第三話 こどもたちの国 上
地響きを伴った爆発音が轟いた。
私はすぐに姿勢を低くして、周囲を見回す。素早く物陰に移動して、何が起こったのかを注視する。
兵士時代に培った動きだった。あの忌まわしい記憶が脳裏に蘇る。
友軍兵の血の匂いが漂ってくるようだ。頭を振り、その匂いを忘れるよう努める。
およそ五分ほどだろうか。正確な時間はわからなかったが、大体それくらいは経ったと思う。
最初の爆発音以外は、何も起こらなかった。戦闘が始まったわけではない事に、ほっと胸を撫でおろす。
しかし、一体何が起こったのだろう。
私は再び、あたりを観察する。すると、少し離れた場所で黒煙が立ち上っているのが見て取れた。
あそこが、今の爆発が起こった場所のようだ。
「……どうする?」
行ってみるべきだろうか。それとも、このまま背を向けて素通りするべきだろうか。
もやもやとした何かが、私の胸中に充満していく。
敵味方関係なく、死体の山が目の前にあった。
あの時は、殺さなければ殺されていた。仕方がなかった。多くの友が死んでいった。
私を殺そうとしてくる敵の胸を銃剣で貫き、別の兵士の頭に鉛玉で風穴を空ける。
そうした生活の中で、夜中に何度も目が覚めた。
私を恨み死んでいった敵兵。私だけが生き残った事に怨嗟を吐く戦友たち。
全ては幻想だ。全ては幻聴だ。わかっている。
わかってはいるが、だからといって容易に振り払えるものではない。
もしかしたら、そうした苦悩の種を増やす事になるかもしれない。
ほとんど、脅迫されているようなものだった。誰に? もちろん、私自身にだ。
だから、行ってみる事にしよう。助けられるものなら、助けよう。
そう決意したが速いか、私の足は爆発のあった場所へと向けて一歩を踏み出していた。
◇
黒煙がたちのぼっている。
私は爆発のあった場所まで訪れていた。一体、何があったというのだろう。
身を低くして、木陰に隠れる。
そっと様子をうかがう。と、音と地響きはしたものの、爆発事態は大した事がなかったようだ。もしくは、あまり燃え広がらないタイプの爆弾だったのか。
いずれにせよ、燃えている様子はなかった。
そして、天高くのぼっていく煙の前に、ふたつの人影があった。
小柄な人影だ。子供……のようだ。
あんな場所にいては危険だろう。まだ、この後に何が起こるのかわからないのだから。
どうするべきか、私は思案する。声をかけるべきなのだろうか?
じっとその場に身を潜めていると、がくっと子供たちが崩れ落ちるのが見えた。
私はいてもたってもいられず、立ち上がってしまっていた。子供たちへと駆け寄る。
私が近付くと、子供たちは私を振り返った。私の地元ではあまり見かけない顔立ちだった。東洋系だろうか。
「……何があった?」
そう、私は子供たちに訊ねた。けれど、彼らからの返答はなく、ただじっと、黙って私を見つめるだけだった。
呆然としているのか、事態がまだ呑み込めていないのか。いずれにせよ、いい状況ではないことだけは確かだ。
私は跪き、彼らの一人と目を合わせる。じっと、その瞳を見つめた。
けれど、そこに光はなかった。目の前にいる私を見てはいなかった。
ただ、天高く昇っていく黒煙を追っているだけだ。
「おい……」
私は肩を掴み、ゆする。しかし返事はない。
すると、ドーンッと再び爆発音が鳴る。今度は、すぐ近くだ。
思わず少年を抱き、目を閉じる。地面に伏せ、蹲る。
そうしておよそ数秒後、爆発音は止んだ。
私は身を起こし、周囲を見回す。この子以外にも、後数人はいたはずだ。
「おい、大丈夫か?」
声をかけるが、返事はない。ただ、呆然とした様子で立ち尽くしていた。
抱いていた子供から体を離し、もう一人の子供の方へと向かう。そちらも、ショックを受けたように目の前の光景から目が離せずにいるようだった。
けれど、いつまでもここにとどまっていることはできない。またいつ、爆発が起こるのかわからないのだから。
私は呆然自失としている子供を抱き上げ、立ち昇る黒煙を見つめる彼らの手を引いた。それで、私の両腕は埋まってしまった。
まだ、あと一人だ。あと一人いる。女の子だ。仲良しグループだったのだろうか。まだ年端もいかない、小さな子供たち。
蘇るのは、つい最近知り合った少年兵のこと。彼の無味乾燥な表情。
そして、少年兵とともにいた少佐。すでに死んでしまった二人。
「走れ!」
私は女の子に向かって叫んだ。年の頃は……わからない。一番背丈が高いのが彼女だった。
女の子は私の声に、ようやく我に返ったようだった。ハッと目を見開き、周囲を見回す。
目が合った、と思った瞬間、彼女の視線は私から逸れていた。
私が抱えていたり、手を引いていたする少年たちへと向けられている。
無事を見て取ったのだろう。その表情には、安堵の色が浮かんでいた。
「走れ! 逃げるぞ!」
私はもう一度、少女へ向かって叫んだ。
なぜだ? 不発弾でもあったのか?
