第4話

凍てつく澄んだ水平線、重く濁った雪が海に返され舞い、妙なる景色を生んでいた。

朝日に光るそれに見惚れながら、浜辺に腰掛ける人は、つま先立つようなあの空気が去ったことに気づく。

冬を配ることに飽きた雲がゆるやかに近づく。陸の春は、稲光とともに訪れた。


海から戻った男たちはよく笑い、喜び、讃え合う。そして陸に上がれば酒場の給仕に、宿の娘に、街娼に。景気よく金を振りまき、自らの豪腕を、幸運を、男たちは女たちに何度となく語る。故郷という現し世へ帰るための最後の儀式である。

そしてその中で、春の港の客を一番に取れるのは、夜毎寒さに震える体をドレスで隠し、開いた胸元に雪を落として待ち続けた街娼たちだ。


その朝、一隻の漁船が入港した。凍りまとわりついた波を叩いて落としたのであろう、縁は船首からぐるりと数多の打痕が目立つ。タラップが降り、人々の歓声と拍手に男たちが迎えられる。タラップの前は女たちが囲んでいた。男たちは歓待の花束からひとつ、またひとつと褪せて擦り切れた花たちを摘んで街へ帰る。一隻、また一隻とタラップが降りるたび、花たちの輪は小さくなり...

船と港がようやく眠る頃、一輪の花のみが残っていた。

海に取り残されてしまった風が追いかけた。びょう、と急ぐ冬が、花を撥ねて大きく揺らす。華やかとは言い難い男物の大きなコート、スェードの裾を握るぼろぼろの手は、ひとつも震えなかった。花は風を睨む。あいつは、私の知りたい事を...知り得なかった事を今から見に行けるのだ。



夫がチンポガニに殺されて1年と少し。この港の春は寂しい。


南の小さな港から数えて100歩と少し、隣の家どうしの幼馴染。村一番の網取り手に育った夫と、互いに言葉にしなかった想いを叶えることができた。村じゅうが喜んでくれた結婚だった。背の高い新しい家まで建ててくれた。祖母から受け継いだ織機を置いて、短い春のまどろむ陽を独り占めできる家。私たちのこれまで、そしてこれからは...幸せだったと思う。

海が、痩せてしまうまでは。


男たちの仕事がどのようになっていたか、私は知らなかった。それでもいつからか、ある日、またある日。扉を開ける一歩手前まで、疲れた夫が肩を落として帰っていた事に気づいた。

1年経てば戻る。海は再び実る。村長が一戸ずつ訪ね、そうして声をかけ元気づけていた。かつての長であったその父も、綿を売った枕を重ねて体を起こし、船乗りの夫婦たちを一組ずつ呼んだ。枯れて震える手で若者たちの太く傷ついた拳を力強く握り、決してこれ以上不安にはさせなかった。

そしてみどりの海は、日を追うごとに静かになっていった。


夫は漁に出なくなった。

任せられていた沖の漁場は灰色に、死んでしまった。ほかの者が何度も自分の漁場へ誘ってくれたが、彼らには子があり、徒弟があり、老親があり...食わせてやらねばならぬ人がいる者ばかりだった。もとより幾ばくも採れない海だった。断るうちに、沖から順に痩せていった。

私は麦の倉番の家へ通うようになった。

初めはそこの身重の妻へ、要り用のものを織って納めていたが、すぐに身一つ、寝間着に夫のしぶき除けを羽織って訪ねるようになった。

初めは抱いてももらえなかった。戸口で小さくとも暖かいパンの包と温石を渡され、何も言わず帰される。

何もなくなってしまった家で、ぼうっとしていなければいけない時。夫は絶えず手を繋いでくる。話さなくなった。しかし、伝えなかった事もわかるようになった気がした。体を拭いて「夜のうちに帰るわ」と言えば、少し痛いほどに指を絡め、固まる。同じぬくもりを抱える帰り道を想い、悔しさで目を腫らした。

しばらく通っているうちに、パンが持たされぬようになった。倉番は暖炉のある寝室へ私を迎えるようになった。


1年が経った。私はただ抱かれに行く。暗くなった邸宅。落ち着いてから帰ると良い、と倉番が出た寝室で茶を淹れ、毛布を背にかけ嗚咽を隠してくれた家人たちは居なくなった。揺らされながら、くすんで湿った暖炉をぼんやりと眺める。

「この子を想ってくれた貴女が作った、温かいおくるみに包まれて育つの。貴女もこの子の親で居てくれるかしら」

慎ましく焚いた炎に黄色く照らされながら、彼女は咽ぶ私を擦ってくれた。あの子は黒い血に固まり流れ、あのおくるみに隠され教会へ行った。彼女は眠ったまま悲しむこともできず、痩せ落ちて暗い隣室で横たわっている。

薄い壁の向こうから、ぜいぜいと喘ぐ音が聞こえる。遮るように激しくなる。尻に小刻みに当たるものを意識すると、何も感じなくて済む。


乾いた農道は悪草までが軒並み狩り尽くされ、みじめな女が一人。向こうのぼろ家ががたりと鳴ってひと呼吸、ざらりと風が撫でた。

汗が冷え、ぶるりと震える。きゅっと体を締めると、内腿に温かいものがゆっくりと伝った。羽織をめくろうとして...ぎゅっと掴む。

うっ、と呻いてしまう。ずっと我慢していたものが飛び出しそうだ。歯を食いしばり立ち止まる。風がひと波ごとに刺してくる。崩れそうだ。膝をついてわんわんと泣きたい。でも、苦しさが...海を殺し、優しいひとたちを殺し、あの子を殺した苦しさの沁みた何かが、私の胸を、両足から貫いて大地に留めている。


誰かが走ってくる。秋も深いのに上着も着ないで。ああ、そうだ。あの背の高い家を隠していたのは、もう全部食べたか焼べてしまった、美しいみどりのものだけだった。あれからずっと見ていてくれたのだ。


愛しい人に抱き止められる。びゅう。ふたりでぶるりと震える。悲しい顔も、気遣う言葉も無い。でも、大地から張っていたものが溶けてしまった。私のすべてが、彼の胸にぽとりと崩れる。


こんなふうに、いつか...本当にあった事だわ。あの時は、ひととき浮かんで、また戻された。自分でこの苦しみを選んで戻った。何故かしら。ともかく...あれはいつ、何の事だったかしら。


まだ暖かい頃、しかし陸まで寂れきった頃。夜深く、倉番の家から帰るこの道。...痩せた樫の木の下、村長が居た。彼なら、君の夫なら...


ばっ、と顔を上げる。訝しむ夫の顔。まだあの逞しさを称えている。──今しか、ない。


「チンポガニ、....北の港に、チンポガニ漁っていう、大きな船で行く漁があるの」



すべて、私だった。背中から、港へ続く街道から、がたりと小さく鳴る。ひと呼吸あってざらりと撫でる。囁く甘い声の匂い。しかし、ざらりと撫でるそれはあまりに恐ろしく。

花は震えてしまう事ができなかった。

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