第5話 「最期のレシピ」

 私の名はトム。一介の介護士だ。色々とわけあって両足を失いながら、ラジオタレントになった男の介護をしているが、それは別の機会に話そう。様々な事情から助手として私もラジオに出演することになった。今日は取材だ。張り切っていかないと。




 今回のラジオ番組のテーマは「グルメ」である。一流で堅物のオーナーシェフが切り盛りするレストランに、一か月の交渉の末、取材の許可を得たのだ。今日は相棒のニコとともに一日レストランの密着取材を行う予定。

「よく許可が下りたな。」

 エクスカリバーの助手席に収まったニコが呟く。

「かなり苦労したらしいよ。結局君の障がいがモノを言った。『そんな人物が来るなら仕方ない』ってね。」

 上司のダニーはニコをダシに使ったわけだが、特にニコは気を悪くせず、

「まあいい。今回がメディアの取材が初めて入る場所なんだろ?新しい発見があるかもしれない。ひょっとしたら誰かの人生を変えるかも。」

「ニコのそういう予感は当たるからね。」

 私はエクスカリバーを丁寧に走らせ、目的地のレストランに向かった。




 レストランに着いたのは十一時頃だった。普通のレストランでも仕込みで忙しい時間帯だ。たどり着いて自分たちがひどく場違いだということを認識する羽目になった。

 シェフたちは忙しく、ろくに話し相手になってくれない。ウェイターは私語を禁じられているのか、私たちと全く話そうとしなかった。仕方なくオーナーにインタビューをしようとしたが、私たちが無礼な連中だと思っているのか、初めから愛想がなかった。

「勘違いするなよ。俺はお前たちのような輩が嫌いなんだ。俺たちは自分の腕に誇りを持っている。料理を作れもしねえお前らに論評されるのが癪だ。」

 ニコは言った。

「では、なぜ取材を受け入れたんですか。」

「お前らがしつこかったからだ。本来なら門前払いのところを、あんたの足の事情に免じて店の内装ぐらい紹介してやろうってだけだ。」

 なんとも無礼千万な物言いだが、気持ちはわかる。マスメディアの御し難さは誰もが知っている。自分たちの同僚や同業者には、取材対象の生殺与奪権を握っているのは自分だという傲慢さを隠さない者も多い。このオーナーが嫌うのはその手合いだ。

 私が間に入って、

「では、こういうのはどうでしょう。このレストランでまだシェフの卵というべき対象にインタビューを行うことは。それならこのレストランのシェフ達に迷惑はかからず、若者の成長物語としてプラスイメージしか生まれません。」

 オーナーはしばらく考え込んでいたようだが、

「いいだろう。ならうちで一番使えないやつを紹介してやる。」

 さすがのニコも乱暴な言動に我慢が超えたのか、

「自分の教え子は全員自分の子供のようなものでしょう。それを使えないというのは、あまりにもその子に失礼だと思いますが。」

「なんとでも言え。」

 オーナーは軽蔑の念を隠さず、

「お前らだって嫌われ者だろうが。人の秘密を嗅ぎまわる犬に見下されたくねえ。」




 紹介されたのはなんと十代半ばの少女だった。厨房の片隅でその子はジャガイモの皮むきに精を出していた。かがんでいるので身長はわからないが、少しくすんだ金髪を後頭部で結っていた。まだ幼さが残るその子はオーナーが自分に声をかけたのが信じられない様子だった。慌てて立ち上がり、

