「——ファイズ、保護官」

 届かないとわかっていながら、弾丸のように飛び出していったベテラン保護官の名前を、ナンシーはもう一度、月夜の風にこぼしていた。束ねてあった髪からハラリと、赤毛の一房が解けて、こぼした唇をくすぐる。

 観察監視対象——個体天狼ラクリミス名〈アルファ〉の"天寿"が近いと、ナンシーはアーバンダへ配属された日のブリーフィングでファイズから聞かされていた。もとい、聞き出したと表現すべきかもしれない。頑なにファイズは、そのデータをナンシーから隠そうとしていたからだ。

 天狼が己の最期を悟ったとき、それまでの想いを吐き出すように、ひときわ情緒的な咆哮ハウリングを天へ上げる。

 ただでさえ、人間の感情を強く揺さぶる、天狼の物悲しい遠吠えだ。それがいっそう強まるとあれば、不慣れな者には劇的な毒になりかねない。

 だからだろう。いわく付きの保護官は、物好きな新米が興味本位で天狼最期の咆哮を聞き、身を滅ぼすのを見越してそのデータを教えたがらなかった。

 現に、自然保護官パークレンジャーとしてあるまじきことではあるが、先のナンシーは〈アルファ〉の咆哮に引っ張られていた。

 心が揺すぶられ、澄み渡った旋律に遠い異世界へと、身も心も誘われていくようだった。

 ——それでもいい、とナンシーは腹をくくっていたはずだった。

 勉学と鍛錬に貴重な十代を捧げ、狭き門と名高い自然保護官の資格を取る。しかも、首席で国家試験をパスする。そうしなければ、配属先の希望は通らない。転属を待っていられるほど、余裕もない。——それに。

 ——ここアーバンダでなければ、会えないから。

 過去がナンシーの記憶を駆け、知らず、少女の目を白銀の狼へ向けさせる。

「——

 咆哮を納めていた天狼——アルファは、その鏃のように尖った鼻先を東へ向け、大気に混じった"異物"を嗅ぎとる鋭敏な嗅覚を差し向けていた。死期が近い生きものとは到底、感じられない雄々しい白皙の横顔を、ただナンシーは呆けてしまったように見つめる。


 ——往け。


「——っ⁈」

 アルファの銀眼が一瞬、ナンシーへ向けられた。

 と、ナンシー自身が認識したときには、草原の岩に狼の姿はなかった。慌て、周囲へ目を走らせるも、見失いようのない白銀の巨躯は見当たらない。

「父さん! 父さんどこっ⁉」

 知らず、草原に立ち尽くしたナンシーは、子どものように父親を探して呼んだ。

 狼化した父にひと目、会いたい。

 ただその想いから、ナンシーはここまで歩んできた。

 自然保護官になれたからといって、もとは人間だった天狼の行き先をすべて把握できるわけではない。

 が、虫を殺すのもためらうような幼子だった自分は、時に正道を外れた手段を使ってでも、ようやく"草原へ還った"父の居場所を突き止めていた。——結果、その死期までも知らされることになったが。

『——にげろッ、ナンシー‼』

 直後、手元の端末に通知が届けられ、いつでもひょうひょうとしたベテラン自然保護官の鋭い声が飛ぶ。

 その意味をすぐには理解できず、回転の遅い思考が、スローモーションを映す視界を唐突に占めた、白い毛並みを認識させた。

 美しい、銀糸のような毛並みだった。

 青白い月光を照らし返し、まるで吸収した月明かりを己の内から解き放っているようだった。

 そうして凍てついた風のような吐息を、ナンシーはさらしたうなじに感じて、悟る。

 ——ああ、わたし、死ぬんだ。

 不思議と、怖れはなかった。

 ただもうひと目、雄々しい父の姿を目に収めておきたかった。

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