第8話 「ニコの腕時計」
「百八十九…、百九十…、百九十一…、」
この日は休日。ニコは日課の懸垂などのトレーニングをしていた。
身障者は常人よりも筋肉が少なく、鍛える機会がないと、すぐ体調に異変が起きるため、こうしたトレーニングは欠かせない。両足を失い、ジョギングもできないニコともなれば、なおさらだ。
今日は懸垂は二百まで。そう思っていた汗だくのニコだが、ハプニングが起きた。
ブチッ!
音がした左手首を見てみると、つけていた腕時計の皮ベルトが切れて、これから落下していくところだった。
カシャーン!
ベルトが切れただけでは収まらず、風防まで割れてしまった。
「やっちゃったよ…。」
残念そうにニコは鉄棒に宙ぶらりんになった。
「その腕時計、いつ買った?」
エクスカリバーを走らせながら、トムは言った。
「軍の支給品。従軍時代の思い出として、使っていたんだ。」
トムは呆れた口調で、
「よくベルトが切れるまで使ったものだ。」
ニコはブリキ缶の中に入った腕時計の残骸を見て、
「新しいのを買うよ。お金も持ってきたし。」
とはいえ、そんな高いものは買えない。ラジオタレントとして、成功しているとはいえ、腕時計の世界は高級品で、気楽に買えるものばかりではない。札束を一つ出さないと買えないものも珍しくないのだ。
「安くて丈夫なもの。これが一番だね。」
「労働者泣かせだなあ。高いものを買わないと勤め人の賃金は上がらない。」
「こっちにだって、財布の事情がある。」
「やれやれ。」
また呆れたようにトムが言った。
ニコ達がやってきたのはクラウスの雑貨店だった。さすがに今回は車いすが必要と考えたトムにより、ニコは義足が外され、トムに車いすを押してもらいながら、店内に入った。
「おー。久しぶり。今日はどうした?」
相変わらず、店主のクラウスは気さくな口調で二人に声をかけた。
「実は腕時計が壊れちゃって…。新しいのを買いに来たんだ。」
「腕時計コーナーか!それならこっちだ。」
クラウスが案内した棚には、世界中の腕時計が置かれていた。
「好きなだけ見てくれ!何かあったら呼んでくれよ。」
上機嫌でレジに戻るクラウスに対し、ニコとトムはげんなりしていた。なぜなら、どの腕時計も高くて手が出せないからだ。
「カリギュラ、二千五百クレジット…、ナデーシア、一万九百二十クレジット…。こんなの買えないよ…。」
「軍の支給がありがたいね。ん…。こっちはかなり安いぞ。」
それらは今まで見たこともない腕時計だった。針で時刻を示すタイプではなく、液晶に時刻が直接表示されるものだった。黒いポリウレタンで外側が覆われ、PROTECTIONの文字が白い文字で刻印されている。いかにも頑丈そうな腕時計だ。価格も百五十クレジットと安く、これならニコ達でも手に入れられる。
「クラウス。ちょっと説明してほしいものがあるんだが。」
「はーい。何だ?」
嬉しそうにやってきたクラウスはニコとトムが見ている黒い腕時計を見て、
「ああ、それは極東の島国の新興メーカーのものだよ。」
「極東の?」
極東の島国といえば、カワグチの故郷だ。最近、経済発展が著しく、合衆国も手ごわいライバルとして見ているという。
「この腕時計はね…。何をしても壊れないんだ。」
「壊れない?」
トムが素っ頓狂な声を上げた。
「それはおかしい。腕時計というものは壊れやすいものだよ。」
甘い甘い、と言うクラウスは、
「この腕時計は衝撃緩衝の機構があって、十メートルの高さからコンクリートの地面に落とそうが壊れないんだ。防水機能も安心の二十気圧。これはデジタル腕時計と言って、タイマー、ストップウォッチ、アラーム機能も備えている。」
「何でそんなに機能が満載なんだ?」
ニコも質問する。
「これは一種のコンピューターでね。機能を満載させることができるんだ。おまけに、電池式で十年は持つ。」
「うーん。胡散臭そうだが、買えそうなのはこれしかないな…。いいだろう。試してみよう。これをくれ。」
「毎度ありがとうございます。」
「ちょっと待って!」
トムが慌てた口調でクラウスを制止する。
「私も欲しい。もう一つくれないか。」
「もちろんいいとも。」
いぶかしげにニコはトムに聞く。
「どうしてほしいんだ?」
トムは笑って、
「説明を聞くうちに私も欲しくなった。それにもしも君のが壊れたら、私のをあげるよ。」
「そんな…。」
「いいから。このぐらいなら出せる。」
「お二方、そろそろどの種類を買うか、決めていただけますかな。」
再び棚に目をやってみると、様々な種類のものがあった。四角型だったり、丸型だったり、八角形のものもあった。
「クラウス。どれがおすすめだい?」
「それならこの四角形のスクエアバージョンが一番!どんな腕にもフィットするし、初めてこの腕時計を買う人には、おすすめだよ。」
「よし。これを二つくれ!」
「毎度あり!」
八百屋さんみたいになって来たな、そう思ったトムだが、無論口には出さなかった。
「帰る前に何か食べていこう。」
そう言ったトムはエクスカリバーをクラウスの店の駐車場に止めたまま、近くの公園のハンバーガーショップにニコを連れて行った。