詳細はわからなかった。とにかく、今は一刻も早くこの場をはなれなければいけない。ただそれだけを考えていた。
また、いつ爆発が起こるかわからないのだから。
少女は一瞬だけ黒煙の立ち昇っている方へと視線をやり、それから私たちに続いて走った。
終わったはずの戦争。それが奪い去ってしまった、ささやかな幸せがあったことを、私はまだ知らなかった。
◇
どれくらい走っただろうか。
爆発音は聞こえなかったが、煙はまだずっと近くにあったような気がしていた。
心臓がうるさい。久々に感じた、命の危機。
私は走る速度を緩め、その場にへたり込んでしまった。
蘇る、あの頃の自分。周囲の環境。
「あー……」
何度も何度も思い出しては、夜中に跳ね起きていた。
死んでいく仲間たち。爆撃でやられていく敵。手足を失って、それでも生きていかなければならない人々。
ちらりと子供たちに視線を送る。大丈夫。全員いる。五体満足で。
少なくとも、私が助けた子供たちは。
「……君たちは」
言いかけて、女の子と視線が合ってしまった。
なんと言うつもりだったのか。頭からすっぽりと抜け落ちてしまう。
「ええと……」
女の子はじっと、私を見ていた。その目は、警戒の色が濃かったと思う。
目の前の大人は、果たして自分たちの敵なのか、味方なのか。
私は、彼女に対してかけるべき言葉を持ち合わせていないようだ。
「……無事か?」
結局は、そんな当たり障りのない言葉しか出なかった。
子供たちからの返事はなかった。が、見たところ怪我はないようだ。
とりあえずは安心、ということか。
私はほっと胸を撫で下ろした。
「ああ……よかった」
思わずその場に跪いてしまっていた。なんだか、ひどく疲れたような気がする。
私はその場に腰を下ろし、空を仰いだ。
さて、これからどうしたものだろうか。この子供たちは一体、どこから来たのだろう?
近くに彼女たちの住んでいる場所があるのだろうか?
私が思案していると、目の前に人の立つ気配があった。
思考を中断し、視線を上げる。もちろん、先ほど助けた女の子だ。
子供たちの中で、この子が一番年長なのだろう。その表情からは恐れと、何より使命感のようなものが感じられた。
「……あ、あの」
始めて、声を聞いた。言葉を発したところを見た。
もしかしたら、口が利けないのかもしれない。そんな可能性すら想像していたので、素直にびっくりしていた。
「わたしたちを……その、ありがとう」
きちんと、私の意図は伝わっていたようだ。少なくとも、この子には。
私は戸惑いつつ、立ち上がった。
「いや……大丈夫だった?」
こくん、と女の子は頷いた。
「チーもシェンもなんともない」
チーとシェン。女の子が振り返った先にいる、あの二人の名前だろうか。
「わたしはリウ。……あなたの名前を教えて」
「あ、ああ……そうだな。私はオズヴァルトという。よろしく」
再び、女の子は頷いた。
さすがに、しっかりしている。受け答えも、年齢と教育の足りなさを考えれば、いい感じだ。
「リウ、君たちの家はここから近いのかい?」
「近くはないけれど、あまり遠くもない」
「そうか。なら、自分たちだけで帰れるね?」
本当なら、自宅まで送り届けてあげたいところなのだが、こちらも自分のことで精一杯だ。それに、またぞろ銃を向けられでもしたらたまったものではない。
言って、私はその場を去ろうとした。変に情が湧いてしまってもかなわない。
が、私の思惑とは別に、足が止まってしまった。何かが服に引っかかっているようだ。
嫌な予感を抱きながら、振り返る。すると、視線の先には先ほどの女の子。
そして彼女の人差し指と親指が、私の服の裾を握っていた。
「あ、あの……離してはくれないだろうか?」
私は可能な限り、朗らかに、子供たちを怖がらせないよう気を付けながら訊ねた。
結論から言って、無駄なことだった。女の子は私の服を離そうとせず、それどころかくいくいっと引っ張ってくる。
何か、言いたいことでもあるのだろうか?
「ええと……」
私はぐるりと周囲を見回した。けれど、視界に映るのはどこまでいっても平野だった。
女の子は私の腕を掴むと、ぐいっとさらに力を込めて引っ張ってくる。振り解くのは簡単だったが、しかしそれは憚られた。
一体、私をどこへ連れて行こうというのだろうか。
不安と困惑を抱きつつ、私は女の子たちに連れられていく。
うーん……果たして無事でいられるのだろうか? それだけが不安で仕方がない。
◇
連れて来られたのは、爆発のあった場所から相当離れた場所だった。
車やバイク等があればそれほどの距離ではないかもしれないが、徒歩での移動となると果てしなく感じるほど遠い。
そこに、小さな小屋があった。木の切れ端やコンクリの破片などを寄せ集めて作られたと思しき、小さな掘立小屋のような建物。
かろうじて雨風をしのげそうなその建物の中に、子供たちは私を導いていく。
「た、ただい、ま……」
女の子が不安そうな声で言った。年少者たちも、私の手をぎゅっと握っている。
震えていた。
怖いのだろうか? ここは彼らの家ではないのかは?
