SCENE:5‐3 14時05分 海砦レムレス
「ネムルちゃーん! ユークちゃーん!」
さりゅの呼び声は、虚しく寄せては返す波の音に吸い込まれた。
「いないのぉー? ネムルちゃーん?」
人工海岸に設置された桟橋の上、海砦の玄関口で繰り返しネムルの名前を呼び続ける。今までこんなことはなかった。海砦の主・楠木ネムルはいつでもさりゅの呼び声に答えた。
空中に浮いている、野球ボールのようなマイクスピーカを使って。
そして防壁を解除し、さりゅの立ち入りを許してくれた。
寝ているのかな? それとも研究に熱中していて聞こえないだけ?
考え込むさりゅの隣で、リリーは訝しげに宙を指でつつく。
すると、弾力のある壁が人差し指を弾き返した。まるで空気が固体として形を成したかのようだ。
掌で触れると透明な膜が深く沈む。パントマイムの壁触りのように両手をあちこちに動かしながら、その感触を確かめる。
「不思議デスネ。視界には映らないノニ、確かにここには壁がアリマス。イッツ・アメージング・シー・フォートレス!」
「ネムルちゃん家、防犯意識が高いから」
「日本人は危険意識が薄いと聞きマスガ、ネムルのホームは例外のようデス。渡る世間は鬼バカリ、生き馬の目を抜く世の中ですカラ、素晴らしい心掛けだと思いマス」
にっこりと笑いながら、しかしこれでは侵入もままならない、とリリーは思う。
チャーターしたアクアバギーに戻り、海砦を周回しながら別の経路を探す手立てを考えたが、さりゅの手前、無茶も出来ない。
さりゅは気づいていないようだが、空を飛ぶカモメに混ざって、鳥型の監視ロボットが旋回している。自分たちの姿はバッチリと記録されているはずだ。
今は、寛大な心で成り行きを見守る。
そして、隙あらば一気に畳み掛ける……リリーは頬杖をついて、さりゅと一緒に困ることにした。
「ネムルが留守とは予想だにしていませんデシタ」
「ネムルちゃん、砦の外へ出たことなんてないのに……」
「緊急事態でショウカ?」
「心配だなぁ。危険なことに巻き込まれていないと良いけど……」
眉をひそめるさりゅの横で、リリーはウフフと笑う。
そのとき、宙に浮いていた球体の一つがくるりと回転した。表面に目玉の形の映像が浮かび上がり、ぱちぱちと瞬きしながらさりゅを見つめる。魚眼のようなその目から、線のように細い赤外線が放射される。
さりゅの全身をスキャンして、人物照合を行っているらしい。
やがて、
――水上小百合。客人。
――99.99999%一致。
機械的な音声がどこからともなく聞こえ、船のハッチが開くように透明な壁の一部が開いた。
留守番システムのようなものが作動したのだろう。さりゅを認証キーとして、海砦のセキュリティーが解除されたのだ。
リリーは密かにほくそ笑む。
二人は「曼荼羅ガレージ」へたどり着く。ここでもさりゅの存在は役に立った。
見るからに重い鋼鉄の錠の開く音が聞こえ、いともすんなりとネムルの研究所へ入ることが出来たのだ。
「ネムルちゃんもユークちゃんも、誰もいない……」
キョロキョロと室内を見回すさりゅを置いて、リリーはすたすたと部屋の中へ入っていく。
「曼荼羅ガレージ」は一階が大型機械を制作する作業場になっており、二階がリビング兼ネムルの書斎。三階はネムルの研究室、四階五階と、私室が続く。
内部構造を事前にさりゅから聞いていたリリーは躊躇わず三階へ向かった。階段を昇っている間に、対侵入者用のトラップが仕掛けられていないかを、軍隊仕込みの素早さで確認していく。
クリア。
クリア。
クリア。
何事もなくたどり着いた三階は、ネムルの実験器具や研究ノートで埋め尽くされていた。壁際に設置されたコンピューターも、処理速度の早い大型のものだ。
この部屋にあるデータだけで、攻守に優れた軍事システムが一つ作れてしまうだろう。
まるでロブスターね、とリリーは思う。
見栄えの良い海砦も甲皮を剥がしてみれば、こんなにも柔らかで美味しい肉が詰まっている。
喉から手が出るほど欲しい情報が目の前に差し出されているが、今日の獲物は別にある。中央に据えられた研究台に飛び乗って、部屋の隅々に目を光らせる。
「り、リリーさん……! 勝手にネムルちゃんの部屋に入ったら、だっ、ダメですよっ!」
階段を全速力で駆け上ってきたらしい。ぜいぜいと肩で息をしながら、さりゅがさけぶ。
「わたしもここに入ったらダメって、言われてるのに!」
「ドント・ウォーリー、サユリ。ワタシのことなら心配しないデ」
「だっ、ダメです! ネムルちゃんも困ると思うし、リビングに戻りましょう!」
ひっしとリリーの腰に抱きつくさりゅ。抱きついたものの、ここから先、どう動けば良いのか分からない。
リリーはさりゅを無視して、部屋の中を歩き回る。
「リリーさんんん~」
リリーがずんずんと部屋の一点に進むと、さりゅもずるずる引きずられていく。
右へ。
「あああ~」
左へ。
「あああ~」
リリーは本棚の前で立ち止まると、背表紙を目で追う。世界各国、あらゆる言語で書かれた本がぎっしりと詰め込まれている。その中に母国の言葉を見つけて、引っ張り出す。
それは、古びた大学ノートだった。長い年月を経て表紙は歪み、無数のシミが付着している。
パラパラとページを繰る。中身も相当に古い。
現在では使われなくなった言い回しやスラングがいたるところに書かれている。