「こんにちは。ナンシーといいます。」と丁寧に挨拶した。

 本人は上手に隠していたようだが、私は彼女の言葉にかすかな訛りがあることを聞き取った。おそらくこの国の人間ではない。もしくは隣国の移民だろう。

「やあ、こんにちは。私はトム。こっちは相棒のニコ。」

「こんにちは。」

 ニコは挨拶すると、

「今日は君の取材をしたいんだ。」

 するとナンシーと名乗った少女に驚きの表情が広がり、次の瞬間、ぽろぽろと涙を流し始めた。

 これには、さすがに私も驚いた。あわてて言葉を紡ぎだし、

「ええっ…。嫌だったらごめんよ。別に悪意があったわけじゃ…。」

「そんなことありません!私ほとんど人に評価されたことなくて…。嬉しくて嬉しくて…。」

「そうだったんですか。」

 もはや軽蔑を隠さないニコは、オーナーを睨みつけた。

 ふん、とニコの不満を黙殺したオーナーは、

「ひとつ言っておく。こいつは仕方なく拾ってやっただけだ。シェフとしての成功の見込みなんて一つもねえ。お前らの条件に合った奴がそいつだっただけだ。」

 ナンシーは悲しげな顔をしたが、オーナーはお構いなしに、

「インタビューは裏口でやれよ。ここでやったらほかの馬鹿どもの作業の邪魔だ。」と吐き捨てて、厨房を出て行った。




「失礼もここまでくると尊敬に値するな。まさか裏口でインタビューをしろなんて。」

 裏口のスペースで不満を吐き捨てるニコだったが、ナンシーが弁明する。

「オーナーのあの態度には訳があるんです。十年前の大戦で同僚を多く失ってから、人に厳しく当たるようになったんです。」

「あの大戦に従軍したんですか。」

私は驚いた。それではニコと同じ境遇ではないか。

「私も人伝いにしか聞いたことのないことですけど、ひどい戦いに巻き込まれたそうです。一緒に切磋琢磨したシェフ達も大勢亡くなって、以来あの調子なんです。」

「だからといって君のような将来がある人物を軽く見ていいわけにはならないだろう。よく我慢ができるな。」

「私…。この国にやってきた移民の子なんですけど…。亡くなった母がシェフだったこともあって、ちっちゃいころから料理の手伝いをしていて…。でも私が女だということもあってろくに料理も作らせてもらえないんです。」

「そいつはひどい。」

「でも、私にはここ以外に居場所はありません。給金も最低限もらえるので、食べていくことはできます。」

 私はこの少女がどうにもならない現実の中で生きていることに悲しみも覚えたが、自分たちにできることは限られている。最低限の礼儀は、この子の才能をインタビューを通してリスナーに伝えることだ。

「あきらめては駄目だぞ。」

 ニコが真剣な表情で強く言った。

「私の足のことは知っているだろう。」

 ナンシーはうなずいた。

「聞きました。あなたも従軍したんですよね。」

 ニコはうなずくと、

「私も足を失った時は全てをあきらめた。そんな私でもラジオタレントになれた。いつかやってくる。君も自分の才能を発揮できる時が。」

 ナンシーのインタビューを終えてから、数日が経ったが、ニコは不機嫌そうな様子だった。ナンシーの扱いに憤っているのだろう。この国は一応男女平等が法律で義務付けられているのだが、順守する企業はまずない。そういう風習が根強くあるのだ。ナンシーに将来の展望は期待できない。そう思っていたのだが、ある日、件のナンシーからラジオ局に電話が入った。

 大至急、ニコさんとトムさんに代わってほしいという連絡を受けた受付係のジェニファーは、相手が少女だということに面食らったらしい。ともかく電話を替わった私たちはナンシーの話を聞くことになった。

「助けてほしいんです!」

 私もニコも聞いた瞬間、首をひねった。




 話を聞くと、昨日ナンシーが勤めるレストランに検事と警察官がやってきたという。そしてある頼みごとをした。それは死刑囚への最期の料理の調理だった。

 去年の冬、利用客も多い中央駅の改札口で二丁の拳銃を乱射した男が捕まった。被害は甚大で二十五名が死傷する大惨事となった。

 裁判で下された判決は無論死刑。だが、この被告が控訴する可能性があった。弁護側は被告が恵まれない生い立ち故に、社会に対し怨念を抱いてしまったことが事件の原因だとして、刑の減刑を主張した。これだけ聞くとずいぶん身勝手な言い分に聞こえるが、即時量刑、即時執行などということは文明社会では野蛮とされる。これは正当な裁判だ。

 なんとしてでも被告を死刑にしたい検察も、被告がどんな主張をしてこようが言い伏せる準備をしていたのだが、なんと被告本人がある条件を呑んでくれれば、控訴はせず、死刑判決を受け入れると言ってきたのである。その条件とは、「自分が食べた料理の中で一番うまいものを食べさせてほしい」というものだった。

