SCENE:5‐4 14時05分 部屋
長い前髪をいじりながら、南雲は電源の切れたパソコンの画面を見つめていた。
つい先ほど、楠木ネムルとリモート通信を終えたばかりだ。
〝慈悲深き機械〟について、ネムルは何も知らないと言っていたが、もちろん嘘に決まっている。取引に違反した以上、こちらも黙っているわけには行かない。
しかし、事を荒立てるのはナンセンスだ。これはあくまでネムルと自分の取引の話で、〈MARK-S〉は関係ない。
というより、〈MARK-S〉の上層部がこのことを嗅ぎつけたら、面倒なことになる。
なにより、一番の脅威はリリー・タイガーだ。
彼女は、いかにセンシティブな話題を嗅ぎ回っているかを知らない。
仮にもスナーク隊の要人である彼女が、〝慈悲深き機械〟の情報を手に入れたなら、〈MARK-S〉に対する海軍の宣戦布告と見なされるだろう。
そんなことを考えていた矢先、フランボワーズが口を開いた。
「楠木ネムルは、本当に〝慈悲深き機械〟のことを知らないの?」
「勘の悪い君でも、今の会話に訝るところがあったんだね」
南雲は素直に褒めたつもりだったが、
「豪……殴れるものなら、あんたを殴っているところよ」
恐ろしくドスの効いた返事が戻ってきた。
南雲は慌てて話題を戻す。
「〝慈悲深き機械〟は、かつて〈MARK-S〉によって作られたと言われている。〈MARK-S〉の幹部であった彼女が、その歴史を知らないはずがないんだよ」
「あんたの組織って、なにか良いことしてないの?」
「パソコン世代の若い人たちのために、ドライアイに効く目薬を開発しているよ。あと更年期障害を改善する薬や、子供が苦手な錠剤を飲みやすくするゼリーも売れ行き好調みたいだね」
「あんた、そっちの部署に回してもらった方が良かったんじゃないの?」
まったくその通りだ、と南雲は思う。
これまでに五十回ほど異動願いを出しているが、ことごとく却下されてきた。残念ながら、自分も楠木ネムルも軍事産業に向いた頭脳を持って生まれてしまった。そしてそれを利用しようとする人間に拾われてしまった。
運命を嘆いたところでどうにもならない(異動願いは、これからもしつこく書いていこうと思っているが)。
気を取り直して南雲は続ける。
「〈MARK-S〉の資料室で狩屋草介氏のノートを見つけてから、僕も〝慈悲深き機械〟に興味が湧いて、これまでに色々調べてみた。だけど、このノート以外に記録が残っていないんだ。関連する書籍もないし、〈MARK-S〉専用のデータベースでもヒットしない。もちろん、ネット上にはひとかけらの噂も落ちていない。そして〝慈悲深き機械〟が使われたという夢幻戦争も、どのような終結を迎えたのか、はっきりと分かっていない。
本、データ、ネット、歴史……これらは情報によって紡がれるものだ。そして〝慈悲深き機械〟は国勢に匹敵する情報処理能力を持っている」
「……何が言いたいの?」
フランボワーズの声が震えている。彼女の勘は珍しく冴えている。だからこそ、震えているのだ。
ごくり、と唾を飲み込んで、南雲は一思いに結論を述べた。
「かつて〝慈悲深き機械〟の手によって情報統制が行われた。そして今も、〝慈悲深き機械〟は情報を統制し続けている」
しん、と部屋が静まり返る。自身の鼓動まで聞こえそうなくらい、静かだ。
――楠木ネムルが無知を通す理由は、ここにあるのではないか。
不純物のない水の中に
ネムルは〝慈悲深き機械〟を知っている。
しかし、知らない。
知らないことにしなければ、〝慈悲深き機械〟に情報統制されてしまう。
そこまで考え、南雲は首を振る。
まさか。そんな馬鹿な話があるわけない。意思を持った機械が、自分に関する周囲の動きを監視し続けているなんて……。
「リリー・タイガーは、どこで〝慈悲深き機械〟を知ったのか」
心に巣食った疑念を霧散させるように、南雲は言った。
とりわけ〝慈悲深き機械〟という単語に力を込めて、発言する。
「そして、〝慈悲深き機械〟の情報を、楠木ネムルが持っているという考えに至ったのか」
「そうね! そこ、気になるわ!」
フランボワーズも気を取り直したらしい。わざとらしいほど明るい声が、静けさに満ちた部屋の中を無軌道に跳ねる。
南雲はパソコンを立ち上げ、素早いタイピングで検索画面に特定の文字を打ち込んだ。
間もなくリリーのSNSが出てきた。英語で書かれた自己紹介に、上目遣いのアイコン写真。フォロー数が数人に対してフォロワー数は数千万人……世界で指折り数えるほど影響力の高いユーザーだ。
数分前に新たな投稿をしたらしい。プロフィール欄の下に、赤いグラスを写した大きな写真が表示される。
日本人の大親友・サユリがアップルティーを作ってくれたわ!
