第三話 犬と思い出。

 私の前に、一匹の犬がいた。

 私はそれほど犬種に詳しいわけではないけれど、おそらく元は狩猟犬だったのだろうと思われる。

 シュッとしたシャープな顔立ち。細いが筋肉質な腰回り。見知らぬ人間を目の前にしても動じない胆力。

 この犬が持つ全てが、ただ者ではないという事を物語っている。

 犬だが。

 私はジリジリと肌を焼く太陽の下で、もう五分はその犬と睨み合っていた。

 そろそろ季節が変わり始めたのか、それとも温暖な気候の地に足を踏み入れたのか、そのあたりは私にはわからなかった。

 私は犬から視線を外し、頭上を見上げる。

 そこには一つの銅像があった。

 馬に跨り、腰からサーベルを引き抜いて、いる男の銅像。

 ナポレオンだろうか。それとも、別の勇敢なるヒーローの像だろうか。

 戦禍から免れる事はできなかったと見えて、その像も頭から左肩の部分が大きくえぐれていた。

 そして、その銅像の下に、その犬は座り込んでいたのだ。

「お前は、なぜこんなところにいるんだ?」

 ハッハッハッと犬は垂らした舌を揺らしながら、呼吸を繰り返す。私の言っている事が理解できたなかったのだろう。小首を傾げている。

 まあ犬だし。人間の言葉がわかるはずもない。

 私はその場に膝を折り、犬と視線を合わせる。と、犬はつぶらな瞳を私に固定したまま、一声吠えた。

 警戒されているわけではないようだ。スッと、犬の頭に手を乗せる。と、嬉しそうに目を細めた。

 うーん、可愛い奴め。

 私は思わず、頬が緩むのを自覚した。

 旅を始めてからこっち、ずっと悲しい事の連続だった。

 けれど、この犬と出会えた事はそんなこれまでの苦労の中の一つの癒しとも言えるだろう。

 犬は私に撫でられるままだ。よほど人間に慣れているのだと思われた。

 以前の飼い主が相当な犬好きだったのだろう。大切にしてもらっていたようだ。

「私は今、旅をしている。食べ物を探してな。お前も来るか?」

 犬に訊ねた。けれど、犬は小さく悲し気に鳴くだけだった。

 ノー、という事らしい。

「お前は……ここで誰かを待っているのか?」

 別の問いを犬に投げる。が、犬はやはり小首を傾げるだけだった。

 さて、そろそろ出発しよう。長居をしている余裕はない。

 旅の仲間ができなかった事は残念だったが、仕方あるまい。無理強いはできないのだから。

 私が立ち上がると同時に、犬は私から視線を逸らした。

 その瞳が、嬉しそうに輝いた気がした。

「じゃあ、またどこかで会おう」

 そんな事はありえないと知りつつ、私は犬の頭を最後にひと撫でした。

 それから、先へ向かおうと歩を踏み出した。その瞬間だった。

 犬が、二度、三度と吠えた。それも、かなりの声量だ。先ほど私に吠えたのとは違う。

 声が弾んでいる、とでも言うのだろうか。いかにも嬉しそうだ。

 私は今の今まで、犬という生き物がこれほど声に感情が乗るものだとは知らなかった。それどころか、表情が豊かなのだなという事もつい先ほど知ったほどだ。

 犬は私の脇を通り抜けて、駆けていく。

 私は何気なく振り返った。パタパタと尻尾を振る犬の姿が目に入った。

 そこで、私はぞっとした。背筋に悪寒が走ったとでもいうのだろうか。

 なぜなら、犬が嬉しそうに見詰めるのその先には、誰もいなかったのだから。

 

 

               ◇

 

 

