第二話―少佐と少年と機関銃。

 第二話―少佐と少年と機関銃。

 

 

 あれから、どれくらいの日数が経過しただろう。

 私は食べ物を求め、あちらの街こちらの街へと放浪の旅を続けていた。

 それも、この数日……もしかすると数ヶ月かもしれない。どちらにせよ、ずいぶんと長い間食べ物にあり付けていないような気がする。

 水も残り少なくなってきた。そろそろぶっ倒れるんじゃないかとさえ思われる。

 次、街の残骸を見付けたなら、必ず食べ物か飲み水を見付けなければ、私は死んでしまうだろう。

 せっかくあの大戦を生き延びたというのに、それはあまりにもあんまりだ。

 人類の半数以上を破滅へと導いた、あの大戦争。思い出すだけでおぞましさのあまり、身震いしてしまう。

 ああ、だめだ。空腹と乾きに苛まれていると、頭の中が悪い事で埋め尽くされてしまう。

 私は頭を左右に振って、その考えを外へと追い出す。あれは悪夢だったのだ。

 そして、その悪夢はもう既に去った。例え、どんな形にしろ。

 棒のようになってしまった足を必死に前に出し、現実逃避の思考に逃げようとする脳に叱咤を入れ、私はなお歩いた。

 歩こうと、した。けれど、私の足を止める出来事があった。

 ドドドドッと銃声が響いてくる。それと同時に、私の爪先数センチの箇所に弾痕がいくらかできていた。

「なっ……!」

 私は思わず体を硬直させる。前に出そうとしていた左足を引っ込めた。

 誰だ? 私を撃った奴は。私は顔を上げ、襲撃者を探した。

 すると、犯人はすぐに見付かった。それも、数十メートルと離れていない場所に。

「……何の真似だ」

 私はカラカラだと悲鳴を上げる喉を酷使して、絞り出すように問うた。

 けれど、銃撃者は答えなかった。日の光が逆光になってよく見えなかったが、シルエットの大きさや形からいって、子供のようにも思えた。

 子供……その予想に、私は以前に出会った姉弟を思い出す。

 結局、あの後二人はどうしただろうか。今も元気にやっているだろうか。

 それとも、もう既に……いや、余計な事は考えてはいけない。今は目の前の敵に集中するべきだ。

 私はぎろりと眼前の子供? を睨み据えた。しかし、ろくに食べ物も食べていないこの体では、きっと勝てないだろう。

 身ぐるみを剥がされ、食べ物や金品を持っていない事を呪われるに違いない。

 いや、殺された挙句になぜ文句を言われないといけないんだ!

