第4話 一年生 春
「――紗江ちゃん! 大丈夫!?」
静江に呼ばれて蔵にやってきた環は、具足を脱がされてぐったりとしゃがみ込む紗江を見て、言葉遣いも投げ打って、慌てて駆け寄った。
源三ら技師達によって鞍上から引きずり出された紗江は、直前までの感覚の違いに乗り物酔い状態になって、顔を真っ青にしていた。
「あれえ? タマ姉、なんでここに?」
呂律の回らない調子で紗江が尋ねると、それに応えたのは静江で。
「おタマは、<舞姫>の実働試験をやってたからね。おまえがそんな調子じゃ、倒れたアレを起こせないだろう?」
顎をしゃくっていまだ倒れ伏したままの<舞姫>を指し示す。
「タマ姉、あれ動かせるの? すごいねぇ」
「いいから。お水飲んで。ああ、源さん、椅子か何か……紗江ちゃんを座らせないと」
あたふたと視線を巡らせながら、水筒を差し出し、必死に紗江の背中をさする環。
「やっぱり、わたしじゃダメなのかなぁ」
鼻声でポツリと呟く紗江は、手が真っ白になるほどにカップを握りしめていた。
そんな孫に歩み寄り、頭を撫でて、静江は言う。
「いーや、単なる精霊不足……言っちまえば、修行不足だよ。環だって、初回はそうだった。なあ?」
問われて環は恥ずかしそうに顔を反らし、それでも紗江にうなずいて見せる。
「ええ。私の場合、仰向けに倒れてしまい、鞍上から出ることもできないままでした。
――倒れる時は前のめり。これって撫子としては重要な事なんですよ」
二人の励ましの言葉が嬉しくて、紗江は零れそうになる涙をぐっとこらえて、洟をすする。
「そもそも<舞姫>は特騎です。いきなり動かせる方なんて、おそらく大奥様か美咲様くらいです。私だって、まだまだ歩かせるのが精一杯なんですよ!? 免許すらないお嬢様に動かせてしまったら、私の立つ瀬がありません!」
必死にまくし立てる環に、紗江はふと引っかかりを感じて、小首を傾げる。
「ひょっとしてタマ姉、もう免許持ち?」
途端、環はしまったという顔をして、紗江から顔を背けた。
「おや、聞いてなかったのかい? おタマは
「――大奥様、しーっしーっ!」
「どうせ入学したらバレるんだ。隠す事なんかないだろ。
……いいかい? 紗江」
柔らかだった静江の顔が引き締められる。それは穂月家当主としての顔で。
「おタマはね、いずれ仕えるお前に相応しい撫子に成る為に、それほどの努力をしてきたのさ。静香、美咲の薫陶を受けたお前は、二人に並び立つ乙女になるはずだってね。
私もその期待を込めて、<舞姫>を造らせた。
さあ、そんな私達の想いを受けて、お前はどう応える? どうなりたい?」
それはあの事故以来、紗江が自身にずっと問いかけ続けてきた問いで。後遺症に悩まされ、人より劣った力しかなくなってしまった自分だけれど、それでも諦めきれない想いの形で。
だから、紡がれる言葉はひどく自然に発せられた。
「わたしは……誰かを助けられる誰かになりたい。助けを求めて差し伸べられる手を取ってあげられる誰かに!
それができるのが撫子で、防人だと思うから、わたしはここに来たんだ……」
一息。
思い描くのは、今も色褪せない英雄の姿。
「……ポンコツのわたしが目指すのは、おこがましいかもしれないけれど、わたしはさ、帯刀様のようになりたいんだよ……」
まだまだできない事が多すぎて、無力感に苛まれるけど、それでも目指したいと願わずにはいられない。
拳を握りしめて呟けば、
「ま、力の使い道は違えてないようで一安心だよ。
紗江ちゃんは紗江ちゃんさ。焦らずゆっくりとやんな」
静江はふわりと微笑んで、優しく紗江の頭を撫でた。
日が沈み始めた頃から、招かれた村衆が続々とやってきて、持ち寄った食材を女中に手渡すと、男は慣れた様子で玄関棟入ってすぐにある、大座敷に吸い込まれていく。その嫁はというと、やはり勝手知ったる様子で台所に向かい、女中を手伝って肴の品目を増やしていく。
静江の挨拶に、紗江の跡取りとしての紹介が続き、それが終わると後は無礼講。ずっと続いてきた、この村の習慣のようなものだ。
宴もたけなわとなり、時間も遅いと紗江と環が就寝の為に席を立ってから、静江もまた、そっと席を外して、玄関棟と母屋を繋ぐ渡り廊下の縁台に腰を下ろした。
見上げた月は綺麗な三日月で、初春の肌寒さが酔いで火照った身体に心地よい。
お猪口に冷酒を手酌で汲み取り、それを傍らに置いて煙管に火を着けると、吹き出した紫煙がなぜだか無性に目に沁みて、静江は目元を拭った。
「……大奥様、羽織を持ってきやした。冷えますんで、羽織ってくだせえ」
と、察しの良い源三が見なかった事にして羽織を肩がけしてくれる。
そんな彼にお猪口を差し出すと、彼は一礼してそれを煽った。
「……源、聞いたかい? あの子の覚悟を」
紫煙と共に問えば、
「はい。まるで美咲お嬢のようでやしたね」
源三も洟をすすって、ポツリと応える。
静江は美咲にもまた、元服の折に紗江にしたのと同様の問いをかけていた。
家を飛び出し、家を捨てるとまでのたまった彼女だが、撫子を防人を目指すのだけはやめなかった。その想いが、覚悟がどこからくるのか、静江は知りたかったのだ。
「あの子の場合は『誰かを助けられる誰かになる』だったね」
鼻を鳴らして苦笑すれば、源三もまた困ったように頭を掻いて応える。
「美咲お嬢はそれを言えるだけの力が当時からありやしたから。
紗江お嬢は……」
紗江が抱える後遺症とハンデ。それが紗江から自信を奪っているのだと、静江も源三も考える。
「それでも<舞姫>は応えたんだ。いずれ成長すれば、ちゃんと扱えるようになるはずさ。周りに恵まれれば、自信なんかも勝手についてくるだろ」
「さいでしょうね……」
沈黙が降り、静江が紫煙を吐き出す呼気だけが響く。
大座敷の酒宴の騒ぎも遠く、静江はゆっくりと月を見上げた。
「何処に行っちまったんだろうね。あの子は……」
あの人たらしの次女ならば、自信を無くしている紗江を励まし、うまく導いてみせただろう。
今はただ、明日から始まる孫の新生活が幸多いものである事を祈らずにはいられなかった。
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