第6話 「その時、女性は微笑んだ」

 その年の夏の暑さは身に堪えた。冬は極寒のリバティ島も、夏の暑さからは逃れられない。こんな日に限って、街頭取材がある。今回の街の取材内容は「なんでもいいから面白いこと」だ。

「うんざりするな。この暑さは。」

 エクスカリバーから降りたニコは早速、音を上げた。

「ニコ。わかっていると思うけど…。」

「体調が悪くなったら、すぐ言えっていうんだろ。ガキじゃあるまいし、わかっているよ。」

 両足がない分、ニコの体内の血液量は少ない。下手に体力を使わせると倒れてしまうこともある。それではいけない、と思っているのか、ニコは普段からトレーニングを欠かさない。懸垂を一日、二百回することもあるのだ。

「さて、どこへ行く?」

「とりあえず、街を一周して…。お?」

 トムが通りの向こうを見た。ニコもつられてトムの視線を追う。

 通りのV字路でストリート・ライブが行われようとしていた。人も結構集まっており、評判はいいようだ。

 演奏しようとしているのは、黒いズボンに同色のジャケット、山高帽をかぶった背の高い人間だった。体の線がやたらと細く、華奢な印象もある。楽器ケースから取り出したのはキラキラと輝くサックスだった。どうやらジャズミュージシャンのようだ。

「行ってみるか。」

 試しに聴いてみることにした。ニコとトムは人々の集まりに加わった。

 正面からストリート・ミュージシャンの顔を見ると、驚くほど肌が白く、幼い印象を受けた。帽子の縁から見える髪は黒く、東洋系の顔だちをしている。ずいぶんと女性的な見た目だ。男性アイドルと言っても通用しそうな雰囲気だ。

 早速演奏が始まった。軽やかなタンゴの曲が流れ始め、周囲の聴衆は瞳を輝かせて見守っている。

 腕はいい、それはラジオ局で時々招かれたミュージシャンの演奏を聴くニコにはわかった。荒削りだが、妙に人を引き付ける感情がある。このまま聴いていたい、そう思わせる魅力があった。

 一曲目が終わると、盛大な拍手が鳴り響いた。ミュージシャンは少し笑顔を浮かべて、軽くお辞儀をすると、二曲目を吹き始めた。讃美歌の一種だ。

 その後、楽しげなマーチやニコ達にもわからない種類の、何やら楽しげな曲を演奏し、すべての演奏が終わった。額から汗を流し、深々とお辞儀をして、ミュージシャンは聴衆に最後まで聴いてくれたお礼をした。聴いていた人たちは拍手喝采だった。どこからかブラボーという声も聞こえる。その後は投げ銭の時間だった。

 楽器ケースにこれでもかと小銭や紙幣が放り込まれていく。高額紙幣も珍しくなかった。

 ミュージシャンは謙虚に軽くお辞儀をしながら、それに感謝していく。

「決まりだな。」

「だね。」

 いい取材対象を見つけた。これほどの腕前の持ち主がこれまで見つからなかったのは、まだこの街に来て日が浅いためだろう。

「失礼。」

 ニコが杖をつきながら、ミュージシャンに声をかけた。

「先ほどの演奏は本当に感動した。これはお礼だ。とっておいてくれ。」

 そう言い、高額紙幣十枚を渡した。

 ミュージシャンは困惑した様子だったが、一瞬躊躇した後、報酬を受け取った。

「ぜひとも名前を教えていただけませんか。私たちはこういうものなんですが。」

 トムがラジオ局の名刺を渡そうとすると、急にその人物は表情を硬くし、名刺を弾いて、楽器ケースを持って、黙って立ち去ってしまった。

 ニコもトムも困惑を隠せなかった。

「どうしたんだ?一体?」

「ラジオ局にいい印象を持っていないのかな?それとも何か別の理由があるのか…。」

 二人ともわけが分からなかった。




 あのミュージシャンの素性は意外なところでわかった。一人の老ジャズミュージシャンのインタビューを後日することになったのだが、その老人はそのミュージシャンを知っていた。顔に深いしわが刻まれ、演奏家というより労働者という印象の武骨な手をしたその男性は、私たちが街頭での演奏の話になると、ああ、あのカワグチか、と言い出した。