裏表紙に書かれた英字を見て、リリーは笑んだ。
――慈悲深き機械についての考察
――フック・タイガー 記す
これだ。
これこそ、自分が探し求めていた手掛かり。
「ときに、サユリ」
「な、何でしょうか?」
「かつて、ワタシとアナタの国で戦争が起こったことを、ご存知でショウカ?」
「戦争?」
「イエス。ワタシたちが、この世に生を受けるずっと前のことデス」
戦争……と聞いて、パッと思いつくのは一つだけ。
夢幻戦争。
リリーは頷く。
「アナタはよくお勉強をなさっていますね。そうです。夢幻戦争。かつてワタシとアナタの国が、競い合うように様々な兵器を開発し、互いに人民を傷つけあった、あの戦争です。勝利がどちらの国にもたらされたか、ご存知ですか?」
「教科書にはわたしの国が負けたって書いてあったけど……」
「ワタシの国の教科書には、ワタシの国が敗北したと書かれています。専門家の見解は様々ですが、国家の意向としては、どちらの国も自国の敗戦を認めている。それでは、諸外国の認識はいかがでしょうか?」
「ええっと……」
さりゅは言葉に詰まる。ここでいきなり歴史の授業が始まるとは思わなかった。しかも質問の内容は、教科書に載っていないこと。
さりゅは観念して首を振る。
「わたし、歴史の授業って苦手で……」
大丈夫ですよ、と言うようにリリーはにっこりと微笑む。
「国によって様々な意見はありますが、中立的な立場にあった第三国が仲裁に入り平和的処理を行った、というのが大抵の国が認識している夢幻戦争の終結です。しかし、その第三国は武力を備えた大国ではありませんでした。まだ世界連合が設立していなかった時代の話です。さて第三国はどのように平和的解決を行使できたのか――?」
先ほどまで手にしていたノートは煙のように消えている。
さりゅはそのことに気づかない。
「――これも様々な見解があり、主張があり、仮初めの英雄が打ち出され、幾度となく論争が繰り広げられてきましたが、有力な仮説は未だに出ておりません」
「つまり……夢幻戦争が解決した原因は分からずじまいってこと?」
「そうです。謎に包まれているのか闇に葬られたのか分かりませんが、どんな手段を使って平和的解決がもたらされたのかは、誰にも分からないのです」
「なんだか、モヤモヤしますね。謎解きのないミステリー小説を読んでいるみたい」
「歴史とは、土地や民族意識を同じくする人々によって解釈された共通認識のまとまりに過ぎない……ワタシはそう思いマス。だからこそ、様々な国の視点から、世界の歴史を研究するのはとても刺激的で面白いのデスネ」
リリーはウフフと笑った。その笑みはつやつやと輝き、彼女を取り巻くオーラも、煌びやかで輝かしい。セレブ女優・リリーの姿に戻っている。
「ワタシの元カレの何人かは歴史学者デシタ。実は今のお話は、全部、彼らからの受け売りなのデス」
リリーさん、一体何人の歴史学者と付き合ったことがあるのかしら……。
歴史の謎よりも彼女の恋愛遍歴の謎の方が深いように感じたが、もちろん尋ねることのできないさりゅである。
「ワタシがここに来たこと、ネムルには内緒デスヨ!」
そう言うと、リリーは自ら先頭に立ち、リビングへと降り立った。ふかふかのソファに腰かけると長い脚を組む。
さりゅは業務用の冷蔵庫から、アイスティーと、アイスクリームを出してあげた。これは以前、手土産に持ってきたものだ。アイスティーはさりゅの手作りで、濃く煮出した紅茶に、りんごで香りをつけたもの。
もちろん、そのりんごは狩屋草介から送られてきたものの一部である。
「サユリのアイスティー、とても美味しいデス。写真をSNSにアップしても宜しいデスカ?」
「はい。大丈夫です」
「300万イイネ! がつきまシタ」
「早っ……!」
「パーティーがしたいから、
「で、できません……」
そんなやりとりをしながら、ネムルとユークの帰りを待つ。二人のうちのどちらかに電話をかけてみようかとも思い立ったが、絶対防壁に囲われた海砦からは、衛星電話以外の通信機器は繋がらない。それにさりゅの携帯電話は、家に置きっぱなしだ。
このまま、ネムルちゃんたちが帰ってこなかったらどうしよう……。
そんなことを考えていると、隣のリリーが尋ねてきた。
「サユリは、ワタシと遊んでいて、楽しかったデスカ?」
さりゅは何度も首を振る。
「すっごく、すっごく、楽しかったです! わたしが知らない世界をたくさん教えて下さって、ちょっぴり、大人になれた気がします」
「ワタシも、アナタとお友達になれて、嬉しカッタ」
リリーは愛情を込めたハグで、さりゅをぎゅっと包み込んだ。さりゅは緊張で身を固くしていたが、やがて自分からもリリーの背に手を当ててハグに応じた。
「けれども……」
さりゅの耳元でリリーはつぶやく。それは、さりゅに向けられた言葉ではなく、彼女が自然とつぶやいた独り言にも聞き取れる、内に
「けれども、ここではないどこか……もっと別の場所でお友達になっていたら、ワタシたちは仲良くなれただろうと思うのデス」
「リリー……さん?」
さりゅから離れてリリーは微笑む。
いつもと違うのは、透き通った海のような青い瞳が、暗く
押し隠した悲しみを、笑顔で包んでリリーは言った。
「これは心の底から、本当に思っていることデス」
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