SCENE:7‐1 6時40分 汐生町 ホテルの一室

 乾いたばかりのマニキュアにふっと息を吹きかける。迷彩柄の五本の爪が朝日を受けてきらりと光る。意識したわけではないのに、今日は上手く塗れた。爪の中央には、おなじみの蹄鉄ていてつのデコレーション。戦闘準備は万全だ。


 リリー・タイガーは席を立つと、部屋に置かれた大きな鏡に自分の姿を映し出す。


 七分袖のアーミーシャツ、タイトなレザーのミニスカート、細いウェストをぐるりと取り巻いているのは、五十口径の弾薬が差し込まれたガンベルト。両太腿にホルスターをくくりつけている。


 履いている軍靴は爪先の部分が鉛でできているため、一発の蹴りがなかなか重い。


 鼻歌まじりに窓際へ歩いてゆき、設置されたフィールドスコープを覗く。

 観測位置は海砦レムレスの船着場。海に突き出た桟橋に一台の水上自転車が停泊している。ユークが通学に使っているものだ。


 衛星電話で部下たちの状況を確認すると、準備完了との答えだった。


 汐生町のいたるところに配置した私服の軍人たちは、一般人を装って住民を監視している。


 先刻、リリーは町中で見かけたロボットの特徴を伝えた。

 さりゅと買い物をしていたときに出現した、人の形を模した機械。生気のない青白い顔と、効率化された非人間的な動き。部下たちの手にかかれば、普通の人間なら見過ごしてしまうささやかな不審行動もたちどころに暴かれる。


 なぜなら、スナーク隊は戦闘に関するスペシャリストの集まり。戦闘に優れているということは、人体の動きを知り尽くしているということでもある。まして、観察対象がロボットならば、その見極めは人間以上に容易だ。


 不審人物を見かけた場合、発信器をつけろ、とリリーは命令を下している。


 荒事を起こす気はない。発信器をつけ、親玉の元へ帰還するのを待つ。


 手にした衛星電話が鳴った。


 部下からの連絡かと身構えたが、聞こえたのは柔らかなの男の挨拶だった。


 リリーちゃん、最近どぉ? と、昨日話したばかりなのに近況を聞いてくる。


 こんなときに、面倒くさいやつだ。


 ハロー、とそっけなく挨拶を交わしたあと、リリーは早々に用件を聞いた。


 ――いやぁ、日本語を喋れる人と話がしたくなっちゃってねぇ~。外国にいると、母国語を話す機会がなくなっちゃうじゃない? やっぱりさぁ、言葉が通じると安心するよねぇ~。


 のほほんとした答えが返ってきて、リリーは脱力する。日本語が通じても、決定的な何かが通じていない。


 というか、この男と話の通じる人間が地球上に存在するとは思えない。


 それならば、むしろ言葉など通じないほうが良かった。


 あはははは、と笑う声は、彼がいるテキサスの空同様に晴れ渡っている。


「切りマス」


 リリーは電話を切る。


 しかし、十秒も経たず再び電話が鳴る。


 ――リリーちゃん、元気ぃ?


「アイム・ファイン ……切りマス」


 リリーは電話を切る。


 またもや掛かってきたが無視する。


 そのまま、十五分近く耐えていたが、一向に呼び鈴は鳴り止まない。


 しびれを切らして電話に出ると、


 ――みー、とぅー!


 穏やかな男の声だ。


 ――おじさんも元気だよぉ~。なんで元気かって言うとねぇ、朝ごはんにアボカドディップと、野菜スティックを食べたからだよぉ~。


 ――ちなみに、アボ「ガ」ドじゃなくて、アボ「カ」ドだよぉ~。間違えないでねぇ!


「お前の脳みそディップにして肋骨ろっこつ食ってやろうか!」と脅し文句が喉元まで込み上げたが、リリーは我慢する。


 電話先の男はこちらのピリピリした空気が伝わらないのか、上機嫌に近況報告――という名のお喋り――を続けている。


 リリーは溜息をついた。


「ワタシは忙しいのデス。どうして邪魔をするのデスカ?」


 ――邪魔なんてとんでもないよぉ! おじさんはいつでもリリーちゃんの力になりたいと思っているんだよぉ~!


「それならば、汐生町に来てくだサイ」


 ――もちろん、そのつもりさぁ~! おじさん、今、どこにいると思う~?


「第七地獄でショウカ?」


 ――嫌だなぁ、それは君の願望だよねぇ? 正解はね、空港だよ! おじさん、空港にいるんだよぉ~!


 リリーは椅子から立ち上がる。


 彼は最初から、そのつもりで電話を掛けてきたのだ。


 余裕のある話し方なのは、嬉しいサプライズを用意していたからだ。


 リリーはちょっと涙ぐむ。


 長らくこの男のマイペースぶりに振り回されていたが、ようやく他人に対して気遣いが出来るようになったらしい。子供を産んだことはないが、出来損ないの我が子が初めて何かを成し遂げたとき、喜ぶ親の気持ちが手に取るようによく分かる。


 ――安心して良いよぉ~! すぐにおじさんが駆けつけるからねぇ!


 ふっふっふっ、と格好つけて笑う男の声が、ふっふっふっ……ふぅ? という疑問符に変わる。


 がさごそと衣類をまさぐる音が聞こえ、リリーは嫌な予感がした。


 しばらく布ずれの音ばかりが聞こえていたが、やがて取り成すような穏やかな声で、


 ――リリーちゃん、おじさんのお財布を知らないかなぁ?


「知りまセン!」


 ――なんでないのかなぁ?


「アイ・ドント・ノウ!」


 ――よく見れば、おじさんの荷物が全部なくなっちゃっているよぉ? 「荷物を空港まで運んでくれる」っていう親切な人に、渡したばかりなんだけどなぁ~。どこに行っちゃったのかなぁ?


 うーん、うーん、と考える声が聞こえ、リリーはがっくりと肩を落とす。ダメだ。盗人ぬすっとが生業の不親切な人に、全財産を渡してしまうバカと話をしていても時間の無駄だ。


 ――リリーちゃん、おじさんを迎えに来てくれないかなぁ~?


「ホワイ!? どうしてワタシがアナタの元へ向かわなければならないのデスカ!?」


 ――だってお金がなくなっちゃったんだよぉ~。これじゃあおじさん、汐生町へ行くどころか、アボカド一つも買えないよぉ~。


「……この携帯電話を売って、お金に換えてくだサイ。そのお金で、たらふくアボガドを食べてくだサイ」


 ――いやだなぁ! 携帯電話を売っちゃったら、リリーちゃんとお話が出来なくなっちゃうじゃないかぁ~!それにアボガドじゃなくて、アボカ……


 リリーは電話を切った。主電源ごとスイッチオフにする。


 軍人たちから知らせが届かなくなるデメリットと、イタズラ電話のごとき彼の着信を拒否するメリットを天秤にかけ、後者に傾いたのだ。


 リリーはこの数分間の出来事を記憶からきちんと抹消する。


 上機嫌に立ち直ると、フィールドスコープを覗き込んで監視を続けた。

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