第6話 ハバクク

 神殿の丘を下りきったところに、いちじくの木が数本生えている。先には園があるが、このあたりは誰の所有にもなっていないので、恐らく野生種だと思われる。そのうちの一本の木陰に座り込んでいる人物の姿を認めると、バルクの足は自然と速まった。

 人の頭ほどもある葉が生い茂る木の根元でその人物はひざまずき、頭を前後に振っていた。祈る時の、癖である。邪魔をするわけにはいかないと考えて、小石を投げるほどの距離で立ち止まった。しかし、気が逸ってじりじりと距離を詰めてしまい、気付くとすぐ真後ろにまで近づいてしまっていた。

「バルク殿。どうかされましたか」

 ハバククは祈りのために閉じていた目を静かに開いて、すぐそばにまでにじり寄ってきている青年を見た。

 祭司としての奉仕当番が明けた時には、この場所で祈りをささげることが習慣になっている。静寂に満たされた聖所で灯火に油を注ぐ奉仕をしていると、いつも厳粛な思いにさせられた。しかし、神殿の前庭に出ると、それとは対照的な喧噪に顔をしかめてしまう。本来ならば神へのいけにえがささげられるべき場所に、王が持ち込んだ異教の神々がまつられていた。それらにささげる儀式だとして、いかがわしい行為が白昼堂々と行われたり、子どもに火の中をくぐらせるといったおぞましい行為が行われていた。ハバククをはじめとして、祭司たちは何度もそれらを除くようにと訴えたが、取り合われない。どころか、それらを持ち込んだ者たちにかえって命を狙われかけたこともある。その無念な思いを、ここでの祈りの中で注ぎ出していた。

 ハバククが目を開いたのを認めると、バルクは遠慮なくその顔を近づけてきた。

「やはりここでしたね、ハバクク殿。神殿で聞けば、ハバクク殿の組はちょうど奉仕の当番を終えられて出て行かれたというので、恐らくいらっしゃると思っていましたよ」

 話したいことがあって来たのであろうバルクはしかし、すぐには言葉を継がずにしばしハバククの目をじっと見ていた。その様子から、それは少なくとも吉報ではなく、しかも小さなことではなさそうだということは想像できた。ならばおおよその想像はつく。

「エレミヤのことですね。エホヤキム王に厳しい預言の言葉を伝えたと聞きましたが」

「私がその言葉を聞いて、筆記したのです。王のところにその巻物を持っていかれる時に、私とエレミヤ殿は身を隠しているようにと言われました。果たして王はあろうことか神の言葉を書き記したその巻物を暖炉にくべて焼いてしまわれたというのです。その後、私たちを捕らえよとの命令が出されました。エルナタンが知らせてくれたのです」

 バルクの声は震えていた。決して王から追われているという恐れではなく、王が預言の言葉をないがしろにしたことへの憤りであることは明らかだった。預言者が迫害を受けるというのはさほど珍しいことではない。彼らが語る言葉の多くは警告であり、耳に痛いものなので、それを聞く者たちの反発は覚悟の上だろう。しかし、神からの預言の言葉をよりにもよって焼き捨てるとは。エホヤキム王の内にはもはや神に対する恐れなどどこにも見られない。バルクの憤りはそのままハバククの内にも沸き起こっていた。

「神よ、このような暴虐がいつまで放置されるのでしょうか。みおしえが麻痺し、悪しき者が正しい者を取り囲んでいるのです。曲がったさばきが行われています」

 ハバククは、天を見上げてうめいた。

「エレミヤはどうしたのです」

 ハバククはふと気づいて言った。王がどこまで本気かは分からないが、捕らえよと命じられた以上、無事では済まない。バルクにしたところで、こんなところをうろうろしていたら、危険極まりない。

「エレミヤ殿は同僚が匿っています。私もこれから合流する予定です」

 彼らが捕らえられ、殺されるようなことがあったら、王に警告を語る者がいなくなってしまう。そしてそれは、神の選びの民としてのユダ王国が滅び失せることを意味している。なんとしても、彼らには生き延びてもらわねばならない。しかし、祭司として神殿を聖別させることもできないハバククに、打てる手もまた、ない。

「神よ」

 心の中でつぶやいたつもりが、声に出ていた。

「バルク殿。エレミヤから離れないでいてほしい。過酷な願いだとは思うのだが、その言葉は失われてはならない。それらは、神がこの民を愛したもうた証であり、この民がいつか悔い改めて、戻るべき場所でもあるのだ」

「ハバクク殿。もとより、私は王宮の書記官です。なんとしてもエレミヤ殿とその言葉を守るつもりでいます。ただ、この忌まわしい状況を、ハバクク殿にお伝えしておきたかったのです」

 ハバククはそう遠くない将来、エレミヤとこの若者の上に起こること、同時にこの国の民に起こるであろうことを、思った。それは、滅びにいたる激しいものに違いなかった。しかし、神はきっと滅ぼし尽くさない。悔い改めるための道を残されている。

「バルク殿。私はここで祈り続けよう。祈るしかない、とは言わない。神が御手を伸ばされるとしたら、それに抗う者はいない。だとすれば、神に祈ることはこれ以上にない力だと、信じています」

 その時は決して遠くないはずだ、とハバククは感じていた。

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