 そう。虚空に向かって尻尾を振っていた。嬉しいという感情を隠そうともせず、更に二度、吠えた。

 私はすぐさま、脳裏にある迷信が過ぎった。

 いわく、子供や動物には幽霊が見える、というあれだ。

 幽霊、ゴースト……そんなものの存在を、私は疑っていた。

 半信半疑、という奴だ。私はこれでも、一兵卒として戦場でそれなりに戦ってきた。

 敵味方を問わず、山と積まれて死体を見てきた。他人を殺した経験も幾度となくある。

 けれども、そうした霊や魑魅魍魎の類いを目の当たりにした事は、幸いにして今まで一度もない。

 故に、半信半疑だった。あんな噂は。半疑、というか七割方疑っている。

 思い込み、眉唾、恐怖心が生み出した幻影、枯れ尾花。

 そんなものが、幽霊と呼ばれる何かの正体なのだろうと、高を括っていた。

 それなのに、私は目前にしている。

 犬が、虚空に尻尾を振る様子を。ワンワンッと楽しげくるくると回る様を。

 これが、ぞっとせずにいられようか。いや、否だ。

 これはどうした事だろうか。

 犬は先ほど、私にしたのと同じように虚空に向かって小首を傾げている。

 何を言っているの、とでも問いたげだ。それがまた恐ろしい。

 犬はふっと私の様を振り向いた。何だ?

 私が反応に困っていると犬はこちらに小走りに近寄って来た。

 ……なぜ?

 ワンッと一声鳴く。……なんだ?

 犬の考えが読めず、今度は私が小首を傾げる番だった。

「どうしたんだ? なぜ戻って来た?」

 というか、今あそこには何がいるんだ?

 私は、先ほどまで犬がいた場所へと視線をやる。が、私には何も見えなかった。

 相変わらず不毛の地が広がるだけで、そこには何者もいない。

 しかし、この犬の行動はまさしく誰かがいるかのようだった。それは誰だ?

 改めて、ぞっとするようだった。私はそれほどホラーが得意な方ではないので、止めて欲しいところだ。

 私には見えない何かがこの犬には見えていて、懐いている。

 そう考えると、先ほどまで愛らしかった犬の瞳がどこか空恐ろしくも見えてくるから不思議だ。

 はて、どうしたものだろうか。

 考え込んでいると、犬は私の服の裾を加えて、引っ張ってくる。

 どこかへ私を連れて行こうとしているようだ。一体どこだ?

 犬に連れられ、私はそちらへと足を踏み出す。我ながら情けない事この上ない。

 しかし、この犬は一体どこへ私を連れて行こうというのだろう?

 

 

              ◇

 

 