スウィート&ジューシー!!
とっても幸せ♥♥♥
日本語に訳すとこのようなことが書いてある。
「どうしてこれだけの投稿に、イイネ! が300万もついているんだろう……」
「ポジティブで可愛いからじゃない?」とフランボワーズ。
「豪の投稿は、哲学的な自問自答ばかりで面白くないのよね。載せる写真は、空と電柱ばかりだし」
「なっ、なんで僕のアカウントを知ってるんだよっ!?」
「そんなことより、リリー・タイガーのSNSがどうかしたの?」
ベッドに顔を埋めてじたばたと身もだえしたい気持ちを抑え、南雲は操作を続ける。
リリーのページを下へ下へとスクロールしていくと、或る投稿に行き当たった。日付は今から一ヶ月前のことで、彼女のバースデーパーティーの写真が数回に渡って投稿されていた。
ホテルのVIPルームを貸し切り、大規模に催されたらしい。相当な人数が参加したと見えて、写真ごとに映る顔ぶれが違っている。
その中で気になる写真があった。リリーを中央に据えて、六、七人の中高年の男女が写っている。
どの人も口元は微笑んでいるが、元来鋭い光を宿した目は全く笑っていない。
コメントには「パパのお友達と♥」と記されている。
「この写真に写っている男女の顔を、世界各国の軍事データベースで照合してみた……案の定、軍事幹部。それも主要国の
「この人たち、そんなにすごいの?」
「この中の誰かが命令を下すだけで、国が一つ核で溶ける」
フランボワーズはため息をつく。
「溶かすのはチョコレートだけで十分」
「おそらく、このパーティーでリリーは秘密を知ったんだ。夢幻戦争に関与していた誰かが、リリーに噂を吹き込んだ。あるいは、単に口を滑らせただけかも知れない。とにかくリリー・タイガーは〝慈悲深き機械〟の真偽を確かめてみたいと思った。〈MARK-S〉である、僕のパソコンに侵入したのはそのためだ」
うううん、と低い声で唸りながら、南雲は腕を組む。
リクライニングの背もたれに身体を預けて、パソコンをじっと見つめる。
無邪気にパーティーを楽しんでいるのか、それともすべてを知ったうえで良しとしているのか。
元女優の彼女の素顔は、誰にも分からない。
「どうして〝慈悲深き機械〟の情報を、楠木ネムルが持っていると思ったのかだけど――」
南雲は続ける。
「――リリーとネムルは面識があった。一年前、〈MARK-S〉脱退の手引きをしたのはスナーク隊だ。そのとき、リリーは出会ったんだ。身体機械を操る、頭脳だけの少女に」
「楠木ユークね」
南雲は頷く。
人間の心を持ち、機械の身体を持つ、特別な存在。
ユークが誕生した経緯を知らない人間には、あたかも〝慈悲深き機械〟のように見えたに違いない。
リリー・タイガーの狙いはユークだ。
南雲は椅子から立ち上がると、壁際に立てかけられたキャビネットへ向かう。この部屋には細長い形のキャビネットが、部屋取り囲むように隙間なく立てかけられている。
ガラス張りの扉から見えるのは、老若男女様々な身体つきのロボット。
フィジカル・ヴィークル。
ある扉の前で立ち止まると、南雲はガラスを愛おしそうに撫でる。
その中にはユークがいる。
ユークと同じ顔、同じ形のフィジカル・ヴィークル。
「楠木ネムル………お望みのものをあげるよ」
人間よりも人間らしい表情を浮かべる彼女たちを見ながら、南雲は静かに笑った。
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