 私は自分で行った想像にも関わらず、思わず脳内でいちゃもんを付けてしまっていた。

 これも、現実逃避の一貫だろうか。

 いずれにせよ、状況は変わらない。

「……申し訳ないが、私も食べ物は持っていないんだ。それに……」

「これこれ、いきなり発砲するな。発砲許可は出していないぞ」

 私の言葉に重なって、唐突にそんな声が聞こえてくる。

 先ほどの人影から発せられた声だろうか。否、別人だな。

 私は視線を銃撃者からずらし、右を見やった。

 すると、そこには一人の男が立っていた。年の頃は、おそらく私より一回り上だろう。

 おおよそ三十五から四十歳といったところか。

 男は朗らかな笑みを浮かべ、私に近付いて来る。そして、ピシッと両足を揃え、背筋を伸ばした。

 私が所属していた軍とは違う敬礼をした。

 服装からして、おそらく敵軍だろう。警戒心から、全身が強張ってしまう。

「ああ、それほど怖がらなくて大丈夫だ。俺たちにアンタを殺す気はない」

「……そう」

 ちらりと先ほど撃ってきた方を見やる。と、既に人影はなかった。

 一先ず、目の前の脅威は去ったようだ。ほっとする。

「俺は陸軍特殊兵団隊長。シュタルツ・ベン・グラッカー少佐だ。……いや、今のこの世界じゃ少佐なんて肩書に何の意味もないな」

「私は合衆国のオズヴァルト・グレイヴニス一等兵層であります」

「では、俺とアンタは敵国同士だったというわけか」

「ええ。まあ今となっては、祖国がどこだったかわかりませんが」

「ああ、違いない」

 グラッカー少佐は柔和な笑みを浮かべ、右手を差し出してきた。握手を求められているようだった。

 私は少佐の手を握り、握手を交わす。敵国同士とはいえ、お互いただの歯車だったわけだ。

 国が……いやおそらく世界が崩壊してしまった今、過去の遺恨に拘っていては生き残れない。復讐からは何も生まないという事を、私は戦時中、身を持って体験していた。

 ザッと足音がする。少佐の手を離し、私はそちらへと視線をやった。

「先ほどはすまなかった。ここにいるのは俺の部下のオルトンだ」

「オルトン……ええと、君がさっき私を撃ってきたのか?」

 こくんと頷く彼の姿を見て、私は驚きのあまり二の句が継げなかった。

 子供だった。年はおそらく十二、三歳くらいか。

「グラッカー少佐、彼は……その」

 私は少佐へと非難の視線を向けていた。

 あれほどの銃の腕は一朝一夕で身に着くものではない。

 きっと、凄まじいほどの訓練をしてきたのだろう。こんな、年端もいかない少年が。

 さらに驚くべき事に、彼は右腕を失っていたのだ。

 グラッカー少佐は気まずそうに視線を逸らした。

 彼の笑みは、私ではなくオルトン少年へと向けられていた。

「俺の祖国では、終戦の間際。とはいえ、終戦は唐突に訪れたが」

 ぼそりぼそりと少佐は語り出した。

 彼の祖国では、大人の男の数が圧倒的に不足しだした。元々劣勢だった上に、人口は減り、もはや戦線の維持は不可能と思われていた。

 しかし、軍上層部はメンツや対外的な体裁に拘った。

 戦争に負けて戦勝国に隷属するくらいなら、国民を全て兵士として徴用し、皆殺しにした方がまだましだと考えたのだ。

 女、子供、老人、男の区別なく、徴兵の対象になってしまった。

 司令部は倒れ行く屍の数を数えながら、歯噛みしただろう。いずれは自分たちも殺されてしまう。そういう確信もあったに違いない。

 つまり、道づれにしようとしたのだ。全国民を。

「妻や娘や先に死んでいった仲間たちには申し訳ないが、俺はどんな形であれ、戦争が終わった事を嬉しいと思っている。よかったってな」

「それは……ええ、私もです」

 少佐は傍らに立つ片腕を失った少年の頭にその無骨な手を置いた。

 ぐりぐりと撫で回す。オルトンはされるがままだ。

「こいつらをこれ以上戦いの中に放り込まなくてよくなった」

 慈しむように、少佐の目が細められる。

 オルトンは彼の言う事が理解できているのかいないのか、きょとんとした顔で自身の上官を見上げていた。

「他にもいたんだ。けれど、戦争でこいつの戦友は死んでいった。……俺が殺した」

「仕方……がないですよ」

「……ありがとう」

 少年を撫で回す手を止めて、グラッカーは私を見据えた。

「これから、行くアテはあるのか?」

「いいえ。ありませんが」

「だったら、しばらくはここに滞在するといい。食料の備蓄もあるし、野生化した動物も割と取れるからな」

「それはありがたい」

 私は少佐と、オルトンへと頭を下げた。

「いいよな、オルトン」

「……少佐がそうおっしゃるのでしたら」

 顔を上げると、少年の無機質な瞳が、私を見詰めていた。

 

 

                 ◇◇

 

 

 さて、片腕を失った状態でどうやって機関銃を操っていたのか。

 その答えは、割合すぐに知る事ができた。

 彼の愛用する銃器には、少しだけ工夫が施されていた。

 安全装置の部分に紐を括り付け、安全装置を外す場合は口で引くだけでいい。

 後は引き金を引くだけだ。そうする事で、片腕のない少年兵でも銃弾を発射する事が可能になる。

 これは、グラッカー少佐の発案だろう。目的はおそらく二つ。

 一つは、オルトンが仮に一人になった場合でも、その武器を持っていれば狩りをする事が可能になるという事。

 もう一つは彼に役割を与える事だ。

 少年兵として徴用されたオルトンは、彼の短い人生の大部分を軍で殺人のための訓練に費やされてしまった。

 人並な子供としての幸せを奪われてしまったわけだ。

 そんな彼は、戦場で引き金を引く事しか知らない。そのオルトンから銃を奪う事は、彼のアイデンティティを損なう事だと少佐は考えているのかもしれないかった。

 本人たちから直接聞いたわけではないので、憶測ではあるが。

 いずれにせよ、彼には愛用の銃が必要、というわけだ。

「なかなかに難しいな」

 私はまだ日の高い空を見上げ、独り言ちた。

 先日も、悲しみを抱えた子供には出会った。しかし、今回の彼のあの姉弟とは全く違う境遇にいる。

 少年兵……遠い国の事だと思っていたが、いざ目の前にしてみるとそのショックは大きかった。

 あどけない顔立ちの少年に銃口を向けられる。

 もしも、これが戦場であったなら、私はオルトンを殺していただろう。

 そうしなければ、自分や仲間たちが殺されてしまうのだから、当然だ。

 そして後々になって思うのだ。なぜ殺してしまったのか、と。もっといい方法はなかったものか、と。後悔の念を募らせる事になる。

 ここが、戦場でなくてよかったと心の底から思う。

 グラッカー少佐の言う通り、どんな形であれ戦争が終わった事は、喜ぶべき事なのだろう。

 死んでいった者たちというよりは、生きている者たちにとっては。

「ところで、オズヴァルト一層」

「オズで結構です。私はただのハイエナですから」

「では、オズ。君はこれからどうするのだろう?」

「私は……食べ物を探して旅をしているのです。一ヶ所に留まるわけにはいかないので、すぐに旅立ちたいと思っております」

 私は自分の事を簡単に少佐に話した。

 少佐は最初、真剣な面持ちで聞いていてくれたが、すぐに破顔した。

「であるなら、しばらくはここにいるのだろう?」

「ええ、まあ……そのつもりではありますが」

「だったら、彼と行動を共にしてもらいたいんだが、構わないだろうか?」

 言いながら、グラッカー少佐はトンッとオルトンの背中を押した。

 オルトンは抵抗を見せる事なく、私の前に一歩を踏み出してきた。

「私と?」

「オルトンは俺以外の人間とはあまり口を利いた事がないんだ」

 少佐は肩を竦め、やれやれといった様子で首を振った。

「戦争中も同じ舞台の仲間とはあまり親しくならなかったらしい」

 もっとも、それは他の連中も同じだったが。少佐はそう言って少年の頭を撫でた。

「俺にはオルトンを真っ当な子供として育ててやる事はできなかった」

 少年が上官を見上げた。その眼差しは、幼い子供のようなそれだった。

 けれど、その中にも確かに、彼の瞳には隣に立つ大人への尊敬の念が感じられた。

「……仕方がないです。戦争とは、そういうものですから」

 私は慰めのつもりで、その言葉を口にしたのだろうか。

 それとも、もっと別の意味合いを含めていたのだろうか。自分でもわからなかった。

 ともあれ、しばらくの間、私は少佐と少年とともに暮らす事になった。

 短い間だが、オルトン少年は私の部下となった。

 