私が困惑していると、奥からゆっくりとした足音が聞こえてきた。
悠然とこちらへやってくる足音。歩幅は小さく、体重も軽そうだ。
「おう、帰ったか……誰だお前」
奥から現れたのは、表情にまだ幼さを残した少年だった。
眉間に皺を寄せ、怪訝そうな顔色にはどことなく警戒心が浮かんでいた。
それはそうだ。いきなり、見知らぬ男が現れたのだから。
私だって警戒する。もしかしたら、強盗かもしれない。
下手を打てば殺されてしまうかもしれないのだから。
「答えろ、誰だお前は!」
少年はヒステリックに叫ぶ。私は例の子供たちに両手を掴まれていた。
目の前には女の子の背中。これは、もしかしたら不利なのはこちらかもしれない。
いや、罠にかけられたのだと思われた。
腰を落とし、臨戦態勢を取る少年。刃物や火器のようなものは持っていないようだが、徒手空拳で戦う術があるのかもしれない。
殺されるかもしれないと思った。死にたくはなかったので、慌てて弁解する。
「だ、大丈夫だ。私は怪しい者じゃない!」
「そ、そうだよジャマル! この人は大丈夫な人だから!」
リウが両手を広げて、私を庇うように少年に立ち塞がる。
ジャマルと呼ばれた少年は訝しみながら、ぎょろりと視線を移動させる。
まず、リウを見て、それから私を値踏みするように見つめてきた。
「な、なんだよ……」
緊張する。なんだかひどく不愉快な気分だ。
身じろぎひとつとれない。一体、これから何をされるのだろう?
私はごくりと唾液を飲み下した。緊張が小屋の全体を包んでいる。
殺されるかもしれないと思った。もしそうなったら、私は彼らを殺す。
殺す? 子供を? 果たして、そんなことが本当にできるのだろうか? わからない。
が、ともかく今は何事も起こらないことを祈るしかなかった。
「……ま、リウがそう言うんだったら」
ジャマルが臨戦態勢を解いた。な、なんだったんだ、一体。
「あの……よかったね」
女の子、リウが振り返り、微かに笑った。
周囲の子供たちも、ほっとしたようだった。
何がなんだかわからなかったが、とにかく合格した様子だった。何に合格したのかさっぱりわからなかったけれど。
「あ、ああ……よかったよ」
私は肩をすくめて、そう返事をした。
それ以外、何をどうすればよかったんだ?
◇
「ところで、アルとフォウはどうした?」
ジャマルはそれきり、私から興味を失ったようだった。きっと、こちらが敵対する意志がないことが伝わったのだろうと好意的に解釈する。
そうだ、きっとそうに違いない。
彼は先刻までと同じように、何かの上に腰かけた。あれは何だ? ただの箱のようなものに見える。
「……アルとフォウは……爆発に巻き込まれて」
「何? チッ……またかよ」
ジャマルが苛立たしげに舌打ちをする。おおよそ、何の話をしているのかは予想ができた。
先ほど、偶然に私が居合わせた爆発。あれによって巻き込まれ、死亡した誰かが板らしい。
そしておそらくは、その誰かとはリウやジャマルの知り合い。もしかすると家族と呼べるほどの仲だったのかもしれない。
「……すまない、私がもっと早く駆け付けていればもしかしたら」
「やめてくれ。例えアンタがいたところで、何も変わらなかったさ」
ジャマルは小さく手を振ると、面倒臭そうに嘆息した。
「こんなことは日常茶飯事だ。不発弾に地雷、触っただけでヤバい毒。あの戦争の名残がどこにでもある。誰かが死ぬことなんて当たり前のことだ。いちいち悲しんでいたら、心が持たない」
「しかし……いや、そうだな」
ジャマルの言うとおりだ。
戦争の残した物。それはあまりにも悲惨な物だだけだった。
これまでの旅でも、幸せを口にする人間はいなかった。いたかもしれないが、私の記憶は曖昧になりつつある。
あまりにも、目の前の生活にかかりきりだからだ。
「それで、なんでそいつを連れてきたんだ?」
「えと……爆発に巻き込まれたときに、助けてもらったの。だからお礼がしたくて」
「なるほど。……そいつは悪かった」
ジャマルは首を振ると、ハッと肺の中から空気を吐き出した。
「礼はする。……とはいえ、俺たちも自分らのことで精一杯だ。大したもてなしはできないぞ」
「私も別に、そんなつもりで助けたわけではないのだけれど」
なんだったら、ここから解放してくれるだけで十分なのだけれど。
そう喉まで出かかったが、ぐっとこらえた。
ジャマルは私の脇を通り抜け、外へと出ていく。どこへ行こうというのだろうか?