 犬に連れられて向かったのは、一件の民家だった。

 民家……紛れもない民家。民間のホテルというわけでもなく、何かの施設というわけでもない。本当に、ただ人が住んでいただけの民家。

 住んでいた、というのは、そこが家主がいなくなって久しい家だったからだ。

 なぜわかるのかと言えば、まずはカレンダーだろう。

 私の記憶している年月日と一致している。次に部屋の中のほこりっぽさ。

 まるで、長い間掃除をしていないかのようなその荒れように、私は戸惑いを覚えた。

 これでは、私が不法侵入をしてしまったかのようではないか。

 私は傍らでだらりと舌を出している犬を見下ろした。

 彼、ないし彼女は私を見上げ、嬉しそうに一声鳴く。

 この時点で、私はこの犬コロに問いただす事を諦めた。

 その代わりに、家の中を物色する。何か食べ物がないかと思っての事だ。

 犬は我が家を徘徊する他人の後に付いて回ってくる。つまり私なわけだが、果たしてこの犬が一体どういうつもりなのかがわからない。

 いや、犬に対してどういうつもりなのかと疑問を持つのは馬鹿々々しい事なのだろう。そんな事に、何の意味もありはしないのかもしれない。

 玄関を上がってすぐのところに、花瓶があった。

 そこに活けられていたであろう花はすっかり枯れてしまっている。黒くてがさついたそれは、かつての美しかったであろう姿を消してしまっていた。

 以前から花を愛でる、という習慣は私にはなかった。

 けれど、世界が一変してしまってからというもの、自然の景色以外に私を慰めてくれるものもない。ので、自然とそういう部分に目が行くようになってしまったのだ。

 玄関を上がると、次に待っていたのはリビングと思しき部屋だった。

 以前、ここに住んでいた人間は几帳面な性格だったのだろう。

 整然と並べられた椅子やソファは簡素なデザインのものが多かった。その中に、ちょっとした小物が並べられている。

 そんな光景と、うっすらとほこりが積もった現状がアンバランスに思えた。

 恐怖、と言うほどではないけれど、どこか薄ら寒いものを感じる。

 とはいえ、とりあえず今晩の寝床は確保したと考えてよさそうだ。

 この家のどこかに家主の死体があったとしても驚かない。死体とともに眠っている自分を容易に想像できる。

 それどころか、死体と抱き合っていたりして。

「笑えない冗談だな」

 私は一人呟き、ちらりと犬を見た。

 犬は私の言葉が理解できないらしく、きょとんとした様子だった。まあそりゃそうだ。

「さて……それにしても、ずいぶんと奇麗だな」

 長く使われていなかったからだろう。家の中はあちこちほこりだらけだ。

 けれど、逆の言えばそれだけだ。あまり荒れた様子はなかった。

 銃弾が壁にのめり込んでるわけでもなく、屋根や壁が吹き飛ばされているわけでもない。

 暴徒や火事場泥棒に家の中を荒らされた形跡もなければ、誰かが暴れたという事でもなさそうだ。

 それが、不思議だった。

「普通、こういう時は大抵よからぬ事を考える奴がいるものだが」

 例えば、災害時には災害現場から金目の物を盗もうとする輩がいる。

 けれど、何かが違っているようだ。それにしても、なぜ?

 私は小首を傾げ、考える。

 火事場泥棒と言えば、今の私なのだという気付きは一旦脇に置いておこう。

 私はあらかた一回を歩き回った。部屋数や食料の状態を見て回る。

 やはり、食べ物の類いはあまりなかった。とはいえ、食べられる物が皆無というわけでもなさそうだ。

 そんな事を考えていた時だった。

 今のような状況を想定してだろうか。保存食の備蓄を相当数発見した。

「えらくたくさんあるな」

 ざっと数えて、大人が二十人、一年間は食べられるだろうか。多少少ないかもしれない。

 その用意周到さに、どこか薄ら寒いものを感じて、ごくりと唾液を飲み下した。

 なぜここの家主はこんなにも備蓄食料を蓄えていたのだろうか?