 

                ◇◇

 

 

 太陽が二度昇った。ので、二日経った。

 私は固い地面の上で、目を覚ました。

 以前の街では、ボロボロだったが、屋根があり、ボロボロだったが掛け布団があった。

 しかしここにはそんなものはない。基本的に野宿だ。

 一晩中、誰かと交代で火の番をする必要がある。野生化した動物に襲われないためだ。

 私は上体を起こすと、伸びをした。体中からポキピキと音がする。

 背中が酷く痛かった。

「……おはようございます、オズヴァルト一層」

 私はそうして体を解していると、すぐ近くから挨拶が飛んできた。

 そちらを振り向くと、オルトン少年が直立不動の体勢で立っていた。右腕を失っているので、左腕で敬礼をしている。

 もちろん、私の故国の敬礼ではない。が、そんな事はどうだっていい事だった。

「ああ……おはよう。私の事はオズと呼んでくれて構わないのだが」

「いえ、俺は一層の部下になれと少佐のご命令でしたので」

「まあ……そうだけれど」

 しかし、たかだか一兵卒だった私に部下ができるとは。後輩は今まで何度か面倒を見た事があったが、部下は初めてだ。

 それも、年端もいかない少年兵。組織というものが消失した世界で、部下も何もあったものではないだろうに。

 とはいえ、彼なりに現実を受け入れて生きていこうとしている、ととらえてもいいものだろうか。

 私はあくびを一つしてから、立ち上がった。

「まあなんだ。グラッカー少佐はああ言ったが、私はここでの生活に慣れていない。君の方が詳しいだろうから、おそらく私が君の命令を聞く立場なのだろうが」

「……命令は致しません。ただ、そういう事でしたら進言は致しますので、最終判断は一層が下して頂けると助かります」

 ふむ……指揮系統はこちらに丸投げする、という事か。

 まあ彼の場合、上官には絶対服従だっただろうから、最終的な判断は上層部の役目だと思っているのだろう。

 上層部。目上の人間。つまり現状は、私だ。荷が重いなあ。

「ところで、そのグラッカー少佐はどこへ?」

「朝食を探しに行かれました。俺も同行すると申し上げたところ、一層の側にいるようにとの命令でした」

「朝食? なら、起こしてくれたら私も同行したのに」

「いえ、少佐は『長旅で疲れているだろうし、慣れない寝床だから無理に起こすのはよしておきなさい』と言っていました」

「なるほど。……本当に、素晴らしい人だ」

「俺もそう思います」

 きっと、世が世なら学校の先生などが向いている人種だろう。生徒に慕われる、いい先生になったに違いない。

 戦争さえ、なければ。

 グラッカー少佐ならば、責任感のある素晴らしい教師になっていた事だろう。

 オルトンも、彼の教え子となって勉学に励んでいたかもしれない。

 それも、今となっては叶わぬ夢だけれど。

「では……朝食前に顔を洗いたいのだが、水場などはあるか?」

「水場、でありますか……では、こちらへどうぞ」

 私の問いに、オルトンはしばし考え込むような仕草をしたが、すぐに顔を上げた。

 私を水場まで案内するべく、私に背を向ける。慌てて立ち上がり、少年の後を追った。

「それにしても、よくこんな場所に寝泊まりをするものだ」

「少佐は、何かこの土地に並々ならぬ想いを抱いている様子です」

「ほう……それはなぜだろう?」

「……俺にはわかりません」

 オルトンは首を振る。その動きに合わせて、右腕があるはずの袖が揺れる。

 その様子を目の端に捉えて、私の心は痛みを覚えた。

「オルトン、君はこの土地を離れようとはしないのだろうか?」

「俺は……俺たちには、少佐しかいませんから」

 オルトンは一度立ち止まると、俯いて、そう言った。

 ぽつりと。私に言ったのか、それとも他の誰かに言ったのか。

 どちらにせよ、彼の心の内が少しだけ、垣間見えたような気がした。

「いや、すまなかった。余計な事を聞いたな」

「いえ、大丈夫です。水場はこちらです」

 それから少し歩き、オルトンの案内で水場へと到着したのだった。

 生ぬるい水で、私は顔を洗った。

 

 

               ◇

 

 

