第25話 一年生 五月
五月も半ばを過ぎて終わり近くなり、日没までの時間が長くなり、田植えの終わった水田が、可愛らしい苗を風に揺らす。
穂月屋敷がある丘の上から見ると、それはきらめくさざ波のようにも見えて、静江は目を細めた。
今日は屋敷前の畑に夏野菜を作付けする日だ。
四月の終わりに土起こしされて、消石灰と肥料をたっぷり漉き込まれた土は、わずかに湿り気を帯びて黒々としていて、今年も豊かな実りを期待できそうだ。
手伝いの女中同様にもんぺ姿になり、日除けバイザーの上から手拭いを巻いた静江は、鍬を振るって
早くに両親を無くし、何も知らない小娘だった静江に、村の年寄り連中は様々な知識を教えてくれた。
それは農業であったり、漁業であったり、流通であったり。
領主として必要な知識のほとんどを、今は亡くした旦那と領民達から教わったのだ。
(――本当に、有難い事だよ)
内心の独白に苦笑しながら、静江は黙々と畝を盛っていく。
「おばーちゃーん!」
と、
土に汚れても良いよう、白猫合羽をフードを外して着込み、足元は赤い長靴だ。
「見て! おイモ、真っ白!」
両手に、半分に切られ断面に灰を付けられた種芋を持って楽しげに見せてくれる。
「そうだね。それじゃ結愛ちゃんには、あとでお手伝いでこの畝に植えてもらおうかな?」
膝を折って目線を合わせ、「できるかな?」と問えば、結愛は右手を挙げて、元気よくお返事。
「じゃあ、ちょっと待ってておくれ。もう少しでここの畝を作っちまうからね」
言って、結愛を離れさせて鍬を振り下ろせば、結愛は不思議そうに小首を傾げる。
「おばーちゃんは魔法使わないの?」
「ん?」
「魔法で、土さんをもしゃもしゃーってすると、便利だと思うの」
「ああ、こういう事かい?」
静江はまだ畝の出来てない土に右手を伸ばし、パチンと指を弾く。
途端、円形に幕開いた
「そう、それ! おばーちゃん、すごい!」
手を叩いて喜ぶ結愛に歩み寄り、静江は再び目線を合わせる。
「結愛ちゃん、良いかい? 確かに魔法を使えば簡単なんだけどね、こういうのは自分の手でやる事が大事な場合もあるんだよ?」
幼い結愛に理解できるとは思わないが、いつか理解してくれれば良いと思いながら、静江は結愛に言った。
結愛の質問は、静江がまだ娘だった頃に抱いたものと同じもので、その時、村の年寄り達が同じように諭してくれて、今はそれを多少なりとも理解できると思えるから。
「そーなの? よくわかんない」
小首を傾げて、クスクス笑う結愛の頭を、静江は優しく撫でる。
「ああ。便利な方が良いってわけじゃないって事さ。よく覚えておくんだよ?
なんでも一人でできるって事は、それだけ孤独になっちまう。大事なのは、それが正しいかどうかを考えることさ」
「んー、よくわかんないけど、わかった!」
右手を挙げてお返事する結愛に、静江は微笑を浮かべる。
それから静江は作業を再開し、結愛は年かさの女中に手伝ってもらって、畑の隅に小さな専用の畝を作った。プチトマトの苗を植えるらしい。
穏やかな時間が流れ、そろそろ昼にしようかと、辺りを見回した時、静江は港の上空に浮かぶ、黒い影を捉えた。
「ありゃ、浮船かい? 源、どこのかわかるかい?」
視力の良い源三に声をかけると、彼は手を庇にしてそちらを見据える。
「山城和泉の家紋が見えやす」
「京都の公家だけあって、ゆったりとしたもんがお好きなのかね」
鼻を鳴らして吐き捨て、両手を挙げて伸びをする。
「目的地はウチだと思うかい?」
「舳先がこっちを向いてまさぁ。恐らくはお嬢絡みかと」
「まあ、それ以外ないだろうね。なんせ上女にゃ、一条の小倅がいる。そこから漏れたんだろう。
――準備するよ。着替えの用意を! せいぜい、もてなしてやろうじゃないか」
内門前の空きスペースに浮舟はゆっくりと着底した。
刻印と精霊によって進む浮舟は、大昔からあるにも関わらず、その速度の遅さからあまり普及していない。
現在の世の中で、空の旅と言えば、その利便性から機械式の飛行機が用いられる。
維持に金がかかり、場所も取る浮舟を使うのは、雅が好きな公家くらいで、そんな彼らも遠乗りにはあまり用いず、せいぜいが近場で舟遊びに使う程度なのだ。
そんな浮舟で京都からやってきた
パンパンに膨らんだ身体を無理矢理スーツに押し込んだような印象の男だ。太い首周りに合うネクタイが見つからないのか、ループタイを結んでいる。
「出迎え、ご苦労。ご当主殿はご在宅か?」
鷹揚を装って告げられる言葉に、源三は思わず眉根を寄せる。
彼らはいつもそうだ。自分達が会いたいと思えば、誰もが喜んで場を設けると信じて疑っていない。
「――侯爵閣下。本日はどういったご用向きで? ご予定は伺ってませんが?」
山城の背後の執事に目線を向ければ、壮年の彼もまた主人同様、悪びれた様子もなく佇んでいる。
従者の連絡漏れというわけではなさそうだ。
「そう堅苦しく捉えるでない。今日は良い話を持ってきたのだ。さあ、いつまで客を立ち話させる?」
膨らんだ下顎がブルブルと揺れるあれは、ひょっとして笑っているのだろうか。
源三は気づかれないよう嘆息して、山城と執事を案内する。