 私は食料保存庫から出て、更に家屋の中を歩き回った。

 家の規模からして、二階が存在するようだ。

 階段を見付け、昇る。ギシッと一段昇る事に嫌な音が鳴った。

「……三部屋あるのか」

 おそらく一階が家族全員の生活空間。そして二階がそれぞれの生活空間なのだろう。

 まず、一番手前の部屋から入った。相変わらず犬は付いて回ってくる。

 子供部屋のようだった。レイアウトや転がっているおもちゃなどからして、きっと乳幼児の部屋だったようだ。

 乳幼児。つまりまだ、一人で立って歩く事もできない赤ん坊。

 そんな赤ん坊まで消えてしまったのかと思うと、胸が痛む。

 すぐに部屋を出た。別段、今後の生活に役立つ物はないのだろう。

 次はすぐ隣の部屋に入った。

ここは、少し年齢が上の子が使っていたのだろう。さっきの部屋とは違っていた。

壁にはヒーローのポスター。そして勉強机。壁には数冊の本。伝記が多数。

科学少年だったようで、テスラやエジソン、ライト兄弟の本が多い。

恥ずかしながら、私は科学というものをまともに学んだ事がないので、その程度の人物しか知らなかった。

他にも何冊か著名な科学者と思われる人物の伝記を発見したが、それに書かれている事の意味が理解不能だ。

 総じて、聡明だが普通の子供だったようだ。

 その子供も、今や科学者となる前に消えてしまったわけだが。

 あの戦争がなければ、その子も未来の科学者として人類を牽引していったかもしれなかったわけだ。

 そう考えると、胃の底がきりきりと痛んだ。

 申し訳ないという気持ちで一杯になる。

 最後に、階段を隔てた部屋に向かった。

 ここは、夫婦の寝室だったらしい。二人で眠れるほどの広いベッドと簡単な化粧台、そして小さな箱のような机があった。

 私は犬とともに、部屋の中へと足を踏み入れる。

 部屋の中を見回すと、清潔感が漂っていた。とはいえ、やはり使われなくなって長いのだろう。ほこりや汚れがあちこちにあった。

 一通り部屋の中を見回り、ベッドに腰を下ろす。

 多少のほこりっぽさはあるものの、問題なく使えそうだ。

 その事に安堵して、再び立ち上がった。

 と、そこで気が付く。小さな箱のような机。そこに、簡単な引き出しがある事を。

 何げなく、というより興味本位で、私はその引き出しを開けた。

 中から出てきたのは、一冊のノートだった。このご時世に、私以外に紙に何かを書き付けている人間がいるとは思わなんだ。

 ぺらっと適当にページをめくる。と、右上には日付があった。

 

 

 

一九八三年 九月十日


戦闘は激化の一途を辿っている。

私は妻と子供たちに、ここから離れるようにと命じた。いつまでもここにいては、いずれは殺されてしまうだろう。遅かれ早かれという問題だ。

では、どこに逃げればいいのか、と妻に詰め寄られてしまった。それを言われるといいささか困ってしまう。

戦争は世界的なものだと聞く。

この世のあらゆる場所が戦場となり、人々は苦しんでいると。

悲しい事だ。実に苦しい事だ。けれども、だからといって私にできる事は何もない。

私は町長として、最後まで残るつもりだ。戦いがどのように推移しようと。

幸いにして、と言っていいかわからないが、私の町は小さな町だ。

総勢にして九十人にほど。私の家には、それだけの人のための備蓄がある。

しばらくはやっていけるだろう。町民たちもそれぞれ、独自に非難を始めている。

そのおかげでとは言いたくないが、人口は減少傾向にあった。

この町の長として、最後まで残った人間とともに全力で生きていく所存だ。

けれども、これは私の使命であり妻や子供たちには関係のない事だ。

そう言う話を妻にした。激怒されてしまった。

 曰く、家族はいついかなる時も常にともにいなければならないらしい。

 妻らしい言葉だった。まさしくその通りだと思う。

 しかし、私は断固として妻の言を受け入れなかった。逃げるんだと諭す。

 が、妻も妻で頑固者だ。絶対に逃げないと言い出した。

 私とともにいてくれると。私は怒鳴りながら、けれども涙を流していた。

 最後には怒号は止み、私と妻のすすり泣く声が聞こえてくる。

 ああ、子供たちには悪い事をしたものだ。

 

 

私は手にしていたノートを閉じた。

愕然とする。こんな事があっていいものだろうか。

愛し合う家族が引き裂かれる様を想像すると、胸が苦しくなる。

呼吸がままならない。意識して、大きく息を吸い込んだ。

「……なんという事だ」

 私は呆然と、あたりを見回した。犬が、私の傍らに座り込んでいる。

 なぜ、この犬は私をここまで連れて来たのだろう? 

 その当然の疑問に、しかし答える者はいなかった。ただ静寂が私と犬を包み込む。

 私はベッドに腰かけ、再びページをめくった。

 

 

  一九八三年 九月一八日

  

  

  あれから、私はずっと妻をどう諭したものかと考えていた。

  一週間前。あの日、私たち夫婦史上最大の喧嘩を終えた翌日から考えていた。

  そして出した結論を、私は妻に伝えた。

  再び喧嘩になってしまうだろうという覚悟はしていた。あれだけ反対していたのだから当然だ。

  案の定、再び喧嘩に発展してしまった。

  言いたくはなかった。けれど、言わなくてはならない。

  だから、私は言った。「子供たちを殺してしまいたいのか?」と。

  我ながら卑怯卑劣と言わざるをえない。もっと他に、選択肢はあっただろうに。

  私は実はそれほど頭脳明晰というわけではないので、致し方ない事なのかもしれない。

  それとも、町長などという分不相応な職に就いている事への罰だろうか。

  いずれにせよ、これで妻とは終わったと思った。子供たちとも二度と会えないだろう。

  しかし、それでいいのだと思う事にする。

  妻や子供たちが無事であるならば、その程度の事は何でもない。

  いや、嘘だ。私は今、嘘を吐いた。

  しかしこの日記は誰に読ませるわけでもないのでいいだろう。

  きちんと本音を言おう。

  私は家族と離れる事に、非常に憶病になっている。

  自分の役割を放棄したいと願うほどに強く。叶うのなら、今すぐ職など放り出して家族とともに遠くへと逃げ出してしまいたかった。

  けれど、そうするわけにはいかない。なぜならば。

  なぜならば、私はこの町の長なのだから。私には義務と責任がある。

  町に残る人々を、可能な限り守るのだと。

  