 それからほどなくして、元いた場所に戻るとグラッカー少佐が戻って来ていた。

 私は彼の隣に腰を下ろし、オルトンは少佐の後ろに立つ。

 ちらりと彼の表情を見ると、周囲を警戒しているようだった。

「やあ、オルトンと仲よくなったようで、何よりだ」

「ええ。今朝は水場まで案内してもらいました」

「そうか。すまなかったな、オルトン」

「いえ、任務ですから」

 オルトンの答えは実に素っ気ないものだ。私も少佐も、思わず苦笑してしまう。

「……俺は、何かおかしな事を言いましたか?」

「いいや。まあ座りなさい。食べよう」

 グラッカー少佐はオルトンに着席を促す。と、オルトンは少佐の隣に座り込んだ。

「今朝のメニューは、牡鹿の焼肉だ。そして昼も牡鹿の焼肉。夜にも牡鹿の焼肉だ」

「ずいぶんと豪勢ですね」

「俺もオルトンも料理の腕はからきしでね。焼く以外の調理ができないのだよ」

 少佐は肩をすくめ、自嘲した。まあ私も似たようなものだ。笑いはすまい。

 軍隊とは、特に前線で戦っていた連中は多少の差はあれ、料理はできない。調理夫という専門の部隊があったからな。

「私のところも、同じようなものでしたよ。もっとも、以前の調理方法が今役立つとも思えませんが」

「違いない」

 私も少佐も、クックッと肩を揺らして笑っていた。

 オルトンだけが、私たちの会話の意味がわからなかかったようだ。きょとんとした顔をsいていたのが印象に残っている。

「中には凝った事ができる奴もいたんだがな……」

 その言葉の続きは、聞かなくてもわかった。

 彼の部隊が所属していた軍の人々。彼らが私の事を見たら、何と言うのだろう。

 少佐に似て、おおらかな人々だったのだろうか。少なくとも、少年兵部隊には会いたくないな。

 出会い頭に発砲されてはたまらない。

 私たちは、肉を食べ終えた。とはいえ、鹿一頭丸ごと食べたわけではない。

 残りは昼、夜と分けて食べる。ので、しっかりと処理をしなくてはならない。

 そのままにしておけば、血の匂いにつられて獰猛な獣が寄ってくるからだ。

「以前にそれで失敗してしまってね。せっかく生き残ったというのに猛獣に喰われてしまうところだった」

 少佐は思い出話のように語るが、どう考えても笑い事ではない。

 処理を終え、少佐は大きく伸びをする。

 もうお歳なのか、しきりに腰を擦っていた。軍隊時代とは違うサバイバル生活だ。疲労も溜まるだろう。

「少佐、俺はそろそろ」

「ん? ああ、もうそんな時間か」

「失礼します」

 オルトンはグラッカー少佐と私に一礼すると、踵を返した。

 そのまま、スッとどこかへと行ってしまう。

「少佐、彼は一体どこへ?」

「ああ……仲間たちの許へ行ったんだ」

「生きている……のですか?」

「…………いや」

 少佐は眉間に皺を寄せると、首を振った。

 その表情を痛々しく、過去を悔やんでいるように見える。

「……様子を見に行ってはくれないだろうか」

「えっと……それは構いませんが」

 少佐に頼まれたので、私はすぐに少年の後を追った。

 慣れない道。足下は草木で覆われ、ごろごろと大きな石が転がっている。

 いや、これは砲撃で崩壊した建物の瓦礫だろう。

 私は背後を振り返る。痕跡から言って、少佐やオルトンが暮らしているあの場所。あそこに本来、建物があったのだろうと思われる。

 街か、宿か。それとも軍の宿舎か。

 いずれにしても、大勢死んだだろう。死んで、しまったのだろう。

 そこまで考えて、私ははたと気が付いた。

 オルトンが向かった先。グラッカー少佐が言っていた、仲間たちの許へ、という言葉の意味するところを。

 既に視界にオルトンの姿はなかった。けれど、毎日彼が踏み締めているであろう草花。

 その痕跡を辿る事で、彼の向かった先へと辿り着く事ができる。

 

 

                ◇

 

 

 ほどなくして、開けた場所に出た。

 足下を這い上ってくる虫を叩き落としながら、私はその場所に足を踏み入れる。

 バッと、オルトンが振り返った。その表情は酷く怯えているようで、蒼白だった。

 少年は私を認めると、警戒を解く。握っていた拳を開き、ほっとした様子で、私を見ていた。

「どうしましたか、一層?」

「ああ……ええと、少佐から頼まれたんだ。君の様子を見てきて欲しいと」

「そうですか。それは、お手数をおかけしました」

「いや、いいんだ。どうせ何をするでもなかったからな」

 私はオルトンの隣に並び立った。

 そこにあったのは、墓と呼ぶにはいささか不格好な盛られた土だった。

 本当に、ただ掘って埋めただけ。そんなふうに見えた。

「他の連中は、見付からなかったのか?」

「はい。仲間も、家族も、誰も見付かりませんでした」

 オルトンは墓穴へと視線を戻した。それから、僅かに息を吐いた。

 穴の数は全部十二あった。つまり、十二人だ。見付ける事ができた、彼の仲間は。

「大変だったな、本当に」

 戦中の事を思い出して、私は呟いた。

 できれば思い出したくもない過去だ。敵も味方も関係なく、大勢が死んだ。

 死んで。

 死んで。

 死んで――死んだ。

 山と積まれた屍。群生したバラのように、あたり一面真っ赤だった。

 仲間が倒れるのは辛かった。敵を殺す事も、苦しかった。

 それでもあの時代は、あの時の私はそうするより他になかった。

 だから殺した。殺しまくった。

 これまでの道中で、こんな事を思う事も、考える事もなかった。

 思い出す事もなかった。

 それだというのに、今思い出してしまったのは、なぜだろう?