私は彼の言動がいまいち理解できなかった。当然だ。今しがたあったばかりの子供の心の内を把握しろ、と言う方が無理があるだろう。
「彼は……君たちにとってどういう存在なんだ?」
「え? ジャマル?」
リウは私を見上げ、それからジャマルが消えた方へと視線をやった。
「ジャマルは……ジャマルはわたしたちのリーダーで、お父さんで、おにいちゃんで」
指折り数えて、リウはとつとつと答えてくれた。
「すごく……すごい人、かな?」
小首をかしげ、困ったように笑うリウの表情を見て、私は自分がいかに野暮なことを聞いてしまったのかを悟ったような気がした。
ジャマルやリウにとっては今の生活だけが現実で、他のことを考えている余裕なんてないのだろう。
言い換えれば、余裕がないのだ。
「そういえば、話は変わるが他に人はいないのか?」
「人? いるよ。少ないけど」
リウの言葉に、私は少なからずほっとした。
リウやチー、シェンといった子供たちには会ったが、大人にはまだ出会っていないように思えたから。
きっと、昼間は何らかの仕事をしているに違いない。それで、見かけなかっただけなんだ。
「じゃあ、こっちに来て」
私はリウに手を引かれ、どこかへと連れて行かれるようだった。
果たして、どこへ行こうというのだうか。
「わたしたちの国を案内してあげる」
「……国?」
わたしたちの国……確かに彼女はそう言った。
それは、一体どういう意味なのか、この時に私にはまだ、知る由もなかった。
◇
私はまず初めに、自身の勘違いを正さなければならなかった。
案内された先々で、子供がいた。平均年齢はおよそ十歳から十五歳といったところだろうか。正確な年齢はわからなかったが、おそらくジャマルが最年長なのだろう。
だからこそ、彼がこの国のリーダーを担っているということか。
「ここには子供たちしかいないのか?」
家々を回っていると、ふとそんな疑問を抱く。家屋……という名の瓦礫をかき集めただけのバラック小屋は、どれもとても大人が入れる大きさではなかった。
総勢十二人。全部の家がそんなふうだった。疑問も湧くというものだ。
私が当然の疑問を訊ねると、隣を歩いていたリウが不思議そうにこちらを見上げた。
「……うん、ここにはわたしたちしかいないの」
どうして、と口をついて出かかった。けれど、すんでのところで踏み止まれたのは、我ながらよかったと思う。
何せ、この件を深堀しても意味がないからだ。それに、リウには嫌なことを思い出させることになるかもしれない。
「そうか……」
だから私は、そんなことしか言えなかった。
赤の他人。通りすがりに過ぎないのだから。そう自分に言い聞かせて。
「ところで、本当にいいのだろうか? 私がいたらよくないのでは?」
先ほどから、物陰から視線を感じているのだけれど。
大人がいないのだから、大人の存在が珍しいのかもしれないのだけれど。それに慕って落ち着かない。
リウはくるりと身を反転させると、空を仰いだ。
つ、伝わっていないのだろうか?
まさか、全然関係のないことを考えているのではないだろうな?
ちょっと心配になっていると、リウはニコッと微笑み、確固たる口調で言う。
「大丈夫だよ。みんなきっとあなたのことを好きになってくれるから」
そういうリウは、自信ありげだった。
どうしてそんなことが言い切れるのか、私にはわからなかった。けれど、まあ彼女がそう言うのだから、そうなのだろう。
「……君たちは普段、どうやって生活しているんだろう?」
「普段? ええと……まず朝起きたら水を汲みに行って、それからごはんになりそうなものを探して、それから……」
リウは指折り数えて、私に教えてくれる。久しぶりに大人と会話するからだろうか。彼女の声は少し弾んでいるように思えた。
また向こうを向いてしまった。
私としても、子供と触れ合うのは久しぶりだ。懐かしいような、むず痒いような、不思議な感覚にとらわれる。
けれど、やはり一番は悲しい気持ちが大きいだろうか。
「あなたと最初に会った時、死んだ子がいたって話してたと思うけれど」
「あ、ああ……さっきそんなことを言っていたな」
不発弾の爆発に巻き込まれて死んでしまった仲間がいたと。
「でも、わたしたちは生きていかないといけないってジャマルは言うんだ。明日も明後日も、その次もその次も」
「……そうだな」
大勢が死んだ。今も、きっと世界のどこかではたくさんの命が散っているだろう。
それが弔いになるのかどうかはわからなかった。とはいえ、精一杯生きていくしか私たちにできることはない。
だから、力の限り、できることは何でもして、生存していかなければならないのだと思う。
「何を言っているのかわからないと思うけれど」
私は足を止めて、そう前置きをした。
「死ぬことは辛いことではないんだ。……本当に辛いのは、死を見届けることだから」
理解できないかもしれない。それでも、伝えなければならなかった。
まだ、ほんの子供だ。しかし、これから先成長していくにつれて、わかってくる。
成長、できればだけれど。
リウは私を振り返り、じっと身じろぎひとつしなかった。
ただ黙って、私を見つめていた。
私の目を、私の心を見透かすかのように、じいっと。
「うん……そうだね」
小さな女の子は、頷くことも微笑むこともなく、ただそう言うだけだった。
そこには、何の感情も読み取れなくて、それが一体何を意味しているのかがわからなくて、私は困惑するだけだった。
思い返せば、つい数分前のことだ。
