【RF】外伝 月下の天涙/Under the Moon, Wonder Tears

ウツユリン

 ——満月の夜、月明かりの注ぐ低木の草原を、秋風がそよいでいた。


 その風に載り、寂しげな遠吠えが、アーバンダ天狼域ヘリテージの大地を伝わっていく。

 物悲しい余韻は紛れもなく狼のそれだが、咆哮を返す群れの仲間がいない。

 ただ一頭、草原の大地からせり上がった岩の上で、白銀の体毛をまとう四肢が、月光に己の哮りを響かせていた。

「美しいです……ぐすんっ」

「ああ、そうだな。……な、ナンシー?」

 嗚咽混じりの澄んだ言葉が真横から耳に届いて、眼鏡型端末グラシスギアを覗いていたファイズは、思わずそちらへと視線を移した。

 見れば、ファイズと同じ草むら、こちらも腹ばいになった赤毛の少女が、指ぬきグローブから覗かせた華奢な指で目元を拭っている。ぐずぐずと鼻をすすりながら、その顔は正面に向けられたままで、観察に余念がない。手元の端末へすらすらと、スタイラスペンの走る軽快な音が弾ける。

 枯れ草色の、地味極まりない中折れ帽フェドーラからこぼれた長く赤い髪。吹き抜けるそよ風に揺れるその毛先を目で追いつつ、柔らかい地面へ肘をついたファイズは、杞憂と思われる注意点をユーモラスに挙げてみる。

「でもな、ナンシー。あまりんじゃないぞ。美しいものには、があるんだからな」

「は、はいっ、ファイズ保護官」

 今度はそう硬い声が返り、続けてガサゴソと身じろぐ気配が伝わり、一応の紳士的対応としてファイズは視線を外す。装備の再確認の動作を察し、ファイズは、自分の作戦の当てが外れたとわかって、無精ひげの口元を静かに微苦笑させた。

 冗談を言って少し、この新しい相棒の緊張を解そうとしたつもりだったが、どうやらうまくいかなかったらしい。

 ——あんたのジョークは、わかりにくいんだよ。

 と、昔に言われた言葉がファイズの頭をよぎる。

 結局、それから今日まで文字通り、一匹狼だったファイズの、ジョークの腕前が磨かれることはなく、今も、無駄に空回りして相手を逆に緊張させてしまった。

「……俺は、あれからなにも変わっちゃいないな」

「え」

 うっかり独り言が口に出てしまい、新米の怪訝な視線がファイズの横顔へと突き刺さる。「いや、なんでもない」と咄嗟にはぐらかしたが、互いに身を隠している草むらにわだかまる微妙な空気は否めない。

 こぼしたくなるため息を飲みこみ、ファイズはサングラス型の眼鏡型端末グラシスギアで視界中央へ捉えていた、目標ターゲットから目を離した。

「ナンシー。天狼ラクリミス咆哮ハウリングは、人にどのような影響を与えるんだったかな」

「はい。完全狼化個体である彼らの声帯が発する波長は、わたしたちの大脳辺縁系を刺激する作用が認められています。聴覚野を経由しないため、物理的な遮断は困難で、これを防ぐには感情の制御がもっとも効果的とされています」

「つまり?」

「はい? あの、その……」

 再び、あたふたと、同じ草むらを身じろぐ葉擦れが揺する。

 ナンシーは、優秀な新米自然保護官パークレンジャーだ。

 それは、先ほどのファイズの問いに対する、彼女の模範解答が証明している。教科書の丸暗記だが、それを呼吸するように諳んじられるのは、知識が自らの血肉となった証左だ。

 ただ、優秀な反面——。

「強いメンタルが要る。俺ら自然保護官には、"鉄の心"が欠かせないってな」

「それは適切な運動をし、心肺機能を平均以上に保つ、ということでしょうか」

「……ま、まあ、健康管理も保護官には欠かせないな。走ることも少なくないしな」

「脚力には自信があります!」と、生真面目でみずみずしい声が、心なしかウキウキと張りを持つ。ファイズも「おう。期待してるからな」と、ここでフォローするくらいには気を回せた。