 死刑囚が最期に贅沢な料理を食べられる権利は暗黙の了解で認められてきた。検察は被告の刑を確定させるため、この条件を呑むことにし、料理を作ることにした。

 ところが、肝心の被告がこれ以上のことを語らず、どんな料理かわからない。とりあえず一流のシェフを探さねばとして、町中のレストランを当たったのだが、返答は「そんな殺人鬼のために料理は作らない」という人物ばかりだった。そしてとうとうナンシーのレストランに依頼が来たのだ。

 ここが最後の望みだという検事に対し、あの堅物オーナーは、

「俺たちの返答ももう想像つくよな?人殺しのために料理は作らねえ。」と冷たい態度だった。

 お願いだ。もうほかに当たる場所がない。報奨金ならきちんと払うという検事に対し、ついにオーナーの怒りが爆発した。

「シェフ以外の奴に頼めよ!」

 そこで名乗りを上げたのがナンシーだった。

「私が何とかします!」

 検事も警察官も、オーナーさえも耳を疑った。

「私はこのレストランの下働きをしている身です。オーナーの言った条件にも、検事さん達の言い分にも当てはまっています。私にやらせてください!」

 全員が頭を抱えるしかなかった。




 結局、全ての条件に合った人物がナンシーしかいないため、彼女が料理を作ることになった。だが情報がない。そこで町でも一番の情報収集ができるニコと私に協力の依頼が来たのだ。

「大口をたたいた私も私なんですが…。ともかく必要な情報を手に入れるために協力してほしいんです。」

「わかった。協力しよう。」

 ニコは即答だった。

「ちょっと待ってくれ、ナンシー。ニコと話がしたい。」

 スピーカーモードの電話を保留状態にすると、私はニコに言った。

「おいニコ。さすがに無茶が過ぎる。死刑囚の判決に関わるんだぞ。安請け合いしていい問題じゃない。」

 ニコは私の言葉に不快感を示したのか、

「じゃあどうする?このままナンシーを放っておけって?このままじゃナンシーは責任を問われる。最悪職を失うどころでは済まない。」

「確かにそうだが…。」

「私たちはナンシーの将来を守る義務がインタビューをした時点で発生している。何がなんでもナンシーのために尽くすべきだ。」

 結局私たちはナンシーに協力することになった。




 この季節特有の曇り空が自分たちを苦境に立たせているように感じる。エクスカリバーを運転しながら、私とニコとレストランで合流したナンシーの三人は警察の拘置所を目指していた。ナンシーの意見で当の被告に話を聞くためだ。話を聞こうとしても黙秘する被告に対し、面会しても大した意味はないのではないかと思ったが、ナンシーは「お客様の意見を聞くことは何より重要です」と言って引き下がらなかった。仕方なく私たち三人は被告に面会することにした。

「悪かったね。協力できる人間が私たち二人だけで。」

「いえ、お二人の協力があれば百人力です。」

 ずいぶん過大な評価をされたものだ、と私は思ったが、不安が募ってきたので仕方なく聞いた。

「一つ聞きたい。もし被告を満足させられるような料理を作れなかったらどうするつもりなんだ。」

「大丈夫です。独学ですが世界中の料理を作れるだけの知識を手に入れてあります。」

「ひょっとしてプロのシェフになるための足がかりにしようという気持ちがあるのか?」

 ニコの疑問にナンシーは少し弱弱しく、

「…その気持ちもないではありません。ただお客様のニーズに答えるのがシェフの本分だと信じているからでもあります。」

 うまく料理を作れなかったら、私たちも責任を問われる。まったくニコもナンシーも随分な安請け合いをしてくれたものだと私は内心ため息をついていた。




 拘置所に到着し、分厚い扉を警察官の先導の元、通り抜けた私たちは、入館カードを首にぶら下げ、件の被告に面会することになった。私は悪を絵にかいたようなチンピラを想像していたのだが、強化ガラス越しに座った人物はどこにでもいる普通の男という感じだった。