ジャマルが、言っていた。
ここでは死は日常茶飯事だと。
私は常に自らの死と隣り合わせの場所にいた。だからかもしれない。
頭ではわかっていることも、実際にはわからなくなっていたのかも、なんて考えてしまう。
そして、彼女たちはそれをきちんと理解していて。
だからこそ、余計なことは口にしないのかもしれない。
「ところで、今日のごはんはどうしようかなー?」
「ごはん? ああ、そういえば」
言われてみれば、空腹なような気がする。ただし、実際は数日何も食べられないというようなことがあるので、実は違うのかもしれないけれど。
「あなたも食べる?」
「え? ええと……」
問われて、私はすぐに返事をすることはできなかった。
確かに腹は減っている。とはいえ、ここの子供たちだって生活は苦しいだろう。
貴重な食糧を分けてもらっていいものか、判断に悩む。
それでも、これまでの道のりで出会った人たちは、私に対して親切だった。
見も知らぬ人間に対して、献身的だった。この子もそうなのだろう。
この荒廃してしまった世界で、人との繋がりは大切だから。
「……じゃあ、もらおうかな」
私は少し考えて、彼女の提案をありがたく受け入れることにした。
「ところで、食事はどうやって調達するんだい?」
「ん? えっとねー、いつものところに行ってねー」
「いつものところ?」
どこかに罠でも仕掛けているのだろうか。しかしこんな子供が。
などと考えるのは、この子たちに対して失礼なのだろうけれど、しかしほとんど反射的にそう思ってしまっていた。
仕方がないと言えばそうだ。まだ、私には過去の常識というものに縛られている節があるな。
それはそうとして、リウに連れられて私たちは件の「いつものところ」へと足を向けるのだった。
◇
果たして、いつものところへと案内される。
そこは鬱蒼とした雑木林だった。リウたちの暮らす町(と言っていいものか迷ったが)からそこそこ離れた場所。
そこに、ジャマルたちの手製と思われる罠が張り巡らされていた。そしてその罠に数匹の獲物が掛かっていた。
私は思わず「おお……すごい」と簡単の息を漏らしていた。
もちろん、年端もいかない子供が自分たちだけでこれをやり遂げたというのもそうだ。けれど、それ以上に彼女たちのたくましさに、何だか胸が高鳴ってしまう。
よほど、私などよりしっかりしていると思う。
「これを、君たちが?」
私が小声で尋ねると、リウは少しだけ照れたように笑って、頷いた。
「そうだよ。わたしたちがこれを作った。そうすれば、お肉が手に入る。そうジャマルが教えてくれたの」
「ジャマルが?」
私は一瞬だけ、口の端がひきつるのを自覚した。
ジャマル……彼のあの目が蘇る。
何にも期待を寄せない、すべての諦めたかのような瞳が印象的だった。
彼はただ、残っている仲間たちをどうするべきか、どうやったら幸せにできるのか。
ただそれだけを考えているに違いない。
「君たちは一体、どういう集まりなんだ?」
それは、私にとってどうでもいいことだった。
どうでもいい、と言ってしまうと、誤解を招くかもしれない。
確かに気にかかることではなるのだけれど、答えを聞いたからといって何ができるわけでもない。
故に、聞いても聞かなくても同じことだ。
そういう意味では、どっちでもいいと言える。
私の問いを、リウはどう受け取ったのだろうか。
彼女は振り向くことなく、じっと罠のあるほうへと視線を向け続けていた。
まるで、そこから目を逸らしてはならないと思い込んでいるようだった。
「わたしたちは……別に何でもないよ。ただの、わたしたちっていうだけ」
「……そうか」
リウの答えは、答えになってなどいない。
きっと、よそ者の私などでは、到底理解しえない地獄を味わってきたのだろう。
だから、私はそれ以上の詮索を止めることにした。
もともと、それほど関心のある話題ではないことだし。
「……それにしても、何にも来ないな」
私はその場でじっと息を潜めていることに耐えられなくなった。
こうしてじっとしているのは、慣れているはずだったのに。いつから私は、これほど我慢弱くなってしまったのだろう。
思い返せば、世界が滅んでしまってからこっち、人と巡り合うことは私にとって喜びだったのような気がする。
世界中のほとんどの人間(と私は勝手に思っている)が消失してから、誰かと巡り合う度に、言い表しようのない喜びを感じていた。
端的に言って、嬉しかったのだ。人との会話が。
そして今、久方ぶりの沈黙が訪れているのだと言えた。
一人の沈黙と、誰かと一緒にいる時の沈黙というのは、感覚に相違があった。
一人の時は平気でも、誰かと一緒――例えそれが子供だったとしても――の時の沈黙というのは、耐え難いほどに感じてしまう。
私はじっと、罠を見つめるリウの頭頂部を見下ろしていた。
小柄な体躯は、狩人を務めるにはいささか以上に不釣り合いなように感じてならなかった。
そういえば、ジャマルは今何をしているのだろう? どうして彼は食事の調達という、重大なミッションをこんな小さな少女一人に押し付けているのだろう。
もちろん、彼らなりの理由があるのかもしれない。そしてそれは、彼らにとっては重要なことなのかもしれない。
だからと言って……などと考えていると、リウの小さな肩がピクッ震えた。
「かかった……!」
「何?」
リウの歓喜の声を聞いて、私は思わず顔を上げた。
見ると、確かにそこには罠にかかったらしい獣がいた。
なんだあれは? 豚、にしては毛深い。イノシシか?