ニコの膝の上にはさっき買ったばかりの腕時計が入った紙袋が乗っている。
「果たしてこれがいい買い物になるのか…。」
「それは使い方と説明通りの性能ならばの話。今はハンバーガーを楽しもう。」
ショップは混んでいた。お昼時ということもあるが、非常に人が多い。近くの野外テーブルに車いすに乗ったニコを連れて行ったトムは、
「注文を取ってくる。何がいい?」
「ダブルチーズバーガーを。ポテトとコーラも頼むよ。」
どれも高いメニューではないが、チーズバーガーとコーラの組み合わせに勝るものはない。トムは心得たとばかりにショップの売り場へ駆けて行った。
はあ、とため息を漏らしたニコは、
「一休みするか。」
と、腕時計の入った紙袋をテーブルの上に置いた。
それが間違いの元だった。
突然背後から現れた男が紙袋を持ち去ってしまった。
「泥棒だ!」
周囲から声が上がり、正面のハンバーガーを買うために並んでいた人たちが一斉に男を見ると、全員が襲い掛かった。怒号がこだまし、コーラがひっくり返って、地面にぶちまけられる。
男は一分もたたぬうちに取り押さえられてしまった。
「身障者の荷物を奪おうなんて、とんでもない奴だ!」
男を押さえつけている人の一人が言った。
「お願いだ!見逃してくれ!」
ニコから腕時計を盗んだ男はそう言ってもがく。
「じたばたするな!この盗人め!でかい口叩ける立場か!」
ニコは唖然としていた。トムがすぐやってきて、
「大丈夫?」と早口で言った。
「大丈夫だ。それよりもあの盗みを働いた人を連れてきてくれ。」
「はい?」
「どうやら理由がありそうだ。話がしたい。」
「やれやれ。わかったよ。」
トムは怒れる群衆の元へ向かっていった。
ニコの腕時計の入った紙袋を盗んだ男は、群衆に引っ立てられながら、ニコのテーブルに座らせられた。最初、トムがすぐに警察に通報せず、話がしたいというニコの意見を伝えたとき、全員が呆れた顔をした。
だが、トムが「警察に突き出すかを決めるのは、盗難にあった本人だ」と言い、カードを握っているのはニコだとして、何とか落ち着いた。
それでも、男を取り囲む人々の目は敵意に満ちていた。
ニコが対面に座る男に言った。
「なぜ、こんなことをした?」
男は所々、綻びの目立つ垢でまみれたパーカーを着ていた。ズボンも何年も前からはいているとしか言いようのない、傷だらけのジーンズだった。
「お腹が空いていたんです…。」
男は話し出した。
長年、ごみ収集で日々の生活費を稼いでいたのだが、ある日、仕事を市から委託された会社に奪われてしまい、失職してしまったこと。そのせいでもう三日も何も食べていないこと。仕事を探そうにも、この街は移民が増えてしまって、スキルのない人間が就ける職業がなくなってしまったこと。仕方なく高価なものを盗んででも、腹の足しにしたかったことなど、悲惨な話だった。
「そんなお涙頂戴の話を信じると思っているのか?ニコさんだったな。こいつは警察に突き出す!」
「待ってくれ。彼の顔を見ろ。」
男の顔は頬がこけ、目元には深いくまができている。何日も食べていない人間の表情だった。
ニコが懐から財布を取り出す。そして男の方に押しやった。
「この財布は君にあげよう。」
トムも含む全員が驚いた。
男も驚いていた。
「その代わり、誓ってくれ。」
ニコが続ける。
「こんなことをしたら、人生を棒に振る。いくら金があっても取り返せないものを失う。今回の件は不問に付すから、よく考えてみてくれ。」
男はしばらく衝撃を受けていたようだが、
「もう二度とこんなことはしません…。ありがとうございます…。」
と言って、トムが持っていたハンバーガーとポテト、コーラを渡して群衆に彼を放すよう伝えると、男は去っていった。
「甘いなあ。」
群衆の一人が言った。
「飢えに苦しんでいるのなら、なおさら刑務所送りにした方がいいはずだ。それなのに情けをかけるなんて。」
「言いたければ、好きにしてくれ。」
ニコはそう言い、食事に戻っていった。
数日後、ニコ達のラジオ局に手紙が届いた。
あの男性からの手紙だった。
「先日はありがとうございました。バカなことをしたという思いはあります。それでもあんな風に情けをかけていただいて、頑張ってみようという気が湧いてきました。」
手紙には就職先が見つかったことも書かれていた。
「何とか清掃員としての仕事が見つかりました。ニコさんが言った通り、自分の人生を台無しにすることはしてはいけないと思い、毎日頑張っています。」
この手紙はニコとトムの番組でも紹介され、反響が起こった。
失職者への支援を拡充すべきとか、フードバンクの利用の推進を周知するなど、様々な意見が出された。
結果的に、市の貧困対策の強化の一因となることになった。
「よかったじゃないか。結果的に誰も傷つかずに済んだ。」
トムが言う。
「今回はよかったかもしれないけど、普通なら警察沙汰だ。それはわかってほしいな。」
「人を見る目はあるつもりだよ。あの人は本当に苦しんでいたから、ああしたまでだ。」
「やれやれ。」
トムは少し呆れた様子だった。
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