 髪は伸びているが粗野な感覚は感じられなかった。何より目が澄んでいる。ただ話し方は不良のそれだった。

「女のシェフなんて聞いたことがねぇ。」

「性別は料理には関係ありません。」

「あんたが俺に料理を作ってくれるってのか。」

「そうです。」

「ただ厄介払いで任されただけだろ。俺が一番うまいと思えた料理を本当に作れるのか。」

「あなたの今の言葉で大体食べたいものがわかりました。」

 この発言には私もニコも驚いた。無論、被告もだ。被告は何か言おうとしたようだが、

「…いいだろう。あんたに任せる。」




 拘置所を出て、エクスカリバーの車内に戻るとニコが真っ先に、

「本当にあの男が食べたいものがわかったのか。」と聞いた。

「いいえ。」

「いいえ?うそを言ったのか?」

 さすがにニコもあきれ果てた様子だったが、ナンシーは、

「輪郭がわかったというだけです。あの人が自分が一番うまいと思えた料理といいましたよね?」

「そうだな。そう言った。」

 私がナンシーに賛同する。

「つまりあの人にとって、一番の幸福な記憶と結びついている料理だということです。これからあの人の過去を探りましょう。」

「警察署に行くのか?当てずっぽうな推理に思えるが。」

「ともかくそれしかありません。何が何でもあの人の要望に答えねば。」




 警察署を訪れた私たちは、中年の刑事から被告の男の過去の経歴を見せてもらえた。読めば読むほど陰鬱になる過去だった。

 サウスと呼ばれる貧困街で生まれて、まともに学校にも通えなかった。十代半ばにはグレはじめ、万引きや恐喝は当たり前。時には人の顔面にフルスイングでハサミを投げつけたこともあるという。大人になってからも十分な教育を受けていないために仕事に就けず、麻薬の売人で生計を立てていたという。

「よく麻薬中毒にならなかったな。」

 どうやら麻薬は売っても自分に試すことはしなかったらしい。どう考えてもまともな感動など味わったことのないように見える人生だが、ナンシーは男が十歳まで孤児院で生活していたことに注目した。

「考えられるものはこれしかありません。この孤児院に行ってみましょう。」

「そこであの男が幸福を味わったと?酷な物言いだがとてもそんな風には思えないが…。」

「多くの人と、それも同年代の人と生活したことは間違いなく本人の幸福につながるはずです。行きましょう。」

 ナンシーの推理もここまでくると占いの一種ではないかと思えてきた。




 孤児院にたどり着いた私たちは意外にも大歓迎を受けてしまった。建物も外のグラウンドで遊ぶ子供たちが駆け寄り、「どこから来たの?」「誰に会いに来たの?」と質問の嵐だった。

 意外に思ったのは暗い面持ちの子が一人もいないことだ。私は偏見かもしれないが孤児院にマイナスのイメージしか持っていなかったため、これは予想外だった。子供たちは私たちがニコとトムだと知るとラジオの番組の効果もあってか、ますます歓声を上げていく。

「ほらほら、みんな。その方たちの邪魔をしてはいけないよ。」

 建物のほうからそんな声が聞こえてきた。肌は黒く、二メートルはあろうかという立派な体躯の人だった。年齢は五十代半ばといったところか。だが老いを一切感じさせない鍛えられた体をしていた。子供たちはその人の声を聞くとみんな自分の遊びに戻っていった。

「申し訳ない。みんな人懐っこくて初対面の人にすぐなつく。」

「それは構いません。明るいのはいいことです。」

「たぶんあなた方はラルセンのことを知りたいのでしょう。そのために来たとしか思えません。」

「ご存じだったんですか。」

 ラルセンというのが例の被告の名前だった。

「ここではなんですから、応接室で話しましょう。」




 応接室は清潔で話しやすい環境だった。決して高価ではないが、手入れが行き届いた応接セットがあり、花瓶には花が飾られている。お茶が私たち三人に運ばれてきたところで私たちにラルセンの話を振ってきた人物、この孤児院の院長が話し始めた。