  

  

  一九八三年 九月二十日

  

  ついに、妻と子供たちが旅立つ日がやって来てしまった。

  自分で口にした事とはいえ、本音を言えばやはり行かないで欲しかった。

  しかし、それは口にする事はできない。今この瞬間にも、砲撃の音が聞こえてくる。

  あれに家族を晒す事の方が、私には辛くてたまらなかった。

  我慢ならなかった。

  それに、まだ死ぬと決まったわけでもない。生き抜ける可能性の方が高かった。

  そう信じていた。だからこそ、今はぐっと堪えよう。

  生きていれば、きっとまた会えるのだと信じているから。

  

  

  

  一九八三年 九月二六日

  

  ついに、町に攻撃が開始された。

  この町は軍事的に重要な場所というわけでもないのに、なぜ襲われなければならないのだろう。

  幸いにして、と言っていいのかわからないが、女子供は既に大半が逃げ去った後だ。

  銃撃、砲撃が絶え間なく町を襲う。ものの二時間ほどで、町は焦土と化した。

  町の住人全員が死亡した。私を除く全員がだ。

  私は絶句した。絶叫した。

  涙がとめどなく溢れてきた。体中が震えて、筋肉は強張っているのに力が入らない。

  どうしてこんな目に遭わないといけないんだ。私たちが何をしたというのだ。

  ただ平穏に暮らしていただけではないか! なのになぜ!

  もはや、私の残されたのはこの日記だけだ。そして生きて家族に再会するのだという目的だけ。

  ――私たちの、町は消滅した。

  

  

  

  一九八三年 十月一日

  

  町に残っていた全員の遺体を埋葬した。

  私は神職の人間ではないので、葬送の言葉を述べるにとどまった。

  全てを終えて、私はこれを書いている。

  書いている最中に気付いてしまった事がある。

  私はこの町において、一人になってしまったという事だ。

  否、人の消えた町は既に町ではないのだろう。

  砲撃や爆撃によって焦土と化した私の町。かつての美しい街並みはもうそこにはなかった。その事に、私は愕然とする。

  一人になって、埋葬を終えて、私はようやく静かに思案する事ができるようになった。

  ようやく、という言い方は適切ではないかもしれない。

  むしろ、友人たちの亡骸を葬っていた時の方がよかったとも言える。

  あの作業は辛いものだった。けれど、それでも何も考えず、ただ悲しみに暮れながらかも体を動かすだけでよかったからだ。

  しかし、今は違う。今、私は考える事以外にやれる事がなくなってしまった。

  いざという時のために蓄えておいた食糧も、今となっては宝の持ち腐れだ。

  町民の半数が生きていく事を前提としていたため、私一人ではむしろ多いくらいだ。

  どうしたものかと考える。妻や子供たちの許へ行こうかとも思った。

  けれど、そうするには忍びなかった。この地に埋めた友人たちと別れる事も、また割足にとっては辛い事だ。

  それに、妻や子供たちは無事だろう。逃げた先はまだしも戦火が弱いと聞く。

  現状、私が取るべき行動は妻たちの許へ行く事ではない。

  死んでいった者たちを弔い、新しい町を再建する事だろう。そして、妻や子供たちが帰って来た時には、昔と同じように暮らしていく。

  そうすれば、きっと友人たちも多少は救われるだろう。

  今、誰もいなくなるのは寂し過ぎる。

  私はそう決心して、この地に留まる事にした。

 

 

