第6話
「このお姉さん?海のことが知りたい、って言ってるの...」
遊んでそうな少年。船の匂いと汚れが取れないぼろは袖が余っている。地味で、まだ幼さを残す子だった。大人ぶった振る舞いを覚えたての。
「そうだ。...おい、連れてきてやったぞ。約束通り、いい加減港に行くのは止めるんだ」
「...入って」
男を無視して、少年を部屋に招き入れる。
男が、取り返したスェードを嗅いで顔をしかめている。この男は港に商売しにくるくせに、やたらと海を嫌う。
「何よ」
「錆びた船底みてぇな匂いがするんだよ。どんだけ突っ立ってたら藻臭いのまで移るんだ」
「私はたばこ臭い方が嫌いだったから。」
「いつからそんなに擦れちまったんだよ。あのなあ、お前についてる客はみんなお前の田舎のカカァみたいな芋っぽいトコを...」
ばたん、と閉める。ぼろのアパートだが、曲がりなりにも北国の扉だ。
「さて...」
振り返る。仕事の癖で、甘い香を少し焚いてある。しかし、今日はその顔が作れない。
「あなた...漁師なの?」
「そうだよ」
少年はもうベッドに座っている。シーツに潮の香りがつくと面倒なのに。足をぶらぶらとさせて、上から下まで品定めするように目を送っている。嫌悪感は無いが不思議なものだ。路地に立つときに絡んでくる立派な男たちと同じものだったから。
「先にする?後でいい?」
「...先にお願いするわ。朝まで空けてあるから、後でいくらでもお相手してあげられるわ、ね」
あげられる、ね...。ふふん、と生意気な笑みをたたえ、足を組む少年。
「まあ、いいよ。...旦那さん探してるんだって?」
「ええ」
「前々回の冬期船に乗ったって?」
「ええ」
「死んだって?」
「......ええ」
ばたばたと足を振り、ベッドサイドを叩いている。気分が悪い。...たちの悪い子どもだ。
「旦那さん、死んじゃないよ」
「......そんなはず、ないわ」
「あのオッサンに聞いたよ。南の田舎だけど、沖合で腕のある漁師だったんだって?それでチンポガニ船なら死なないって」
「......死んだのよ!!」
ばん、と音を立ててサイドテーブルが倒れる。物入れに当たって、娼婦の飾りが絨毯にばらばらと落ちる。...私が?
手のひらがじんじんと痛い。
「落ち着きなよ、お姉さん。」
にやにやと笑ったまま、少年が手を振る。ああ痛そう、といった感じで。
「チンポガニ船に乗ったんだ」
「そうよ」
「甲板に出る仕事?」
「...男の仕事はわからないけど...地元では一人で船に乗ってたから、多分そうだわ」
「お金が目当てだった?」
「...そう、よ」
顔が沈んでいくのがわかる。何がしたいの?
「旦那さん、この街に来てからお姉さんとまぐわった?」
「...は?」
顔は上げれない。この街の女の事情を邪推する嫌な客から、たまに聞かれた。こいつ、もうその事で頭がいっぱいなのか?
「いいから」
「...ええ、そうね」
あの男にどんな文句を言ってやろう。何が少し特殊な漁師を連れてきたから話を聞いてみろ、だ。何かを考えている様子もない。ただのエロガキのいたずらじゃないか。どうせロクに悦ばす事も知らないから、こんな...。金は払ってくれるんだろうか...
精一杯強い顔を作って顔を上げる。そして、そう考えているのはわかってますよ、とばかりのしたり顔と目が合い...心を覗かれたのか。
考えるまでもないね。少年はそう言った。
「ほぼ間違いなく、死んでないね。少なくとも海では」
「...死んでいる、はずだわ」
かあっと湧き上がるのがわかる。また、手が...
「まあまあ、落ち着いて。...別にね、」
立ち上がり、窓を引く少年。借りるよ、と灯をこよりに移し...。...あのたばこ、あいつからくすねたんだ。
「別に、旦那さんは逃げたわけじゃない。金持ってよその陸揚げ地で遊んでるわけでも、女作ってどっかで暮らしてるわけでも、違う船に乗り継いでるわけでもない。ほかの船に居る根無し草どもはそういうのあるけど、チンポガニ漁に限っちゃ有り得ないんだ。ただ、そういうのナシにぽっと陸から消えちまうのも、やり手のチンポガニ漁師の行く道ってやつなんだ」
そんで色々ばかな事考えちゃう未亡人サマもチンポガニ漁師の奥様の行く道なんだよな、と続ける。
有り得ないわ。 そう、有り得ない。
「けどあるんだ」
これ以上の問答は面倒だとばかりの口調。両切りの、唇に付いた葉をぺっと吐いて捨てる。
「チンポガニに出会える漁師はごくひと握り。命をかけて腕を磨いて、限られた漁期で海に挑み、いくつもの分岐を乗り越え...そして、チンポガニに選ばれた者だけが」
どんっ。
「...?なんだ?ボーッとして。連れてきたぞ。コイツが、ああいう変な漁に詳しい...」
不機嫌な男と、小汚いぼろを着た生意気な顔の少年が、戸口に立っている。...何が起こったの?
「...チンポガニに選ばれた者が...何?」
「...うわ言が会話に出てくるまで、寒さにやられちまったか?せっかちも大概にしろよ」
「何?...ねえ、貴方さっきも来たわよね。...あれ?私、...何、眠ってた?」
はぁ、とため息を吐いて男が奥を覗く。
「お前、そんな歳か?まさか変なモンやってんじゃねえだろうな。それかあんなクソ寒いとこ居たから...」
「まあまあ」
少年が制する。なんだかぼんやりとしているが...間違いない。この嫌いな笑顔。
「お姉さん」
びくっ、と震える。
少年にではない。何かが何処かから、ここを見ている...?
「字は読めるよね」
男の胸ポケットから勝手に万年筆を拝借し、靴棚上の染め紙にさらさらと何かを書く。目だけが動かせる。知っている言葉が見えた。かろうじて頷く。
「安心して。ちぎって持ってるといいよ。そうすればあいつらは興味なくすから」
じゃ、と少年が言うとドアが閉まる。
分厚い扉で聞こえないが、まだ男が不服そうにしている空気が...左腕。
潮と油の香り。スェードのコートが、かかっている。
「なに、なにが起きているの...?」
ぎんっ、と視線を感じる。まだ、まだ。
は、と気付いて靴棚の紙をびりびりと破く。すがりつく勢いで故郷から持ってきた刺繍細工が落ちる。
あまり綺麗に揃っていないちいさな文字が、ターコイズのマーブルに浮かんでいた。
───明日夕刻、鐘の前。4番ふ頭2号にて。
───遠洋オメコエビ船乗船のこと。奉公人の札持て。
「オメコエビ......?」
視線が消えている。汗に気づいて拭く。振り向いてみると、かたかたと窓が鳴っている。
いつもの部屋。整ったベッドサイドのテーブル、綺麗に並べられた装飾具。
少し開いた窓が灯を小さく揺らし。
香は燃え尽き、たばこの匂いが少し残っていた。
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