宴会用座敷の廊下を挟んで対面。
ソファと座卓を置いて、洋風に仕上げた客間に通せば、山城は勧められるのを待つこと無く、その巨体をソファに鎮める。
当然のように座卓を挟んで左手の上座だ。
源三は呻きそうになるのを堪えながら、女中が運んできた盆を受け取り、お茶を差し出す。
「しかし地味な客間だな。所詮、伯爵だとこの程度が限界か?」
山城が呟きながら煙草を取り出して咥えれば、執事が背後から魔術で火をつける。
この部屋は、今は亡き静江の夫が整えたものだ。
海運の家から婿入りした彼は、穂月家に入ってからもその人脈で、輸入業と物流を発展させて大いに穂月家に貢献した。
この部屋にある調度は、そんな彼が自ら目利きして、お眼鏡に叶ったものだけを取り揃えたもので、彼を兄貴分と慕っていた源三からすれば、部屋だけでなく、彼自身も莫迦にされたようで不快に思えた。
だが、相手は腐っても侯爵。庶民の源三が口答えできるものではない。
ぐっと堪えて、部屋の入り口に控えると、やがてふわりと鼻をくすぐる白檀の香りがやってくる。
「待たせたね。なんせ突然の来訪だったんでね。準備に手間がかかっちまった」
現れた静江は黒留に金糸帯。
高く結い上げた髪に
完全武装の女伯モードである。
勝手に上座に座っている山城を見下ろし、不快そうに鼻を鳴らした彼女は、スタスタ座卓を回り込み、片手で空いたソファを掴み上げると、部屋の入り口と向き合うように――山城達から見て左手側にそれを下ろした。
L字配置にすることで、強引に上座に立った構図だ。
なんでも無い事のように腰を下ろす静江の掲げられた手に、源三は煙管箱から煙管を出して、わざわざマッチで火を付けて見せる。
おまえの従者と違って、ウチの従者はこれだけ手間暇をかけられるのだぞ、という、華族特有の見栄の応酬だ。
ゆったりと紫煙を噴き出し、静江は山城を見据える。
「それで、侯爵閣下は牛歩の歩みの浮船駆って、わざわざ三洲山までなんの御用だい? それだけの手間をかける理由があったのかい?」
皮肉と煽りの言葉に、山城は顔をしかめていたが、すぐに思い直して顔を笑顔に戻す。
「そうだ。祝い事よ。おまえの孫を、ウチの息子の嫁にしてやろうと思ってな」
「――あ?」
ビシリと静江のこめかみに青筋が浮かぶが、山城は気づかずに続ける。
「光栄に思うが良い。たかだか田舎の伯爵家の娘――それも庶民育ちだというではないか――そんな下賤な娘が、侯爵家たる我が家に、あっちゃああああああ――ッ!?」
静江の手に握られた煙管の火皿が、山城の額に押し当てられていた。
ソファの上で、屠殺される豚のように、のた打ち回る山城。
「うるさいね。ブーブー鳴きわめくんじゃないよ」
静江が紫煙を吹きかけると、赤膨れていた火傷痕が見る間に癒えて無くなってしまう。
魔法収集癖のあった静江の祖母が、大戦期に帝都は吉原で「癒やしの天女」と呼ばれた花魁に、わざわざ出向いて教えを乞い、穂月の技に取り込んだものだ。
「きさっ、貴様っ! なにをしたのかわかっているのかっ!? 侯爵を傷つけるなど!」
「傷なんてどこにある? うるさい豚にはしつけが必要だろう?」
歯を剥く山城の怒声もどこ吹く風。
婉然と微笑む静江に、源三は噴き出してしまわないよう、顔を背けた。
「で、ウチの孫がなんだって?」
「だ、だから、嫁に――ヒィッ!?」
しつけは上手く言ったようで、静江が煙管を持つ手を動かすだけで、山城は腕をかざして顔を庇う。
「なあ、侯爵閣下よ。内地の序列が
そこで言葉を切って、紫煙を吐き出し、静江は山城を見据える。
「あんたらの飼い主が平家の使いっ走りしてた頃には、ウチはもう大公様から
家格でケンカ売るなら、相手ぇ選びな!」
静江が一喝すれば、ブタはソファごと後ろにひっくり返って泡を吹く。
鼻を鳴らして、山城を助け起こそうとしている執事を一瞥し、
「このブタの飼い主に伝えな。次は人間の言葉を話せる奴を寄越しなってね」
「お帰りはあちらでやす」
静江の言葉を引き継いで、源三が客間の外で控えていた下男仲間に目配せして、連れ出すように指示をする。
下男の助けを借りて山城を浮船に山城を載せた執事は、真っ青な顔で一礼し、やがて浮船は来訪時同様、ゆっくりとした速度で、空へと浮かび上がり、去っていった。
手慣れた様子で玄関前に塩をまく源三を面白そうに見やりながら、静江は煙管をひと含みして、それから彼に声をかける。
「源、政に言って、京都に出稼ぎを出しな」
政とは、源三と同年代の村の青年団団長だ。
青年団は村の家臣団跡取りを集めた集団で、領を取り巻く様々な雑事に駆り出される。
「わかりやした。どこまで探らせやす?」
「無理をしない程度で良い。期間は三ヶ月。懐古派……五摂家の中でも、特に一条を探らせな」
静江の指示に、源は頷き、車に向かうために、勝手口のある台所に向かって歩いていった。
残された静江は、客間のソファを直している女中達を手伝い、
「先生とシロカダ様の読みが当たっちまったねえ」
面倒くさそうに頭を掻く。
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