「しかしイノシシにしてはちょっと」
違和感があった。何にせよ、獲物が捕まったのであればめでたいことだ。
とはいえ、イノシシらしき獲物はまだまだ元気があり余っている。
罠から逃れようと暴れ狂っていた。一体、どうするつもりだろう?
私はリウがここからどう仕留めるのか非常に興味があった。
イノシシのような獣は確かにあまり大きくはない。だからといって、リウ一人ですべてを片付けるのは至難の業だろう。
どうするつもりだろう……そう思って眺めていると、リウは懐から筒状の何かを取り出した。
「……それは?」
「ん? これはね、打ち上げ花火だよ」
「打ち上げ花火? どうしてそんなものが?」
「まあ見てて」
リウは得意げに笑うと、筒状のそれを頭上に掲げる。
それから、底部にあるヒモを引いた。そうすると、筒の先端から何かが飛び出した。
それはほどほどの高さまで飛翔すると、パァンッと大きな音を叩て破裂した。
「……あれは合図か?」
「そうだよ。獲物が罠にかかったよって合図」
まあそうれそうだろう。いくらリウがしっかりしていてたくましいとはいえ、豚やイノシシほどの大きさの獲物を一人で捕獲することなど不可能だ。
どんなマジックが披露されるのだろうと期待したが、当然のことだ。
納得すると同時に、ちょっとだけがっかりもしていた。まあこんなものだ。
「それで、ジャマルたちはどれくらいで来るんだろう?」
「わからないけど、すぐ来ると思うよ」
その間リウはどうするつもりだろうか。そう訊ねると、彼女はその場に腰を下ろした。
「ここで待つんだよ。あいつが逃げちゃわないように」
「なるほど」
まあそれはそうだ。リウ一人で捕獲までは無理でも、見張りくらいはできるか。
「もし逃げちゃったら、どっちの方に逃げたか教えることになってるんだ」
リウは森の奥を指さして、そう教えてくれた。
とはいえ、だ。いくら見張りだけとはいえ、彼女一人でこんな作業は危険だろう。
「いつも一人でやってるのか?」
「うん。人手が足りないんだってジャマルはいつも言ってるから」
だから、できることは何でもやるんだ、そう言って笑うリウは言葉とは裏腹に年相応の子供のように見えた。
こんな世界になってしまったから仕方がないといえ、大変な世の中になってしまった。
子供だけで生活をしていかなければならないなんて。
などと考えていると、場の空気管が変わったような気がした。
ちらりとリウを見やる。と、彼女は息をひそめて、じっと眼前を凝視していた。
なんだ……? 私はリウの視線の先を追う。すると、その先に獲物が姿を見せていた。
「……なんだ、あれは?」
私もリウと同様に、息をひそめた。いや、正確には言葉が出なくなったというべきか。
私たちの目の前に現れたのは、巨大なオオカミのような生物だった。
けれど、私が知っているオオカミとはまるで違う。明らかに異常な巨大さだ。
それに、何を置いても特筆するべきはその鋭利な牙と爪、そして瞳だろう。
普通のオオカミのおよそ倍はあろうかという体躯。比例するように巨大な牙。
爪は鋭く、あんなもので引き裂かれたら子供の体など一瞬で八つ裂きだ。
「……なあ、これは逃げた方がいいんじゃないか?」
あんな生物、以前の世界でも見たことがない。一体何があったというのだろう。
突然変異、という奴か?
私は小声で、巨大オオカミに気付かれないようにリウに伝えた。
けれど、リウは私を一瞥すらすることなく、じっくりと見つめていた。
「おい、リウ……話を聞いているのか?」
「シッ、静かにして」
「むっ……」
私は少し取り乱していたようだ。
リウに、自分よりだいぶ年下の女の子にたしなめられ、私はむっとしてしまった。
しかし、いくら大人だからといって、あれを目の前にしたなら、取り乱すのもやむなしだろう。恐怖を感じない方がおかしな話だ。
あれは人間が相手にしていいものじゃあない。
「逃げよう」
私はリウにそう提案した。けれど、リウは首を振る。
横に。ノーとでも言いたげに。
「……なぜだ?」
一瞬、頭に血が上って大声を上げそうになった。
それを何とか踏みとどまり、彼女に耳打ちする。
あの化け物に気取られた瞬間、私たちは終わりだ。待っているのは死。
自分に待ち受けているものを意識すると、自然と鼓動が早くなる。
息が荒くなっているのがわかった。対して、リウは落ち着いたものだ。
少なくとも、表面上は。
「わかってるのか? あれは私たちだけでどうにかなるような相手じゃない」
それどころか、ジャマルや他の子どもたちと力を合わせたところで太刀打ちできるのかも未知数だ。
少なくとも、無事では済まないだろう。
今、我々がやらなくてはならないことは、この情報を彼らに伝えることだ。
対策を練ってから、再び訪れればいい。
幸いにして、奴はまたこの場所に現れる公算が大きい。
なぜなら、あれもまた生き物の気配を感じ取っているだろうから。
生き物――すなわち食事にあり付ける可能性があるとするなら、あれは再びやってくる。
あの怪物がどんな生態を持っているのわからない。が、オオカミのようなものだとするなら、縄張りを巡回するとうこともあるだろう。
何にせよ、ここは一旦引くのがベストだ。
「だから」
「――無駄だと思うよ」
リウは小さく、蚊の鳴くような声で。
しかしはっきりと、冷たくそう言い放った。
「無駄? それはな……」
疑問を口にしようとして、はたと思い至る。
そうだ。あれをオオカミ等の変異種だと仮定するのであれば。
耳も目も鼻も、人間である私たちよりいくらも上。
今ここで身を翻して物音を立てようものなら、即座に見つかってしまうだろう。
そうして、私たちを捕食して終わりだ。
数秒後の未来を想像して、ぞっとする。
なんとか、この場から逃げ出すことはかなわないだろうか。
そうだ……リウを囮に使えばあるいは……。
そこまで考えて、ハッと我に返る。
何を考えているんだ、私は。そんな馬鹿なこと、一瞬でも考えるものじゃない。
ここでリウを囮に使う? ありえないことだ。絶対に。
「……では、ここからどうするんだ?」
とはいえ、このままでは見つかるのも時間の問題だろう。
もしあの怪物が私たちの存在に気が付いたら、一巻の終わりだ。
私一人では、どう足掻いてもあの怪物からリウを守り通すことは不可能だ。
「……たぶんだけれど、大丈夫」
リウの小さなその呟きに、私は首を傾げた。
なぜ、そう思うのか。どうしてだ?