 オルトンの、少年兵たちの遺体がこの下に埋まっているからだろうか。

「……一つ、訊いていいだろうか?」

「俺に答えられる事でしたら」

「君は、いずれここを離れるつもりはあるのか?」

 オルトンがこちらを振り向いた。

 相変わらず無機質な瞳が、私を見詰めている。

「それは……ありえませんね」

「……そうか。まあそうだろうな」

 淡々と、彼は答えた。その答えは、私の予想通りだった。

 だから、私は驚かなかった。むしろ、ほっとしたような気持ちになった。

 なぜだろう? どうして私はそう思ったのだろうか。わからない。

 ただわかっている事は、彼の事だけだ。

 オルトンはこの先もずっと、十二人の仲間たちとともに過ごすのだろう。

 あの、少佐の許で。

「そろそろ戻りましょうか」

 くるりと、オルトンは振り返った。私もそれに続いて、簡素な墓に背を向ける。

 弔いの言葉も、謝罪の言葉もない。ただそこにそれがあると確認しただけの事だ。

 それだけの事が、何より大切なのだろう。特に、彼にとっては。

 

 

              ◇

 

 

 私たちが戻ると、少佐は軽く手を挙げて出迎えてくれた。

 オルトンは私と少佐から少し離れた位置に座り、愛用の銃器の手入れを始めてしまった。 

 その事自体は、特別視するものではなかった。それ以外に、彼にやれる事などないのだから。

 私は少佐の隣に座り、パチパチと爆ぜる焚火に視線を向けた。

 まるで、この時間が穏やかなものだとでもいうような感覚だった。不思議なものだ。

「どうだった?」

「どう……と言われましても。まあ私ごときが何かを口にするのは憚られますな」

「だろうな。とはいえ、俺としてはこのままではよくないと思っている」

「と、言いますと?」

 よくない、と少佐は繰り返した。首を振り、嘆息する。

「こんな事になってしまった。先日は戦争が終わってよかったと言ったが、実際のところはよくない。よくないんだ」

 少佐はちらりと、背後を振り返る。私もつられて、後ろへと視線をやった。

 視線の先には、当然だがオルトンがいた。愛機の手入れをしつつ、周囲を警戒している。

 この辺りには、ほぼ人はいないのだという。本当かはわからないが、きっと本当だろう。

 対して、野生の動物や、野生化した家畜やペットなどがよくうろうろしているらしい。

 少佐とオルトンはその動物たちを狩って、暮らしていた。

「今のところは、まだいい。けれど、いずれは動物を狩り尽くしてしまうだろう」

 戦争が終わって、間もない。新たな生態系が形成されるような事はないだろう。

 少佐とオルトン。二人がかりで狩り続ければ、いずれは絶滅する。

 つまり、食べる物がなくなってしまうという事だ。それは、大変だ。

「では、私と一緒に旅をしますか?」

 私の提案に、しかし少佐は首を振った。

 否定の意。私は当惑してしまい、首を捻った。

「なぜですか? このままでは、少佐と彼は死を待つだけです」

「俺はともかく、あいつがそれを拒むだろう」

 あいつ、というのが、誰の事なのかはすぐにわかった。

 ここには少佐と私、そしてオルトンの三人しかいないのだから。

「……仲間がいるからですか?」

「たぶんな。本人は何も語らないが、まあそういう事なのだろう」

 少佐の予想は、おそらく当たっている。正解だ。

 オルトンはきっと、この地を離れようとしないだろう。

 それは、少佐の命令であってもだ。彼の命令に背いてでも、オルトンはこの場に留まり続けると断言できる。

 事実、それはその通りなのだから。

「だからまあ、俺もここを離れるわけにはいかないだろうなと思っている」

 少佐は嘆息しながらも、どこか嬉しそうに、そう言った。

「一蓮托生、というやつですな」

「そんなにいいもんじゃないさ。ただの老いぼれの感傷ってだけだ」

 そう嘯く少佐は、やはりどこか嬉しそうだった。

 とても、部下や家族を失った男とは思えなかった。

 これ以上、オルトンが銃火の危険に晒される事はもう二度とない。そういう意味においては、少佐の嬉しさというものは、理解できるような気がした。

「ところで、オズ。アンタには家族っているのか?」

「父と母と……後は弟が二人、いました」

「いましたって」

「今はどこにいるのかわかりません。おおよその予想は付きますが」

「ま、そうだな」

 少佐は笑うでもなく、憤るでもなく、静に頷いた。

「所帯は持ってなかったのか?」

「どうせ死に行く身でしたから。そんな人間が嫁を貰ったところで、つらい思いをさせるだけです」

「けれど、アンタは生き残った」

「ええ、まあ」

 考えてみれば、ずいぶんと皮肉な話だ。

 もちろん、死にたいと思っていたわけではない。ただ、生き残れないだろうな、という確信はあった。

 外れてしまったが。

「俺には嫁もいた、息子もいた。戦争がなければ、今頃はオルトンと同じくらいの年だ」

 少佐は目を閉じた。深く、考え込むように。

 過去を思い出すように。思い出を慈しむように。

「別に息子と重ねているわけじゃない。そんなつもりはない。ただ、まあ……」

 少佐はゆったりとした動きで、天を仰いだ。私もつられて、青空を見上げる。

「軍部において部下と上官は父と子みたいなものだ。そしてあいつには父親というものはいない」

 時代が産み落とした、哀れな子供。それがオルトンなのだと、少佐は語った。

「俺が父親の代わりになってやりたいと思っている。あの忌々しい戦争は終わったんだ。誰に咎められる事もない」

 少佐が何を見ているのか、私にはわからなかった。

 あるいは、亡くなった家族の事かもしれない。

 自分が殺したと言う他の少年少女たちの事かもしれない。

 少し離れた場所で、銃の手入れをしている息子のような部下の事かもしれない。

 いずれにせよ、私が何かを言える義理はなかった。そんな事をするつもりもない。

「……さてと」

 少佐は立ち上がり、両手の平に付いた土や草を払う。

「そろそろ晩飯の調達にいかないとな」

 少佐は笑いながら、そう言った。

 そして、オルトンを振り返る。

 

 