 我知らず、私はノートを握る手に力が籠もっていた。

 紙の端の方がくしゃりと歪む。その様子を視界に収めつつ、ほうっと息を吐く。

 そうしなければならなかった。でなければ、きっと先を読み進められなかっただろう。

 私がこのノートを読むのはあまり得策ではないように思う。

 しかし、私が読まなければ、このノートは金輪際読まれる事はない。

 以前は町だったこの場所。そこの長が書いた、心の叫び、葛藤。

 そういったものが、このノートには書き記されている。

 私は更に、ページをめくった。

 

 

      年 月 日

  町人が死亡、あるいは逃げ去ってしまって久しい。私の許には、何の情報も入らない。

  今日が一体、何月何日なのか、それすらもわからなくなっていた。

  話をする相手もいない。この日記も書く意味はないのかもしれない。

  けれど、何もしないわけにはいかない。でなければ、頭がおかしくなる。

  書く事も段々となくなってきた。そんなこの頃だった。

  とはいえ、今日は一つだけ、いい事があった。新しい出会いがあったのだ。

  瘦せこけた犬が、ふらふらとやって来た。

  あばらの骨が浮き出ていて、今にも倒れてしまいそうな犬だった。

  でも、その犬は毅然とした態度で立っていた。シャープな顔立ちの犬だった。

  元々は飼い犬だったのだろう。牧羊犬や狩猟犬だったのかもしれない。

  いずれにせよ、この犬も例の戦争の被害者なのだろう。可哀想に。

  私はすぐに、その犬に食べ物を与えた。

  人間の食べ物を与えていいものだろうかとう考えが頭を過ぎったのだが、いずれにせ

 よお互いに死を待つだけの身の上なのだから、気にしなくてもいいのだと思う事にした。

  犬はよほどお腹が空いていたのか、がつがつと私が与えた物を食べてくれた。

  言い食べっぷりだ。人間に慣れているのか、それとも警戒する余裕がないほど空腹だっ

 たのか。いずれにせよ、私は彼が現れてくれた事に感謝したい。

  これで、独りぼっちではなくなったのだから。

  さて、犬の名前を考えなければならないな、と思った。

  何がいいだろう。今日は疲れたので、また明日考える事にしよう。

 

 

      年 月 日

  今日は朝からその犬と戯れていた。

  残り少ない洗剤で洗ってやる。と、すごく汚れていた。

  犬や猫は水を嫌う。洗うとひどく暴れるものだ。

  けれど、その犬は不快そうに顔をしかめていただけで、暴れなかった。

  よほどしつけが行き届いているのだろう。私は以前の飼い主とは別人なのに、教えられ

 た事をしっかりと守っている。頭のいい犬だ。

  今日は疲れたので、このあたりでいいだろう。

  残りの時間は、犬とのんびりと過ごす事にしよう。

 

 

      年 月 日

  戦線はどうなっているのだろうか。戦況はいかほどだろうか。

  妻は無事だろうか。子供たちは。

  朝起きて、最初に思い浮かんだそれらの疑問に、しかし答えてくれる者はいない。

  その瞬間が、一日で一番辛い時間だった。

  しかし、そんな辛い時も一瞬で過ぎ去ってしまう。

  がんがんと頭の奥の部分が痛む時も、隣に眠る犬の毛並みに触れていると治ってしまうからだ。

  不思議な犬だ。彼も苦しい旅をしてきたはずだ。にも関わらず、こうして何事もなかったかのように寝息を立てている。

  誇り高い犬。そうだ、名前を付けようと思っていたのだ。

  おそらく本当の名前があるはずだ。だからここでは、仮にそう呼ぶ、というだけの事だ。

  仮名。はて、何も思い付かない。それに、起きたばかりだというのにすごく眠い。

  不思議だ。一体、私の体に何が起こっているのだろう? 