しかし、私のそんな疑問はすぐに解消されることになるのだった。
現れたのは、これも巨大な体躯をした怪物のような影だった。
先に姿を見せていたオオカミのようなそれとは違い、新しく現れたのは若干前かがみではあるものの、より人間に近い生物のように見えた。
似ている動物を挙げるとするなら、ゴリラだろうか。
「何をしているんだ、あいつら?」
縄張り争いだろうか。二匹の怪物は互いに威嚇を始め、争いを始めてしまった。
一体何が起こっているのか。理解が追い付かず、茫然とする。
すると、パッと何かが私の手に触れた。手元を見ると、リウの小さな手が私の手を握っているのがわかった。
「……今のうち」
二匹の怪物が争っている間に逃げようというのだろう。
リウの提案に、私は黙って頷く。腰を落としたまま、そっとその場を離れた。
離れ……ようとした。
パキッと、大きな音がしたような気がした。背筋が凍る。
私は自分の足元へと視線を落とした。けれど、何も踏んでなどいない。
おそるおそる、リウの方を見やった。彼女の表情には、恐怖にも似たそれが浮かんでいた。
なぜか。リウの足元には小枝が落ちていたからだ。そしてその小枝を踏んでしまっている。
普段なら、何とも思わなかっただろう。気にも留めなかっただろう。
もし、こんな状態でなかったら。
私とリウは後ろを振り返る。すると、オオカミとゴリラの怪物は争いを中断していた。
何かを探すように、品定めするように音のした方向、つまり私たちへと視線を送っていた。
「――――ッッ!」
命の危機を感じた。ここで手を打たなければ、確実に殺される、と。
私は慌てて周囲を見回した。何か、使えそうなもの、武器になりそうなものを探して。
しかし、役に立ちそうなものは見当たらなかった。
下手を打てば殺される。けれど、何もしなくても殺される。
どうしたらいいのか。半ばパニック状態になってしまっていた。
大の大人が情けないと言われても仕方のない状況だろう。
願わくば、この時の私の心境を察して欲しいものだ。
「と、とにかく走れッ!」
私は叫ぶと同時に駆け出した。怪物たちとの距離は本当に目と鼻の先だ。
どれだけ逃げ切れるか。状況は絶望的だった。
それでも、一縷の望みを見出すため、逃げるしかなかった。全力で逃げるしか。
が、一メートルもいかない内に、短い悲鳴が聞こえた。
背後を振り返ると、リウが転倒しているところだった。
「くっ……!」
リウを助けていれば、あの怪物たちに殺される。そうなれば二人とも死だ。
一方、彼女を見捨てて逃げれば、まだ生存の可能性はあった。
怪物たちが目の前で倒れている食料に気を取られている間に逃げおおせることも可能だろう。
私は自分でも驚くほど素早く、その二つを天秤に掛けていた。
目の前の小さな女の子と自分の命。どちらを優先するべきか。
きっとこの時の私は、冷静さを欠いていたのだろう。
「くそ!」
私はすぐにリウの元に駆け戻ると、彼女の小さな体を抱えて再び走り出した。
とはいえ、相手は野生の獣だ。人間の私の足では、到底引き離すことなど不可能。
いや、それは最初からそうだったのが、それでも走る以外の選択肢を私たちは持たなかった。だから走った。
生きるため。生きるという可能性を得るために。
私たちは生き残らなければならない。
ただそれだけが、私の脳の奥底にこびり付いていた。
私はリウを抱き抱えた。それからすぐに、駆け出す。
もちろん、その後のことなど考えもしなかった。ただただ、体が自然と動いたのだ。
この状況を打開する手立てはなかった。
胸に渦巻く絶望感と、それでもなお「もしかしたら」という淡い希望が私に両足を動かしていた。
怪物との距離は明確に縮まっていた。振り返って見たわけではないが、確実にそれは言える。
人間の足で、あいつらを振り切れるはずがなかった。
駄目……なのだろうか。観念して、怪物どもの腹の中に納まるより他にないのだろうか。
私はどうしたら……などと考えていると、周囲に変化があったような気がした。
全力疾走しているはずの私の視界が、ゆっくりと後ろへと流れていくのだ。
それはあたかも、時間の流れが遅くなったかのような感覚だった。
抱えて走っているはずのリウの重みも感じなくなった。
これは、一体どうしたことなのだろう? などとこの時の私は全く考えない。
ただその感覚が気持ちよくて、ずっと浸っていたいと。それだけを思っていた。