「彼があのような事件を引き起こしたことは、私にも責任があります。まともな道を歩ませてやれなかった…。」

 ナンシーが言う。

「そんなことはありませんよ。責任は個人が取るべきものであって、あなたには何も責任はありません。」

「優しいことを言ってくれるね。それでも私は自分が許せない。」

「なら私たちに協力してください。あなたのためにも。ラルセンさんのためにも。」

 ナンシーは自分たちがラルセンのための最期の料理を作ろうとしていることを話した。そのための情報集めとして、様々な場所を回っていることも。

 話を聞き終えた院長は、

「確かに彼が幸せを感じられた場所はここしかないでしょう。ただ彼はこの孤児院でも有数の悪ガキでもありました。」

 院長は話した。ラルセンは六歳の時に育児放棄した両親に預けられ、それ以来、十歳までこの孤児院で生活してきたこと。孤児院では典型的なガキ大将で彼に泣かされた子はかなりいること。そして見るに見かねた当時の院長、まだ一職員だった頃に、彼をなだめるためおいしい料理を食べさせてあげようとしたこと。

「彼に食べたことがないものを食べさせようとマイブームだったリトル・イーストの料理店に彼を連れて行ったんです。」

 リトル・イーストは極東の島国の住人が多く住む小さな繁華街だ。現在では珍しい東洋の料理が食べられるとして、グルメ街として有名になっている。

「彼が人生で一番おいしいと感じられたものがあるとしたら、あれしかないでしょうね。」

 ようやく見つかった。これで外れたらもう後はないと私は感じた。




 調理当日、拘置所の食堂はナンシーの貸し切り状態だった。

検察側はナンシーに全面的な協力をしてくれたが、どんな料理が出るのかはナンシーが秘密にしていたため、よくわからないようだった。立会人兼警護の警察官たちの不安の色は濃い。「あんなガキのシェフ見習いにできるのかよ?」「口先だけか?失敗したらタダじゃ済まないんだぞ。」という怨嗟の声が空間を通して伝わってくる。同じく立会人のニコとトムは居心地が悪くて仕方なかった。

 すべてはナンシーに懸かっている。自分たちも情報収集に協力したが果たしてどこまで通用するか。白い調理服に着替えたナンシーは緊張した面持ちでラルセンの到着を待ちわびていた。

 すると複数の警察官と検事に左右を固められて、ラルセンが食堂にやって来た。ラルセンは食堂に入ってきたときは不機嫌そうな面持ちだったが、厨房のほうを見て驚きの表情に変わった。ナンシーもその表情を見て緊張が溶けたようだった。厨房にはこの日のためにリトル・イーストから取り寄せたネタケースと魚介類が並んでいたからだ。

 私たちがたどり着いた答えはにぎり寿司だった。極東の島国の食べ物で鮮度が命のため、生鮮食品を多く扱えるリトル・イーストでなければ、この国では食べられない。孤児院の院長はかつてラルセンをあの街の料理店に連れていき、食べさせたところ、それ以来、一年は暴力沙汰を起こさなかったそうだ。

「約束通り、あなたのご所望の料理を用意しました。」

 ナンシーは笑顔で告げ、ラルセンは信じられないという面持ちで席に着いた。震える声でラルセンは尋ねた。

「トロ、頼めるか。」

「もちろんです!」

 ナンシーの料理が始まった。




 それからの一時間半は不思議な時間だった。

 凶悪な犯罪者が次々と子供に戻ったようにネタを注文していく。ナンシーはそれが当たり前のように慣れた手つきでシャリを握り、完成した握りが差し出されていく。警察官や検事たちはラルセンの変容が信じられないと言わんばかりの表情だった。

「こんなものも用意してみました。」と保温ケースから熱々の茶わん蒸しも出される。

 その瞬間、全員が信じられないものを見た。

 ラルセンが泣いたのだ。

 殺人鬼と言われた男が泣いていた。

 それが果たしてうまい料理を食べたことによるものなのか、罪の意識が蘇り流させたものなのか、その両方なのかは私にもニコにもわからなかった。

「…ありがとう。二度と食べられないと思っていた。あんたが料理を作ってくれてよかった…。」

「私は依頼に答えただけです。お礼は情報を集めてくれたニコさんとトムさんにしてください。」

 ナンシーは、これは自分の成果ではないと言わんばかりに、私たち二人を紹介した。

「あんたたちか…。ならあんたたちにもう一つ頼みがある。」

 また取引か、と身構える検事たちだが、私たちに頼まれたことはごくささやかな、それでいて、私たちでなければできない仕事だった。




「凶悪犯を改心させた奇跡のシェフ」

「死刑囚への最後のレシピとは」

「シェフ見習いの少女、奇跡の物語」

 そういう見出しの新聞記事や雑誌のコラムが流行り始めたのは、料理を作った日から二日後からだった。

ラルセンの最後の願いは私たちのラジオで、今回の出来事を報道してくれということだった。ラルセンが果たしてナンシーの将来のためにそうしたのかはわからない。ただし、別れ際、彼はこう言った。