 そうして改めて、秋虫にその若葉のような頬をたかられてなお、微動だにしない傍らの少女へと、ファイズは目を向ける。

 月夜の原で、数日前の雷雨の匂いがいまもむっと、鼻を満たしてくる草原の大地に腹ばいになり、じっと観察監視に打ち込むのは、一般に想像されるより地味で苦労の多い仕事だ。ここは、西の大都街ラスベガスがすっぽり収まるほどに広大な自然保護区であり、世界に十四しかない天狼の保護区——天狼域ヘリテージでもある。

 その守人たる自然保護官に求められる技量は多岐にわたり、特に、ヒトの"第二の生"天狼の生態観察と保護は、最優先事項に挙げられる。

 時として、荒事のマネも覚悟しなければならないこの職務の、殉職者は過去十年間で十九名にのぼる。

 その自然保護官を志し、トップクラスで道を駆け抜けた若きパークレンジャーが今、ファイズの目の前にいた。彼女の成績なら、どこの天狼域だろうと引く手あまただったはずだ。

 なのに、この赤毛の少女は、配属先の第一希望をここに志願した。——『涸涙の落域アウターヘイヴン』と、そう囁かれるほどには危険度の高い勤務地を、自ら。

 ——なぜ、と疑問に思うのは、当然だった。

 その問いに答えられそうな手がかりを思い浮かべ、ファイズは、人知れず目を細めてしまう。

「——何でしょうか」

 そんなファイズのぶしつけな視線を感じ取ったのか、よどみなくペンを滑らせていた華奢な手首が、はたと止まった。

 教官でもあり、先輩保護官のファイズの目を見返してくるそのモスク色の瞳を紐解けば、履歴書に書かれた出身地にたどり着く。『ラスベガス』は、ファイズにとって忘れられない地であり、忌まわしい場所でもあった。

「ナンシーは、ベガスの出だったな」

「……それがどうかしました?」

 一瞬、その頬が強張ったように見えたが、すぐに羽虫を払った手が表情を遮る。ファイズも追及を迷い、逡巡に目を彼方の夜空へ移す。

 そうして雲ひとつない月夜の下、長く物悲しい遠吠えを納めた白銀の精悍が、ふいに東の方角へと、その牙を剥いて喉を唸らせる。直後、ファイズの視線の先で、夜空に光の波紋が広がった。

密猟者ハンターだ。ナンシー! そこを動くな!」

「ファイズ保護官っ⁉」

 押しころした新人の悲鳴を後方へ置き去りにし、すでにファイズのブーツは湿った草原を蹴っていた。白銀の巨躯を、常に視界へ収めるようにし、弧を描いて疾駆する。

 染みついた動作が、反射的にこめかみへ触れ、眼鏡型端末グラシスギアに必要な情報を表示オーバーレイさせていく。

 天狼域をもれなく包み込む、ヒト・ゲノム探知システムの伝えてきた"侵入者"の座標を、先ほど目にした光——〈ヴェール〉が突破された痕跡と頭の中で照らし合わせ、一致を確認。センサによれば、その地点から"目標ターゲット"までの直線距離はおよそ千三百メートル、三層構造の〈ヴェール〉を易々と突破した事実から冷静に考えても、侵入者がただの迷い込んだ観光客である可能性は限りなく、低い。——ならば。

「——武装解除」

 加速を受け、ぴったりと身体を覆うようにまとっていたアーミーパンツ。その腿の格納部がアンロックされ、突起がせり出すと同時に、馴染んだ銃把がファイズの振った手へ寸分違わず収まった。

 武器の感触を確かめるファイズの頭に、よぎる感情は皆無だ。

 天狼域において、負の感情は、致命的になりかねない。

 だからただ機械的に、銃の動作確認と、これから己のなすべき行動をイメージする。

 そうやって計算と実行をするのが、パークレンジャーの仕事だ。

 そうやって機械的に考えているほうが、ファイズにとっても余計な考えが浮かばなくて、いい。


 ——なぜか、後方へ置いてきた新米の横顔が無意味に思考へ割りこんできて、ファイズは思わず、皺の増えた顔をしかめた。

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