               ◇



 本日のメニューは、残っていた鹿肉と野草を蒸した料理だった。

 むろん、これは私が提案したものだ。二人に任せていたら、またぞろ焼肉パーティとしゃれこむところだった。

 私に料理の心得はなかった。が、以前に母が台所に立つ姿を何度か見ていた事があった。

 その折、いくつか母の教えを受けた事がある。

 曰く、焼くのに飽きたら蒸しなさい、といいうものだった。

 当然、母はもっと高度な調理手法を持っていただろうが、子供だった私に料理に興味を持てと言う方が無理な話だった。

 そんなこんなで、蒸し料理が完成した。

 蒸し料理、と言えば聞こえはいいが、要するに鹿肉を蒸しただけのものだ。臭みを取る目的で野草と一緒に蒸してみたが、これが失敗だった。

 結論から言えば、臭みを取る事には失敗していた。というか、むしろ青臭さも加わってしまったと言っていい。これはまずい。 

 私は自分で自分の料理(もはや料理と呼んでいい代物なのかさえ謎だった)を食べて、顔をしかめた。

 とはいえ、仕方がないので自分の分は食べる事にしようとなんとか齧り付く。食料は貴重でもある事だし、犠牲になってくれた鹿にも申し訳が立たない。

 そんな理由から、おえっとえずきながら、今私は謎の何かを食べている。

 ちらりと少佐とオルトンを盗み見た。二人ともこの謎の肉に対して、どんな反応を示すのだろうかと多少の興味はあったからだ。

 案の定、二人ともまゆを潜め、無言で食べていた。

 先ほども述べた通り、現在はどんな食糧であっても貴重だ。故に二人とも黙々と食べているのだろう。

 そして、私同様にまずい、こんなものは食べ物ではないと思っている事と思う。

 私は自分の料理を心底不快に感じた。けれど、少佐とオルトンの反応を見ていると、ちょっとだけ得意な気持ちになってしまうから不思議だ。

 閑話休題。

 食事を終え、しばしの間その場で大人しくする。

 食べた後にすぐ動くのは、実によくない事だ。調子を崩してしまいかねない。

 調子を崩すだけならまだいい。病気にでもなったら、医者などいないのだから死に繋がりかねない。

 そのあたりは、用心をしなければならない部分だった。

「さてと……これからどうするか」

 少佐がぽつりと呟く。

 日はまだまだ高い。ざっくりと午後二時くらいだろうか。

 これからどうするも何も、食事を探さなくてはならないのではないだろうか。

 私はそう提案しようとした。と、その時だった。

 オルトンが立ち上がり、銃を構えた。

 何事だ、とあたりを見回す。

「あれは……」

 私はオルトンと同様に立ち上がり、彼の見ている先へと視線をやった。

 少佐も同じように、私たちの見ている方角を見ていた。

 視界の真ん中にあったのは、黒い塊だった。それも、一つ二つではない。

 全部で二十はいるだろうか。それは獰猛な殺気を放ち、私たちへとゆっくりと近付いて来る。

「な、なぜこんなところに……?」

 私たちに迫っていたのは、熊だった。熊の種類に付いては私にはわからない。

 わかるのは、おそらくその熊の群れは腹を空かせているだろうという事。そして、まだ共食いを始めるまで理性を失ってはいないという事だ。

 しかし、疑問が生まれる。

 熊は本来、雌が子供を産み育てる間のみしか群れないのではないのだろうか。

 けれども、今私たちの目の前にはニ十頭の熊の大群がいる。

 後々わかる事なのだが、この熊たちは別に群れているわけではなかった。

 ただ、食べ物の匂いにつられて集まって来ただけだ。そしていかんせん、目的地が同じと言うだけで、ニ十頭の熊の群れは群れではなかった。

 つまり、食べ物にあり付けるのはあの中で一番強い熊だけなのだ。

 ニ十頭の熊はまだ私たちを警戒しているのか、それとも他の熊の出方を窺っているのか、じりじりと近寄ってはいるが、今だに危害を加えようとはしてこなかった。

「……どうしますか、少佐」

 オルトンが少佐の指示を仰ぐ。片腕だけの状態で銃を構える。

 いつでも発砲できる状態で、彼は上官の指図を待つ。

 この状況でも冷静なのは、さすがにあの戦場を生き残った勇猛な戦士といったところだろうか。

 けれど、いくら彼でもこれだけ大量の熊に囲まれてしまったら、無理なのではないだろうか。

 下手に発砲すれば、今はまだ冷静な熊たちが正気を失い、襲ってくるだろう。

 一斉に襲いかかられれば、それこそ一たまりもなかった。

 少佐は考えこむように、じっと熊を見詰めていた。

 睨み据えていた。

 少佐やオルトンからただならぬ気配を感じているのか、熊たちは一定の距離を保ったまま、じっと私たちを見詰めていた。

「……オルトン、銃を貸せ」 

「少佐? 何を……」

「俺がこいつらを何とかする。お前はオズと一緒にこの場を離れるんだ」

「……お断りします」

 少佐の差し出した手に、しかしオルトンは銃を渡さなかった。