「知っているのですか?」

「我々の間ではちょっとした有名人だ。」

「私たちが名刺を渡そうとしたら逃げられてしまって。」

「そりゃ当たり前だ。あいつは我々が認めていない、アマチュアのミュージシャンだ。」

「認めないって…。前に面接か何かをしたのですか?」

「ああ、したとも。私は演奏以前にジャズに適していないとして、叩き落した。」

「そんな…。あれほどの腕の人物をなぜ落としたのです?」

「なぜなら、あいつが女だからだ。」

「へ?」

「はい?」

「女だから落とした。それだけだ。」

「女性だったのですか…。なるほど。通りで華奢な体つきだったわけだ。」

「それ以前の問題ですよ。なぜそんな理由で彼女を落としたのです?」

 珍しくトムが怒った様子で男性に詰め寄る。

 老人は冷静に、

「ジャズの世界では、女のミュージシャンは認められていない。サックスを吹くのは男の仕事だ。」

「それは差別でしょう!」

 完全にトムが怒りだした。こうなるとニコでも手がつけられない。

「差別か。それは若いの、あんたたち、よその世界の考え方だ。」

 老人は今までもそんな意見があったという態度で、

「まさかお前さん、絶対平等主義者ってわけじゃなかろうな?」

「それは…。」

「たまにいるんだよ。あんたみたいに綺麗事をぬかす若輩者がな。わしじゃなくても他のミュージシャンは同じ理由で彼女を落とす。それが我々の長い歴史の中での答えだ。」

「トム、落ち着け。」

「でも…。」

「認めない理由はわかりました。最後に一つお願いがあります。」

「何だね。」

「彼女に舞台で演奏するチャンスをくれませんか?」

 ニコの言葉を聞いた老人は冷たく、

「却下だ。」

 そう言い、席を立った。




「信じられない!」

 インタビューが終わるや否や、トムがそう叫んだ。

「男女平等っていうのは、この国の基本原則だ。いつからこの国は独裁国家になったんだ。」

「そう怒るなよ。その言葉はほどんど通用しないってことぐらい、わかっているだろう?ナンシーの例でもう思い知っているじゃないか。」

 ナンシーの時とは対照的に、今回のニコは落ち着いていた。

「このまま放置しておいていい問題ではないことぐらい、私にもわかる。もう一度カワグチに会いに行こう。」

「彼女のプライドはズタボロだよ。私たちの言葉に耳を貸すとは思えないけど。」

「行ってみなくちゃ分からない。」




 次の日はあいにくの雨だった。だが、ダニーの協力でカワグチの住まいを突き止め、エクスカリバーを走らせた。到着したのは、フリーダム・タワー・ブリッジを渡った先の移民が多く住む地域のアパートメントだった。こじんまりとしているが、アリヤ系の人々が多く住むことから、治安のいいことでも有名なホワイトチーズ・ストリートという場所だった。

