SCENE:9‐1 17時34分 汐生町 水上邸

「何も喋らなくて良い。酸素を無駄遣いするな」


 ネムルは言った。発した声が震えないように注意しながら。


 ユークの側に腰を下ろし、損傷の具合を確認する。人間で言う脊椎せきつい、消化器系の臓器が破裂している。鉄でできた身体とはいえ、数十キロある鉄球が直撃すればひとたまりもない。


 代替出来るパーツはない。玄関先に転がっていたフィジカル・ヴィークルも、主要部品が壊れてしまっている。


「君を連れ帰る」


 血のように赤いガソリンにまみれた手を、ネムルは掴んだ。


「もう少しの辛抱だ……渚、頼む」


「もちろんだ」


 渚の両手がユークに伸びる。


「待ってください」


 渚の手を遮って、海斗は言った。


「ユークが何か言ってる」


 ユークは眉をひそめた顔で、ゆっくりと唇を動かした。思うように声が出ないようで、その顔はもどかしげだ。


 ネムルが耳を近づけると、小さなノイズにまみれた声が、途切れがちに聞こえてきた。


「さ……さりゅ、を……」


 すがるような目で、ネムルを見上げる。


「あの、子……、しお、み、しょうに……」


「汐生小学校です。さりゅと陸太は、そこにいるんです」


 すかさず海斗が補足する。


「あの二人にも、敵が襲来していたら……」


 本日何度目になるのか分からない、さりゅへ電話を掛ける。が、またしても、応答がない。


 くそっ、と毒づき、力任せに机を殴りつける渚を、ネムルは深刻な顔で見上げた。ユークと渚を交互に見やる目は焦燥に歪んでいる。繋いでいない方の手をぎゅっと固く握りしめると、ネムルは小さな声で続けた。


「君は妹を探しに行け。ユークはボクが連れて帰る」


「連れて帰るったって、どうやって海を渡る気だ? この三人の中で、アクアバギーを運転できるのは俺だけだぞ」


「大丈夫だ。ボクが、なんとか……」


「出来るわけないだろうがっ!」


 ぐっ、と言いよどむネムルと、ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしる渚。彼らを交互に見つめていたユークが、突然大きく空咳をした。赤い液体が、口から勢いよく飛び出したのだ。


 それを合図に、青い目がゆっくりと閉じられ、ユークはぴくりとも動かなくなった。


「ユーク! ああ、ガソリンがっ!」


 ネムルが悲鳴をあげながら、口元を塞ぐ。


「ユーク! 大丈夫か、ユークっ!」


 必死の呼びかけにも、ユークは反応しない。


 慌てた渚が抱きかかえようとするも、


「だめだっ!」鋭い声でネムルが制した。


「逆流防止の弁が外れている! 乱雑に扱えば、生命維持に必要なガソリンまで流れ出てしまう!」


「ここでユークが動かなくなるのを見ていろってのか!?」


「応急処置をする! レムレスに運ぶのはその後だ!」


「ま、間に合うのかっ?」


「間に合わせるしかないっ! 君も手伝え!」


 怒鳴りあうほど切迫した二人のやりとりが、海斗にはどこか遠い世界の出来事のように感じられる。

 大好きな友達の、生きるか死ぬかの瀬戸際。あまりにも非現実的過ぎて、その緊迫の中へ身を投じることが出来ずにいる。


 左手に違和感を覚えて、視線を移した。


 喀血かっけつのごとく飛び散ったガソリンが、手に付着していた。


 赤くぬめったユークの生命。


 握りしめた拳の中で、揮発性きはつせいの冷たさを感じる。


 体温をすべて失ったかのような冷静さと、マグマが煮え立つような焦燥が入り混じる。


 痛いくらい奥歯を噛み締め、海斗は駆け出していた。


 強い何かに導かれるように……その啓示的けいじてきな感覚すらも思考の枠外に追い出して、兄弟の元へ向かっていた。


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