  よくはわからないが、きっとそれは私にとってよくない事だ。

  ああ、今日は一日、何をする気にもなれないな。

  このままぐうたらとしていよう。どうせ町の人々はいないのだ。

  妻も子供たちも、今や遠い地だ。誰も私を責める人間はここにはいない。

  名前は、また明日にでも……。

 

 

      年 月 日

  名前を考えた。もちろん、件の犬名前だ。

  ジャックという名前だ。仮名だが。

  いつか、ジャックが元の家族と会えた時、本当の名前で呼ばれるだろうから、これでいい。私とジャックは束の間の友だ。

  それにしても、今日は気分がよかった。ので、町の中をめぐってみた。

  あれから三度ほど、砲撃に見舞われてしまった。にも拘らず、被害は少なかった。

  元々、一度目の砲撃で町の大部分が消失してしまったのだ。町人……私の友人たちも大勢死んだ。

  あの時が、一番被害が大きかったように思う。

  幸いにして、というか運よく、というか。私の家は計四度の砲撃や爆撃に晒されたというのに、見事なまでに無事だった。不思議なものだ。

  私はぐるりと町中を見て回った。ジャックも私の後をとことこと付いて来る。

  あれから数日。人間用の食べ物を食べているせいか、ジャックは最初に会った頃と比べてみるみる太っていた。

  凛々しい顔には丸みが出始めて、腹回りは若干肉付きがよくなっている。

  しかし、食べ物がそれしかないとはいえ、人間用の食事ばかりで大丈夫だろうかという懸念があった。まあ他に与えられるものもない。

  それに、これほど元気に肥えたのだ。また近い内にジャックは旅に出るかもしれない。

  もしその時が来たら、私も旅に出よう。

  妻と子供たちを訊ねて三千里だ。

  別に今すぐ旅立ってもいいのだが、まあ何と言うか、ジャックと別れる時が一つの区切りのように思えてならない。

  しかし、改めて見ると、ひどい有り様だった。

  なぜこのような非道が行えるのか、私には不思議でならない。

  今だに、焼け焦げた生肉の匂いが漂ってくるようだ。あるいは、硝煙の匂いか。

  叫び声が耳朶にこだまする。そんなはずはないのに。

  もう、私以外に生きている人間はいないなずなのに、だ。

  ここ数日はぐっすりと、とまではいかなかったが、まあ眠れていた。

  けれど、今日はあまり眠れなさそうだ。そんな気がする。

 

 

      年 月 日

  今日は朝から、体中が痛かった。

  私の体に何が起こっているのか、私はどうなってしまうのか、恐ろしかった。

  全身の痛みは日が沈む頃には引いていた。なので、この日記を書いている。

  一日中、私の隣にはジャックがいてくれた。心配してくれているものかどうかはわからなかったが、とにかくいてくれた。

  食事を出す事すらできなかった。けれど、ジャックの瞳はそんな私を非難しているようには見えなかった。むしろ励ましてくれていたように思える。

 「はやく元気になれ」と言っているのだ。いや、気のせいだろう。

  動物には人間の言葉がわからない。逆もまた然りだ。

  私とジャックの間にはどうしようもなく隔たりがあった。

  けれど、ジャックと私は不思議な絆で結ばれているような、そんな感覚がある。

  彼は私の気持ちを汲み取ってくれるし、私は彼が何を求めているのかを理解しようと努力する。

  その関係性は非常に美しいものだと思う。

  そんな事を考えながら、私はジャックの背中を撫でていた。

  撫でていると、不思議と全身の痛みが和らぐようだ。

  相変わらず痛みは続いていたが、今朝ほどではない。ジャックのお陰だ。

  痛みも、引いてきたような気がする。気のせいかもしれない。

  立ち上がる事はまだ困難だった。それでも、体を起こす事くらいならできた。

  夜には、ペンを持てるほど回復した。だから、この日記を書いている。

 

 

 私はノートから視線を外し、傍らに座り込む犬へと目をやった。

 その背中を撫でる。相変わらず、さらりとした言い触り心地だった。

「お前、ジャックっていうのか。いい名前だな」

 私はジャックの背中を撫でながら、そう呟いた。ジャックはくいっと私を見た。

 その硝子のように美しい相貌が私を捉える。まるで、私の言葉がわかるかのようだ。

「このノートには、お前は突然現れたと書かれている。お前は以前はどこにいたんだ?」

 そして、どこへ向かおうとしていたのだろう。

 ジャック……この凛々しい雄犬に、目的地はあったのだろうか。

 わからない。きっと、ジャック自身にもわからないだろうな。

 何せ、ジャックも私も、生きていかなければならないのだから。

 ひとしきりジャックを撫でると、私は再びノートへと目を走らせる。

 

