や思い出を撮るということではなくて、心に栄養を食べせてやるという行為だからなんでしょうね」

男はそこで言葉を切ると、窓外に目を移して、

「肉体は食べないと生きていけません。それと同じように心も何かを食べないと生きれない。何を心に食べさせるかは、人それぞれでしょうが、私にとってはこいつなんだと思います」

と言いながらカバンからカメラと三脚を取り出した。ぼくは答えた。

「それでしたらご遠慮なさらずに、思う存分心にご馳走をおごってやってください」


 カメラの設定を始めた男に向かってぼくは訊いてみた。

「鉄道マニアになって随分経つんですか」

「いやそうでもないです。定年してからだから三年目か」

「定年ですか。いよいよ好きなことに打ち込めていいですね」

「ええ。鉄道は私に取って、まさに再生への道なんですよ」

「再生への道?何からの再生ですか」

「壊れた私自身からの」

「……」

口籠もっているぼくを見て、男は笑みを浮かべた。

「私はかつて会社病というのにかかって壊れてしまったんです」

「仕事のしすぎ、という意味ですか」

ぼくは聞いた。

「それとも違うかな。私が好きだったのは仕事ではなく、会社だったんです」


 そして機材の設置が終わったのか、男はこちらを向いて座り直した。

「先ほど、心にも食べ物が必要だと言いましたが、私は会社にのめり込んでいるうちに、自分の心に食べ物をあげるのを忘れてしまいました。それで私の心は死んでしまった」

男はさらに言葉を選びながら、

「しかも私は会社の操り人形で、今では社畜という傑作な言葉があるようですね、私は社畜として、とうの昔に心を会社に売っていたので、自分自身の心が死のうが一向にお構いなかった。心なんか死んでいたって、会社が私をうまいこと操ってくれる。一種のゾンビだったんですね」

「ゾンビ……」

「そして心が死んでしまった以上、もう私は私ですらなかったのです。私はそれでもよかったかもしれない。しかし、そのせいで、心が死んだ人間がもう一人います」

男は深いため息をついた。


「……誰ですか?」

「私の妻です。あなたような若い世代では中々考えにくいことかも知れないが、私の妻の心の食べ物は、家庭だったんです。私たちには子供がいませんでしたから、私がゾンビになってこの世から消えた以上、妻にとっての家庭も消滅してしまった。妻は心の糧を完全に失ったのです」

ぼくは返答に窮した。男は続けた。

「妻の心は飢え死しました。しかし彼女には私のように会社があるわけではない。ゾンビにもなれなかったんです。心が死んだら肉体は生きていけない。妻は亡くなりました」

男は窓外を見た。ぎょしゃ座が天頂にあった。

「私は定年になってから撮り鉄を始めました。その時に気がついたんです。これが私の心の糧だったんだと。そしてその撮り鉄を続けながら、心に栄養を与えていたら、少しずつ心が再生してきました。人間に戻れたといってもいいかもしれない」

ここで視線をぼくにうつすと、

「……それでようやく妻のことがわかるようになりました。彼女が抱えていた苦悩とか、なぜ死ななければならなかったかとか…ようやく妻の姿がはっきり見えてきたんですね。人間として」

といった。彼の話は重過ぎて、ぼくは少しずつ息苦しくなってきた。ぼくが曖昧な相槌を打つと、男は外を見てキッパリと、

「だから、これから私は妻に会いに行きます」

「はぁ……え?」

「時刻表よると、この列車はもう少しで、天上特別列車とすれ違います」

「天上特別列車?」

「天国行きの列車です。その特別列車に妻の魂が乗っています」

「それで、どうするんですか?」

「私は撮り鉄です。写真を撮ります」

「写真を撮るとどうなるんですか」

「わかりません……。でも私にはそれしかできません」

「どこですれ違うんですか?」

「きりん座です。ちょうどNGC1502散開星団のところです」

それを聞いて、思わずぼくが、

「うわっ、あの辺はとても暗いですよ。肉眼で見えますか?」

と声を上げると、男も自信がないのだろう、

「年寄りなので、わたしもそれが気がかりです」

と俯き加減になった。


 ペルセウス座を過ぎてから男の動きが準備で慌ただしくなってきた。そして列車の進行を時計を見ながら何度も確認した。ミラク星周りの華やかな光のデコレーションを最後に、列車はひたすらに暗黒の闇を進み始めた。男は目頭を揉んだり、何度も瞬いたりしながら、必死にカメラのファインダーを覗き込んでいたが、うまく被写体を捉えることができず何度もかぶりを振った。いよいよ天上特別列車とのすれ違いの時間がやってきた。

「だめだ、暗過ぎて何も見えない」

ぼくもBE星を過ぎたあたりから、窓にかぶりついて何とか天上列車を探そうとしたが漆黒の闇が見えるばかりだった。そこで一旦凝視をやめ、視線をフリーにした瞬間、その闇に、淡い星の整列が一直線にどこまでも、どこまでも連なっているのが見えてきた。きりん座のケンブルズ・カスケードだった。それはとてつもなく長い列車が、車窓をおぼろに光らせながら、闇の線路を走っているようだった。

「あれ、違うかな」

「えっ、どれ?」

「ほら、あの星団の手前に、星の列がどこまでも一直線に続いています」

「だめだ、私の目には見えない」

ぼくは指差した。一度視界に捉えると星列の姿には揺るぎがなかった。

「あそこですよ」

「見えません。お願いです。どうか私に代わりに、天上列車をファインダーに導入してもらえませんか」

「やってみます」

ぼくはカメラの雲台を不器用に操作して、被写体を何とかファインダに収めた。

「ファインダーを除いてみてください」

男はカメラにかぶりついた。

「ああ見えます!」

そして男はしばらくズームリングやパン棒を色々操作していたが、突然ファインダーから目を離すと、ぼくを見て、

「妻がいます、手を振っている」

と叫んでから、再びカメラに覗き込んだ。そしてシャッタを切り始めた。ぼくは、星列と男を交互に見ていたが、やがて、シャッターを切るたびに男の影がどんどん薄くなっていくことに気がついた。男が叫んだ。

「よしベストアングルに取り付いた!」

そして秒間千枚を誇るαZ R193機の連続シャッターをリリースした時、凄まじい電子シャッターの炸裂の中で、男の姿は青白い燐光に変わり、そしてシャッター音が沈黙したときには、ぼくの眼前から完全に消滅していた。まるで自らの細胞の一つ一つを、シャッターで列車に撃ち出したかのようだった。


 男が消えたあと、なぜそうなったのかを、ぼくははっきりとわかっていたので、特に慌てもせずに、視界を遠ざかりつつある天上特別列車に向かって、手を振りながらつぶやいた。

「今度こそ奥さんと末長くお幸せに……。ところで、自慢のカメラ、お忘れですよ」

そして向かいの席に目を戻すと、カメラとバッグがすーっと消えた。ぼくは微笑みを浮かべた。その時車内放送が始まった。


「まもなく、てんびん座です。お出口は左側です。お降りのときは足元にご注意ください。今日も銀河黄道線をご利用頂きましてありがとうございました。てんびん座を出ますと、次はさそり座に止まります…」

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