17話 フラジャイル
「分かったわ、後の仕事は私の方で調整しておくから。とにかく麻衣は希の傍にいてあげて、体調が悪い時は心まで弱るものだから。……それから希に余計なことを考えさせないようにしてあげてね。あの子は責任感が強いからきっと自分を責めるわ」
電話越しの社長からの指示は的確で細心のものに思えた。不安だった俺もその声を聞くと少し安心できた。やはり多くの経験をしてきた人間の言葉は強い。自分で全てを判断しなければならない状況だったら、俺の方が押しつぶされていたかもしれない。
「やっぱり、密着大陸のロケがストレスになっていたのかもしれないわね……」
さらに社長が呟くように言った。
もちろんそれを確かめる術はないが、その意見は当たっているように思えた。やはり密着ロケの仕事など受けるべきではなかったのだろうか?……いや、もちろん過ぎたことを後悔しても仕方ない。
それに、やはり好意的な反響の大きさを考えると、あの仕事を受けたことはきっと正しかった。長い目で見れば必ずプラスに働くはずだ。
残りのグラビア撮影は30分ほどで終わった。
俺の前ではあんなに弱々しい姿を見せていた希だったが、カメラの前では強気で大人っぽい姿をバッチリとキメていた。さっきの弱り切った姿こそがウソだったのではないか?と一瞬思いかけたが、もちろんそんな訳がないことは分かっていた。
「現場ごとに望まれている黒木希を提供する」という彼女のプロ根性について、1ヶ月を共にしただけの俺も充分過ぎるほど理解していた。
「あの……ウチの黒木なんですが、これで今日の仕事は終わりになりますので、メイクを落としてやってもらえますか」
「あ、分かりました。お疲れ様です」
現場のメイクさんに俺はそう声を掛けた。
メイクさんは何度も一緒に仕事をしている人で、特に説明をしたわけではないが何となく事情を察したのだろう。当初と予定が変わったことにさして疑問も挟まず、こちらの要望に応えてくれた。
「お待たせ……もう今日は良いのかな?」
メイクを落とした黒木希が出てきた。
すっぴんでも驚くほどその肌は白くきめ細やかで、メイクを落としても『黒木希』そのものであることに変わりないのだが、いつもより幼く見える。どうかすると23歳という年齢以上に若く、高校生くらいにも見える。
「はい、大変な中お疲れ様でした。今日は自宅まで送りますから……」
「え?大丈夫だよ、そこまでしなくても。大袈裟ね~」
「いえ、社長からの指示ですので」
いつもは会社で用意した車で運転手さんが自宅まで送迎するのだが、今日は予定変更となったためタクシーでの移動となる。となるとやはりマネージャーである自分も同行した方が良いだろう。彼女は渋ったが俺は折れるつもりはなかった。
「……そっか、分かった。でもウチの部屋は散らかってるから、玄関までで大丈夫だからね」
「ええ、分かりました」
彼女が部屋に入ることをそこまで嫌がるのは何か理由があるのだろうか?とチラッと気にはなったが、とにかく今は無事に部屋まで送り届けることしか頭になかった。
現場のスタッフさんに用意してもらったタクシーはすでに到着していた。
後部座席に2人で乗り込むと、希本人が住所を告げ発車した。……ちなみに住所も大まかなものを告げただけで、詳細な番地やマンション名を彼女は告げなかった。タクシー運転手から時として情報が洩れて、トラブルになるということを気にしたのだろう。病気で弱っている時でさえ、そんなことに気を遣わなければならないとは……大変な立場だな、と改めて感じた。
彼女の自宅に向かう途中病院に寄り、診察してもらった。
結果としては過労から来る風邪だということで、大きな病気ではなくとりあえずは一安心といったところだろうか。
「麻衣ちゃんにも、みんなにも、こんなに迷惑かけちゃって、本当ごめんね……」
病院ではっきりと診断されたことで安心したして少し気が抜けたのだろうか、希は一層弱気になっているようだった。俺に向けた声も今にも泣き出しそうな、か細いものに聴こえた。
「全然大丈夫ですから!むしろ休みが出来てラッキー、くらいに思っておいて下さい!」
おどけような声で俺は彼女を励ました。
彼女の責任感の強さはもちろん素晴らしいけれど、今は余計なことを考えず自分が回復することだけを考えていて欲しかった。
「……うん……」
その気持ちが伝わったのだろうか?
彼女はそっと涙を流しながら俺の肩に顔を乗せもたれかかってきた。想像していたよりも彼女の身体は華奢で、不自然なほど重みを感じなかった。
彼女の手を握り背中を軽くさすってあげる。それくらいしか出来ることが思い浮かばなかった。
マネージャーとアイドルとでは結局立場が違う。毎日顔を突き合わせて一緒にいてもそれは変わらない。彼女が抱えているプレッシャーや辛さは、本当の意味では俺には理解出来ないのだ。言葉でどれだけ励ましたところでウソっぽくなってしまいそうな気がした。
彼女の背中をトントンと叩いていると身体の緊張が解け、力が抜けていくのが分かった。それと同時に彼女の口から、ヒック、ヒックとしゃっくりのような音が漏れてくるのが分かった。緊張が解け、嗚咽混じりに泣いているのだろう。
俺はあえて顔を見ないように彼女の背中に両腕を回した。多分今彼女に必要なのは誰かの体温なのだろう。
(こんなにもギリギリだったんだな……)
嗚咽混じりに泣き出した彼女の姿よりも、普段の完璧な彼女の姿が思い出され、そちらの方に俺は怖さを感じた。無敵のスマイルの裏にこんなにも脆い精神を抱えていたのだと思うと……ゾッとした。今こうしてガス抜きのように彼女の感情を小出しに出来たことは、むしろ良かったのかもしれない。もっと大きくストレスを溜めていたなら……彼女の心はどんな爆発の仕方をしていたか分からない。
「……ね、希さん?大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのかは言った俺もよく分からなかったが……大丈夫なのだ!大抵のことはどうにかなるし、どうにもならないことはどうにもならない。
「……うん」
彼女はそれだけ返事をしてくれた。
多分彼女自身も何がそんなに彼女を追い詰めているのか、はっきりと分かってはいないだろう。……というか何か明確な敵がいるわけでもないのだと思う。
入る前に俺が抱いていたイメージとは違い、この業界の人たちは皆驚くほど丁寧で柔らかい物腰の人たちばかりだった。それは現在彼女が国民的アイドルでトップスターだからなのかもしれないが、パワハラ紛いのプロデューサーも、セクハラを仕掛けてくる社長にも一切出会ったことはない。裏で嫌味を言ってくるお局女優もいないし、ライバルグループのアイドルが衣装の靴に画鋲を仕込んでくることもない。
ウチの社長からしてそうだ。タレントである彼女たちだけでなく、マネージャーやその他の社員に対しても必要以上に厳しい言葉を掛けることはまずない。セクハラやパワハラが横行する芸能界……というイメージはもう古いのかもしれない。最近の傾向を考えればそれも頷ける。
それでも彼女は……ほんの少し突いただけで壊れてしまいそうな……ストレスを抱えているのだ。それが具体的に何なのか、誰も本当の意味では理解出来ないような気がした。
「お客さん?着きましたけど、この辺りで良いんですか?」
タクシーの運転手さんが声を掛けてきたのは、駅前の大きな通りだった。彼女が告げた場所は確かにそこだった。
体調を考え、もう少し自宅まで近付いてもらった方が良いのではないか?と思い俺は彼女を見たが、彼女はここで降りることを主張した。
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