「あんたは最高のシェフだよ。」と。

 私たちの番組で今回のことが報道されるや新聞各社や雑誌の記者がナンシーを取り上げ、後追い的にナンシーは一躍時の人となった。

 ちなみににぎり寿司を作れるシェフは検事たちが探したレストランには、ナンシーの他にはいなかったそうだ。リトル・イーストのにぎり寿司職人たちを探すという発想すら彼らにはなかったという。

 ナンシーでなければできなかった。

 適役は彼女しかいなかった。

 そのことを知り、私は運命というものを意識せざるを得なかった。


 天気のいい晴れた日、私とニコはエクスカリバーを走らせて、ナンシーのいるレストランへ向かった。今日は休日。個人的な用事でナンシーを訪ねるためだ。

 レストランに着いてみて、扉を開けると多くのスーツ姿の男女が口角泡を飛ばしながらオーナーに言葉をぶつけているところだった。

「ナンシーさんの話は伺いました。ぜひとも我がレストランに正規のシェフとしてお招きしたい。」

「我々はできうる限りの好待遇でナンシーさんをお迎えしたいと考えています。」

「ここにオーナーから小切手を預かっています。初年度の年棒を好きな金額でお書きくださいとのことです。」

 やれやれ、ナンシーの知名度はすっかりうなぎ上りだった。

「いい加減にしろ!お前ら!」

 オーナーの一喝に全員がたじろいだ。

「ちょっと名を挙げたぐらいの見習いを高く買いあがって。お前らが欲しいのはあいつじゃねえ。あいつの名声だろ?肝心のシェフとしての腕はまだ出来上がっちゃいねえ。これ以上、あいつを天狗にさせる真似はやめろ!」

 結局スカウトに来ていたレストランやホテルの関係者は全員残念そうな表情で帰っていった。

 ナンシーはその様子を離れたところで見ていた。

 オーナーが怒った様子でナンシーに近づき、

「仕方なかったとはいえ、今回騒動を引き起こして、勝手に行動したのはお前だ。シェフでもねえ奴が大層な口をたたきやがって。」

 ナンシーははっきりとオーナーの顔を見ながら微笑んでさえいる。以前、私たちがインタビューをした時とは違う成長した姿だった。

「責任は取ってもらう。お前は今日でクビだ。」

 ナンシーは微笑を浮かべながら、「はい。」と答えた。

 ナンシーにとっては、もうこのレストランで働くことにこだわりはなかったのだろう。なにしろ一人の客から一流のシェフと認められたのだから。

 今のナンシーにかつての弱弱しい面影はなく、一人の少女が成長した姿があった。

 するとオーナーが懐から封筒を取り出し、

「退職金だ。」と言った。

 中に入っていたのは札束が一つと一枚の航空券だった。

 美食の国として名高い独裁主義国への航空券だった。

「今のお前なら、あの国でシェフとして通用するだろ。札束は当面の生活費だ。」

 信じられないという面持ちで手渡されたものを見たナンシーは、

「ありがとうございます!ありがとうございます!」と嬉しそうにお礼を言った。

「礼ならラジオ局の二人に言え。渡したものは好きに使っていいが、その代わり、あいつらのインタビューは受けろ。」

 実は私たちが来た目的がそれだった。先日、オーナーから、ナンシーへの成功報酬を出すため、言い訳を作るべく、私たちのインタビューが必要になったのだ。

「もちろん受けます!」

 私はナンシーに出会えて本当に良かったと思っている。一人の少女が成長する様を見ることができたのだから。ニコも同じ様子だった。

「じゃあ、ナンシー。早速インタビューさせてくれ。」

 ナンシーの将来は輝いていた。





























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