第4話 社会人(おとな)の戦い


 〈空けます〉


 そんな格好つけた返信をしてから一時間。俺はタイムリミットと仕事の山の板挟みに苦しめられていた。

 このペースで続ければなんとか定時に帰れると信じたい。いや、絶対に終わらせてやる。


「根詰めてんねー立川。一回休憩挟んだらどうだ? ほれ、コーヒー。ブラックだったよな」

「あっつ! ちょっ石堂お前」


 俺の頬に熱々のコーヒーの入ったマグカップを当ててきた、このメガネ男は石堂海生いしどうみおといって、俺の同期だ。いつも飄々ひょうひょうとしていて、ぱっと見では不真面目に見えるが、実際は仲間想いの真面目な奴だ。


「顔に生気がないぞ? また寝てないだろ」

「今日の徹夜は仕事のせいじゃないから安心してくれ」


 そう。今日の徹夜は嬉しい方の徹夜だからノーカウントだ。


「どっちでも駄目だわ。もっと体を労れって。今のお前、食事、睡眠、運動、生きるのに大事なもん全部欠けてる不健康王になってんぞ。お前金余ってるんだからもっと健康にも使えばいいのによ」

「推しへのスパチャのために身を削ってる奴が言う台詞かそれ」

「あれは俺の精神の健康を保つためでもあるから健康への投資とも言えるんだなこれが」

「どんな理論だよ」


 俺はあまりVtuberに詳しくないのだが、こいつは推しのVtuberに貢ぎまくっているようで、コメント欄では石油王と呼ばれているらしい。


「まあ俺のことは置いといて。今日はいつにも増して修羅場ってるけど大丈夫か? チームなんだからヤバいことあったら共有しろよ」

「色々あって今日は定時に帰らなきゃいけないんだ。それで忙しくなってるけど……まあ大丈夫。意地でも終わらせるから」


 この程度の仕事に邪魔をされるような、やわな気持ちでこの六年を過ごしたわけではない。


「そうか。俺も推しのクリスマス配信があるから今日は定時に帰るつもりだし、お互い頑張ろうぜ」

「ああ。コーヒーありがとうな」


 そう言って俺はブラックコーヒーを飲み干した。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆




――二時間後。


 もう少しで定時になるが、まだ俺は作業を続けていた。

 

 くそ。間に合わないのか。このペースで行くと、まだ退社までは時間がかかってしまう。一秒でも早く彼女のもとへ向かいたいのに。駄目なのか。


「立川くん、ちょっといい?」


 俺が我を失いかけていたところに、聞き慣れた声が聞こえた。

 声をかけてきたのは、俺の上司で、大学時代からの先輩である、三城千春みきちはるさんだった。彼女は俺の大学時代の先輩であり、この数年の間、よく面倒を見てくれた人で、一番お世話になった先輩だと言える。

 厳しさの中にも優しさがあり、さらに仕事もできる人だったので、俺は三城さんに多大な信頼を寄せていた。


「はい。どうかしましたか」

「少し話がしたいんだけど、大丈夫?」


 俺は三城さんに促されるまま、個別の面談室に入る。


「立川くん、今日はもう帰っていいわよ」

「はい? それはどういう……」


 唐突な三城さんの宣告に俺は戸惑う。


「単に顔色が良くないのと、根を詰めすぎているというのもあるけど……」

「それはいつものことですけども」

「うん。それが常態化してるのももちろん駄目なんだけど、一番の理由はそれじゃないの」

「では、どんな理由で」


 体調不良が理由ではないとすると、三城さんが俺を帰らせる理由などあっただろうか。

 しかし、彼女の次の一言は俺の予想を大きく裏切るものだった。


「昨日、帰ってきたんじゃない? その……君の待ち人、もとい彼女が、ね」

「……三城さんは本当によく見てますね」

「いや。恥ずかしい話だけど、君のスマートフォンの通知が見えてしまったの。あれはつまり、前に君が話してくれた、その『彼女』が帰ってきたということでしょう?」

「見られてましたか。そうです。昨日、六年ぶりに戻ってきました」


 俺は過去に、彼女に飲みに誘われたときに俺が消えた恋人を探しているということを話していた。

 もちろん、むやみに言いふらしていた訳ではない。三城さんのことを信頼していたからこそ、このことを彼女に話したのだ。俺は彼女以外にはこの話をしたことはないし、彼女もその秘密を守ってくれている。


「それはよかったわ。まあ、これで理由が分かったでしょう。というわけで、すぐにでも退社しなさい」

「ですが、そんな私的な理由で休むというのは……」

「六年越しに再開した恋人とのデートよりも大事な仕事が世の中にいくつあると思う? 少なくとも君が今抱えている仕事の中にはないでしょう?」

「……わかりました。今日は退社させてもらいます。ですが、僕がいなくなった分はどうなるんですか」

「私と石堂くんがやっておくわ。事情が事情だし、他の人達にはやらせられないから。石堂くんも事情を知ってるわけではないけど、君のためなら協力してくれるはずよ」

「本当にありがとうございます」


 石堂、巻き込んで本当にすまない。一日だけ許してくれ。


「いいのよ。いつも頑張ってくれてるお礼だと思って。楽しんできなさい。冬くん」

「はい。お先に失礼します」


 三城さんは仕事以外のときは俺のことを昔から『冬くん』と呼んでいた。

 彼女にその呼び方をされるのは久しぶりだった。



 俺は足早に会社を去り、待ち合わせの場所に向かった。



◇◆◇◆◇◆◇◆


 

 立川がオフィスを出ていってから数分。三城さんは面談室から戻ってくるなり、俺、石堂海生に残酷な宣告をしてきた。


「石堂くん。悪いんだけど、今日は一緒に残ってくれるかしら」

「うへぇ。今日は定時で帰りたかったんすけど……まぁ立川が帰っちゃいましたもんね」


 まあ、理由は体調不良といったところだろうか。あんまり顔色良くなかったしな。いや、それはいつもか?

 にしてもクリスマス配信見れないのつれー。


「そう。それと……終わったら飲みにも付き合ってほしいのだけれど……」

「あー……っすね。いいですよ」

「ええ。でも大丈夫。多分、これで最後になるだろうから」


 最後、という言葉が少し引っかかったが、まあいいか。


「……わかりました。それじゃ、もうひと頑張りしますか」

「頑張りましょ」


 はぁ。家帰ったらアーカイブ見るかぁ。

 そんでもって、明日は立川をしばくとしよう。

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