 さっそくエクスカリバーを降りた二人はカワグチの住むアパートメントに向かうことにした。

 古い四階建てのアパートだった。いくら投げ銭があれだけ手に入る身分でも、住まいとなれば、これが限界なのだろう。

 エレベーターなんてご大層な設備はない。急な階段をニコはトムにおぶってもらい、カワグチの住む四階に上がっていった。

 部屋はすぐ見つかった。ドアにS・KAWAGUCHIの表札があったためだ。魚眼レンズの類はない。好都合だ。いきなり本題に入るには最適と言える。

「トム、君が応対しろ。」

「私が?」

「私だと、すぐドアを閉められる。強面で不細工だし。」

 やれやれという表情で、トムがドアの呼び鈴を押した。ピンポーンという音とともにしばらくするとドアが開いた。

「何です。大家さん。滞納している家賃なら、もう払ったはず…。」

 呼び鈴を押した相手を見て、家主のカワグチは硬直した。すっかり休日気分だったのだろう。ジーンズにぶかぶかのTシャツ、山高帽で隠れていた長い黒髪が露になっていた。

 こうして見ると、美人だと感じる。生まれた国でもそれなりにモテたに違いない。

 そう思っていると、すぐにドアが閉まってしまった。

「待ってくれ。カワグチさん。急に訪問した非礼は詫びる。だが、君のためなんだ。」

 トムが慌てて言う。

 だが、部屋から帰ってきた返事は、

「なんであんたたちがここに来るのよ!」

 予想通りの拒絶だった。

「いや、誰が誰を訪ねようとそれは自由だろう。」

 ニコが言う。だが、部屋から聞こえてきた声は、

「あなたたちに用はない!もう帰って!」

 ひどい嫌われようだ。よほど才能を否定されたに違いない。

「カワグチさん。ここに来る前に上司からあなたのことを教えられた。借金があるんだろう?」

 部屋の中の声が一瞬、静かになった。

「この国に来るのに相当な金を使っている。夢を掴むため。だが、高額とはいえ、投げ銭だけで食べていけるほど、この街は甘くない。安定した職業に就いていないあなたが成功するには、私たちのような人間の助力が必要だ。」

 また、部屋の中から声が聞こえてきた。

「帰って!借金なんか怖いものか!」

 ニコは冷静に、

「金は頭さえ使えばいくらでも手に入る。今の君は、時代遅れな権力だけ握った連中からすべてを否定されて諦めている状態だ。もう一度、私たちのような人間を信じてくれないか。とりあえず今日はこれで帰る。気が向いたらこの名刺の住所のラジオ局にいつでも来てくれ。」

 そう言い、ニコはラジオ局の名刺を今度こそ渡すべく、ドアのポストに入れた。

「気が向いたらでいい。そしたら来てくれ。じゃあ。」

 トムに帰ろうと促し、二人とも階段へ向かった。部屋の中から音はしなかった。

「本当に来るのかな?」

「あとは祈るしかない。」

 そう言ったニコはトムに再びおぶわれて、階段を下りて行った。




 それから長い二日間が始まった。二日の間、カワグチから連絡はなく、私たちは悶々と待つしかなかった。

「ニコラス。本当に来るのか?」

 ついに上司のダニーまで懸念する事態となった。

「来ますよ。これで来ない方がおかしい。考えを変えるには、これぐらい時間が必要です。」

 都合のいい話だ、とダニーは吐き捨てて、ニコとトムのデスクから去っていった。

 トムにこっそりこんな話もニコはしていた。

「実のところ、自信はない。カワグチを信じるしか方法はない。」

 トムは、もはやどう答えていいのか、わからない様子だった。




 待ちに待った返答は、カワグチが直接ラジオ局を訪れたことで実現した。

 天気予報では、大型のハリケーンが近づいているという日だった。

 受付に現れたカワグチは、例のごとく、黒いズボンにジャケット、山高帽で長い髪を隠してニコ達の前に登場した。

 案内された応接室で、驚愕を隠せないダニーを前に、

「しばらく悩んだ末、このラジオ局での仕事をお受けしようと思います。」

と、流暢なベーシックで伝えたのだった。

 ダニーは一回咳払いして、

「うちでは徹底した実力主義だ。それに答えられる人間でなければ雇う気はない。」

 カワグチは落ち着いて、

「わかっています。」と答えた。

 同席していたニコが、

「腕は保証する。投げ銭があれだけもらえるミュージシャンはなかなかいない。一回放送すれば、わかると思う。」

 ふん、とダニーは鼻を鳴らし、

「はっきり言うが、期待していない。余計な感情を持つと返って耳が狂う。言い切ったからには成功させろよ。」

 カワグチはようやく微笑を浮かべ、

「頑張ります。」

と、答えたのだった。




 だが、本当に人の人生とはよくわからない。「明日のことなど、誰にも予想できない」とはよく言ったものだ。次の日、カワグチの演奏を放送する頃になって、例のハリケーンがついにリバティ島を襲った。交通網は大混乱になり、街の街路樹が折れ、ガラスが割れるという被害が多発した。とてもじゃないが演奏など放送している余裕はなく、ラジオ局は終日、災害放送をすることになった。