そしてその傍らで、やはり死を意識していた。
怪物に貪り喰われて死ぬ。それもまた運命なのかもしれない。
そんなことを考えて、一人謎に悦に入っている時だった。
「…………飛べッッ!」
どこからともなく、声が聞こえた気がした。なんとなく聞き覚えのなるような声。
私はその声に従って、飛んだ。
特に何かを思っていたわけではない。おそらく、体力の限界を超えていたのだろう。
私の思考力は確実に麻痺していた。だから、考えることを放棄してしまったに過ぎない。
ともかく、私は飛んだ。ジャンプだ。リウを抱えたまま。
普通の状態で飛び上がるのなら、なんてことはなかった。
けれど、この非常時にリウを抱えたままというのはいささか以上に大変だ。
しかし、私はやった。後にして思えば、我ながらよくやったと思う。
思い返してみても、ぞっとするようだ。
着地すると同時にバランスを崩して、その場に倒れ込んだような格好になってしまった。
リウのことも、放り投げてしまった形になった。
小さなうめき声が聞こえてきて、慌てて顔を上げた。
リウがその場にうずくまっていた。どうやら、どこかを強かに打ち付けてしまったようだ。
けれども、無事な様子にホッとした。と同時に、自分たちの状況を思い出す。
そうだ、あの怪物どもはどうなった?
私はとっさに後ろを振り返った。すると、そこには意外な光景が広がっていたのだった。
「……なんだ、と?」
なんと、怪物たちもうずくまっていたのだ。
私から数センチの距離。おそらく、相手が無事だったなら、すぐにやられてしまう距離。
しかし、怪物どもは私のすぐ目と鼻の先で倒れ込んだまま、起き上がろうとはしなかった。
いや、正確に言うならばできなかったのだ。
私は奴らの手や牙が届くことを恐れ、倒れた姿勢のまま、後ろに下がった。
怪物は私を恨めしそうに睨んでいたが、それだけだ。
何が起こったんだ?
頭の中に疑問符が沸き起こった。
――足、足だ。怪物の足。
怪物の足がなくなっていることに気が付いた。でも、なぜ?
よくよく目を凝らすと、赤い線が細く伸びているのに気付いた。
あれは……血、だろうか。
怪物たちは苦しむように、じたばたともがいていた。
「何が……あったんだ?」
私は何が起こったのか理解できず、きょろきょろと周囲を見回した。
すると、視界の端に人間の足が入ってきた。
視線を挙げると、目の間には一人の少年がいた。
ジャマルだ。口を真一文字に結び、不機嫌そうに怪物どもを睥睨していた。
「……どうして」
ここにいる? そう尋ねようとして、しかし続けることができなかった。
リウのうめき声が聞こえてきたからだ。体を起こし、周囲を見回していた。
何が起こったのかわからない様子だった。まだ、混乱の最中にあったのだろう。
私だってそうだったのだから、小さな子供ならなおさらだ。
けれど、リウは私やジャマルの姿を認めると、すぐに表情を明るくさせた。
即座に立ち上がり、リーダーの許へと駆け寄っっていった。
ひしっとジャマルに抱き着いた。怖かったのだろう、その体は震えていたのを覚えいてる。
やはり、しっかりしているようでいても、まだまだ子供だったのだ。
大人でも取り乱す事態だ。子供なら、なおのことだったのだろう。
ジャマルはそんなリウの頭を軽く撫でてやり、その体を抱く。
安心させるように、優しく。その表情は実の兄か、父親を連想させた。
こんな顔もできるのか、と場違いな感想を抱いたのを覚えいている。
「おい、今の内にやってしまえ」
ジャマルは誰にともなくそう呟いた。すると、木の陰にや岩陰に隠れていたらしい彼の仲間たちが躍り出る。
手に手に、手製のナイフや槍を持っていた。怪物どもにとどめを刺すつもりだ。
私はごくりと喉を鳴らした。雄叫びと断末魔の叫び声が響き渡った。
どれくらいの時間が経ったのだろう。そう長い時間ではなかったはずだ。
怪物は殺され、その場で解体されていく。その様子を私はただ茫然と見ていた。
目が離せなかった。これが、生きていくことなのだろうかと思った。
解体が終わる頃、私はようやく立ち上がった。
二頭の怪物は骨まで細かく切断され、跡形もなく消えいた。
あれだけの恐怖を与えてきたそれのなれの果て。その光景に、私はただただ立ち尽くすほかなかったのだった。
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