「ダメだ。これは命令だ。上官の言う事は大人しく聞け」

「いいえ、聞けません。それにあなたが言いました。この世界で肩書など意味がないと」

「むっ……」

 少佐は自らの発言で墓穴を掘った事を後悔しているのだろうか。

 それとも、喜んでいるのだろうか。

 オルトンという、自分の子供が成長した事に対して。

 ともあれ、今の私たちの状況はすこぶる悪い。

 一体何が原因で襲いかかられるか、わかったものではないからだ。

「俺が戦います。少佐は一層を連れてこの場を離脱してください」

「ダメだ。お前を残して行くくらいなら俺が死ぬ」

「少佐!」

 珍しく、オルトンが声を荒げる。彼が大声を張り上げた事など、今までなかったのだろう。

 少佐も驚いたように目を剥いていた。

「俺は、少佐には生きていて欲しいと思っています。あいつらだってきっとそうだ」

 あいつら、というのが、誰の事を指して言っているのかはわからなかった。

 あの粗末な墓に埋まっている連中か。それとも、先の戦争で死んでいった仲間たちか。

 どちらにしても、今はそんな感傷に浸っている時ではない。早く決断をしないと、三人揃って腹を空かせた熊の餌食だ。

 私は、まだ私たちを遠巻きにしている熊を見やった。

 どれも狂暴な面構えをしている。何でもいいから、腹に入れたいといった風情だ。

 こいつらも、生きていくのに精いっぱいなのだろう。それでも、同じ種を喰おうとしないのは立派だと褒めてやるべきなのかもしれない。

 そんな事を考えていると、オルトンが動いた。

 ダッと駆け出す。と同時に引き金を引いた。

 ダダダダダッと発砲音が連続する。すると、ほぼ同時に目の前の一頭の脳天に風穴が空く。それを、他の熊どもは呆然と眺めていた。

 数秒後、咆哮が轟いた。知り合いを殺された怒りで我を失ったのだろう。

 狂気に支配された熊は、一斉に躍りかかってきた。それらを、オルトンは銃と己の体を駆使しながら、何とか凌いでいく。

 冷静さを失った猛獣どもは、もはやオルトン以外の人間を眼中に入れていなかった。

 その動きは大きく、けれど数が多いだけに逃げ場がない。

 それでも、咆哮と銃声が鼓膜を震わせるなら、わずかながらに活路が見えた。

「少佐、こっちに」

 私は少佐の手を取り、熊と熊の間をすり抜けた。しかし、オルトンは熊に包囲されたままだ。

 絶体絶命、という言葉が脳裏を過ぎる。何とか少佐を連れて、離れた場所へと移動した。

 物陰に隠れ、様子を窺う。と、熊の動きが緩慢になっていく。

 満足げなその様子から、おそらくオルトンの命はもうないものだと推察された。

 それでも、今だに熊どもは少年の亡骸をいたぶっていた。まるで憂さを晴らすように、細切れにしてく。

 その様子を物陰から私は見ていた。じっと。

 そうして、気が済んだのか、熊はオルトンをいたぶる手を止めて、きょろきょろと周囲を見回していた。

 おそらく、私と少佐を探しているのだろう。残りの二匹はどこへ行ったのだろうと疑問に思っているに違いない。

 長い間、熊による私たちの捜索が実施されていた。見付かれば死という状況だ。

 息を殺し、呼吸音すら最低限を意識する。そうしなければ、あの猛獣どもに八つ裂きにされてしまうだろう。

 熊どもの体の隙間から、私はしっかりと見た。

 オルトンという少年兵の、死して無残な姿を。人ではなく、肉の塊になり果てていく様子を。

 悼むより、悲しむより、まず最初に思ったのは「ああはなりたいくない」という事だった。

 例え最後には死ぬのだとしても、あれほど無残な塊になる事は避けたかった。

 こんなの、人間の死に様じゃあないと戦闘中何度も思った。しかし、ならどんな死に方なら人間らしいんだ? と自問したりもした。

 たどり着いた答えは、一つ。『そんなものはない』だった。 

 どれほど取り繕っても、死ぬという事は人間性の剥奪に他ならない。

 故に、人としていきたいのなら、死んではならない。私はそう考えた。

 だから、死んだ時点でそれはもはや人間ではない。ただの死体だ。

 悲しむべきではない。そんな事で生きてく事を放棄するべきではない。

 死する事を拒絶し、生に精一杯しがみつかなくてはならない。

「……少佐、大丈夫ですか?」

 私は熊どもの様子を窺いつつ、少佐に訊ねた。

 少佐からの返事はない。熊どもは私たちの捜索を諦めたのか、三々五々に散っていく。

 鬱蒼と木々の茂った、森の中へと姿を消していった。

 それからしばらく、私は熊が戻ってくる事を想定して、その場で様子を窺い続けた。

 けれど、熊は一頭たりとも戻ってくる事はなかった。

 私は物陰から立ち上がり、オルトンの許へと向かう。

 オルトン、だった何かがそこにはあった。四肢を引き下がれ、首筋は大きく齧り取られている。裂かれた腹からはその内側が見て取れたが、肋骨と除骨が僅かに覗く程度で、内臓のほとんどは食い荒らされていた。