 それだけではない。

 ニコ達のラジオ局は比較的、広いフロアを持っていたため、臨時の災害避難所となることになった。足に障がいのあるニコは役に立たず、トムは忙しく避難者のケアに当たっていた。カワグチはサックスを首からぶら下げて、どうすればいいのか、わからない様子だった。

 避難者のほとんどが暗い顔をしていた。

 このハリケーンが過ぎ去っても、自分たちは水害で財産を失う。生きながらえてもつらい現実だった。

 カワグチも痛ましそうにしていたが、一人の少年が近づいてきて、

「サックス、吹いてくれないの?」

と聞いてきた。

 カワグチは一瞬驚いたようだったが、

「吹いてあげるよ。」

と即答したのだった。




 結局、ニコとダニーが話し合った結果、フロアに仮設の演奏台を作り、カワグチが逃げてきた人のために演奏することとなった。テーブルを利用した簡素な演奏台の上で、カワグチはお辞儀をし、演奏が始まった。

 曲を聞いた瞬間、どんな曲か、ニコにはすぐわかった。

 『夜のごとく静かに』だ。この曲は疲れた兵士たちからも好評だったため、ニコはよく知っていた。

 静かなノクターンが響き渡り、疲れ切っていた人々が落ち着いた表情を取り戻していくのが分かった。本来この曲は、静かすぎて、サックスのような陽気な音楽を吹き鳴らす楽器には向かないはずだった。だが、カワグチは見事に演奏して見せた。それだけでも、彼女がすばらしいミュージシャンだということが分かった。

 人は音楽で救われる。そういう表現が似合う演奏だった。

 曲が終わると、拍手喝采だった。

 カワグチは満面の笑みで勢いよくお辞儀した。

 おそらく山高帽のことを失念していたのだろう。その瞬間、帽子が落ちて、彼女の長い黒髪が露になった。

 しまった、という顔をして頭に手をやったカワグチだが、拍手は収まらない。みんな性別など気にせず、才能を評価したのだ。



「おはようございます!」

 あのハリケーンの日からしばらく経ったころ、カワグチが勢いよく出社してきた。

 ハリケーンの日の演奏が口コミで広がり、カワグチは女性初のジャズミュージシャンとなっていた。なし崩しにニコ達のラジオ局お抱えのミュージシャンとなり、ニコ達の同僚となったのだ。

「新居の具合はどう?」

手に「女性ジャズミュージシャン誕生」の新聞記事を持ったニコが、カワグチに声をかけた。

「最高!久しぶりに寿司も食べられた!」

 カワグチは今や成功者だった。彼女の演奏は好評で、ウーマンリブのシンボルとしても起用したいという企業も現れる状態だった。

 成功を収めてからは、カワグチは例の山高帽をかぶらず、長い黒髪をなびかせていた。自由に生きているという雰囲気が感じられる。この数日間の間にカワグチの内面は大きく変化していた。

「忙しいが、今日も演奏だ。今度は全国放送だ。」

 トムが笑顔で言う。

「今だから言えるけど、私を見つけてくれてありがとう。本当に感謝してる。」

 トムが顔を赤らめながら、

「お礼はニコに。僕じゃできないよ。」

「私は大したことはしていないよ。」

 ニコが笑顔でそう言う。

「幸せなんてものはな、手に入れようとすれば、すぐ手に入るんだ。」


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