 

      年 月 日

  目が覚めると、夜だった。

  ここのところ、こういう事がよく起こる。本当に、どれほど時間が経っているのか、

 その感覚が曖昧になってきた。

  私の体は一体どうなってしまったのだろう。末恐ろしい。

  唯一の救いは、ジャックが隣にいてくれる事だ。

  この放浪犬は、長い間私の側にいてくれた。その事に、感謝している。

  けれど、そろそろ旅立ってもいい頃合いかもしれない。

  この日記も、後何回も書けないだろう。そんな予感がずっしりとしていた。

 

 

      年 月 日

  血反吐を吐く、という言葉がある。

  けれど、私はその言葉をそのまま体験した事はなかった。

  しかし今日、私は実際に血反吐を吐いてしまった。

  死期が近い、という事なのだろうか。それほどショックという気もしない。

  こんな事もあるさ、となぜか軽く捉える事ができていた。

 

 

      年 月 日

  今日は今朝から、ジャックの姿がなかった。

  私は立ち上がる事すらまともにできなくなっていた。

  食料貯蔵庫まで這って行って、食べ物を取ってくる。そういう生活になった。

  ジャックにはまともに食事を与えられていない。申し訳ない事だ。

  けれど、許してほしい。きっと、明日にはよくなっているから。

  ああ、願わくば、もう一度家族と会いたかった。それだけが心残りだ。

 

 

 日記は、そこで終わっていた。

 という事は、これを書いていた人物はその時点で、死亡したという事だ。

 もしくは、臨終の際に、最後の力を振り絞ってあの引き出しに入れたのかもしれない。

 病に侵され、治療するどころか自分がどんな病気なのかもわからないままに死ぬ。

 その恐怖たるや、いかほどだっただろう。

 自分を襲う恐怖を紛らわすため、何とかいつもの日常をなぞろうとした。

 そうだとしたら、何とも不憫な事だ。

 私はジャックを撫でながら、この男の死に際に付いて考えていた。

「……心残り」

 家族ともう一度会いたかったという悲痛な願い。

 あの戦争によって引き裂かれた最愛の家族との再会を願いながら死んでいった男。

 その最後の心は、どれほど苦渋に満ち溢れていた事だろう。

 もしかしたら、私は彼を救えたかもしれない。救えずとも、最期を看取る事くらいなら。

 それくらいなら、できたかもしれない。

 考えても栓のない事だった。そんな事はわかっていた。

「最期の日、お前はいなかったと書かれているな」

 でも、ジャックは今、こうして私の隣にいる。

 つまり、あの日も隣にいたかもしれない。

 この男の側にいて、その最期に立ち会ったのかもしれない。

「お前は……すごい奴だ」

 人間の死に立ち会う犬なんて、聞いた事がない。

 不思議な事だ。本当に。

 私はペットというものを飼った覚えがない。それは、私の両親が多忙だった事もある。

 私がまだ幼く、飼育するには不適切だと思われていたのかもしれない。

 それでも、私はペットを飼ってみたかった。ジャックのような犬を。

「……お前、私と一緒に来るか?」

 私はまだ、旅を続けるつもりだ。生きていかなければならないから。

 きっと、ジャックと一緒なら辛い旅も少しは楽しくなるのではないかと期待した。

 けれど、ジャックは私を見詰めたままだった。吠えないし、鳴かない。

 微かに声を上げる事すらなかった。

 ただじっと、私を見詰めているだけだ。

 私はそれを、ジャックからの「ノー」だと受け取った。

「……わかった」

 ポンッとジャックの頭を撫でる。

 それから、ベッドに横たわった。

 二日ほど滞在して、ここを発とう。日記の彼には悪いが、久々のベッドだ。

 疲れを癒して、食料を分けてもらって。

 そんな事を考えながら、私はつい数十分前の事を思い出す。

 あの時、ジャックはさながら幽霊とコミュニケーションを取っているようだった。

 会話の相手は、日記の彼かもしれない。

 だとしたら、まあ幽霊もそれほど悪いものではないのかもしれないな。

 そんな事を思いながら、私は目を閉じた。

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