 心臓も肺も胃もなく、頭もなければ手足もなかった。

 あるのはただの肉塊だった。そこに、確かにオルトンがいたという証明。

 辛うじて、それが人間で会ったとわかる程度だ。

「うああ……」

 少佐は変わり果てた少年の姿を視界に収めると、彼の側に跪いた。

 そうして、その肉片を素手で集めていく。

 小さな唸り声が、私の耳に届いてきた。その痛ましさといったらなかった。

 耳を塞ぎたかった。本当に。

「あの……少佐」

「すまない……少し黙っていてくれないか」

 少佐の声音は優しかった。けれど、そこか有無を言わせぬ威圧感があった。

 否、それは威圧感などではなかったのだろう。今にして思えば、だが。

 あの時の少佐は、正常ではなかったのだろうと思う。

 正気ではなかった。何かがおかしかった。

 外れかかっていたネジが、完全に馬鹿になってしまっていたのだろうか。

 少佐はオルトンだったものを一通り集めると、それを抱えて立ち上がった。

 どこかへと向かう。どこへ向かっているのか、見当は付いた。

 オルトンの仲間たちが眠っている、あの場所だ。

 私は少佐の後ろから、付いて行った。一人では、何かと不便だろうと思ったから。

 もしかしたら、またあの熊どもに出くわすかもしれない。それとも別の獣に。

 そう言う考えもあった。この時の私は、間違いなく少佐よりずっと冷静だった。

 少佐は、冷静ではなかった。それはそうだろう。

 戦争で家族を失い、生き残ったはずの部下を失った。

 今、少佐を少佐たらしめていた精神的支柱が欠落したのだ。

 例の粗末な墓地にたどり着いた。ここまで、私たちを襲ってくる影はなかった。

 少佐は少年だったものをその場に置く。と、血塗れのまま、私を振り返った。

「今から、こいつの墓を作ろうと思う。けれど、手は出さないでくれ」

 少佐はそれだけを言うと、私に背を向けた。

 両膝を折り曲げ、背中を丸めて穴を掘り始める。

 素手で。少しずつ、彫り進めていく。私はその背を眺めていた。

 その様子は、初めて会った時とはずいぶんとかけ離れていた。

 弱々しく、鬱屈としていて。

 触れれば折れそうなほど、細く見えて。

 私はその場に立ち尽くす以外、何もできなかった。

 手を出すな、と言われてしまえば、尚更だ。

「……できた」

 少佐の呟きが、風に乗って聞こえてくる。

 私は彼の側まで歩み寄った。

 小さな墓穴だった。他の戦友たちとは比べるべくもない。

 熊に喰われていたのだ。全体的に小さくなって当然な気がする。

 そう分析というか、感想を抱いたのは、自分でもおかしな事だと思う。

 おかしな事、というか冷たい男、というか。

 少佐が彫ったばかりの穴にオルトンの亡骸を入れる。

 掘ったばかりの穴を埋め、その場で胡坐を組んで座り込んでしまった。

「……少佐、そろそろ日が落ちます。キャンプへ戻りましょう」

「ああ……そうだな」

 少佐はこくりと頷いた。けれど、その場を動こうとはしなかった。

 私は仕方なく、少佐の側にいた。

 どれくらいそうしていただろうか。正確な時刻などわからなくなって久しい。

 ともかく、太陽が傾きかけてきた。西の空が赤らんでくる。

 私はもう一度少佐に声をかけようとして、止めた。

 また、生返事を喰らうだけだ。それに、少佐はあの場を動こうとはしないだろう。

 何があっても。例えどんな事があっても。

 私は一人、踵を返して寝泊まりしていた場所へと戻る。

 一人分、すなわち私の分だけの荷物を持つ。

 そして、熊と戦闘になった場所へと行ってみた。そう遠くはない。

 血を吸った土が、黒々としていた。側にオルトンが愛用していた銃が落ちている。

 それを取り上げ、もう一度墓地へと戻った。

 今度は、話しかける事はしなかった。

 ただ、少佐の側にオルトンの銃を置いた。手向けの花みたいだなと思った。

 ずいぶん、物騒な手向けの花だな。

 私は少佐とオルトン、そしてそれ以前に死んだ兵士たちに向け、敬礼をする。

 踵を返し、墓を離れた。

 最後に見た少佐の顔色は優れなかった。

 あれが、生きる気力を失ってしまった男の顔なのだ。

 家族を失い、父親代わりになろうとしていた部下を失い。

 それで生きていけるというのなら、そいつは人ならざる尋常な精神力を持っている。

 そう、私は思う。

 

 

 その後、少佐がどうなったのかは、わからなかった。

 

 

 旅を続けなければ。生きてゆかなくてはいけないのだから。

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