第5話 ナホム
乾期の最中とはいえ、チグリス川は豊かな水量をたたえ、真っ青に光る空と一体になっていた。雨期を迎えると突如氾濫することもあるので、今のうちに出発して、流域からは離れておいた方がいい。ナホムは幼い頃から見慣れてきたこの風景に別れを告げるために、ニネベ郊外の川岸に立って長らく佇んでいた。
自身が生まれた町エルコシュは、ニネベとは目と鼻の先ほどの距離にあるが、そこを故郷だと思ったことはなかった。父と母が繰り返し話してくれた、ガリラヤ湖のほとりこそがそれに他ならないと堅く信じている。
「ニネベが滅びるだって? 滅多なことを言うもんじゃない。そりゃあガリラヤから連れて来られたワシらユダヤ人が皆願っていることではある。だがな、今このアッシリアを打ち破ることができる国など、ない。あのエジプトでさえ、昨年散々に敗れた挙句、やっぱり捕囚として連れて来られたじゃないか」
ナホムの話を聞いた父は、最近すっかり小さくなり、しわの浮き出した手をさすりながら答えた。
「知っていますよ、もちろん。エジプトの将軍の皮がニネベの城壁に吊るされていたのも見ましたから。でも、ニネベが滅びるという光景も見たんです。幻で、ですが」
幻などと言えば父は笑うかもしれないと思ったが他に言いようがない。ニネベの城壁が崩され、廃墟となっていた。その光景と共に、イスラエルの回復を告げる声が聞こえる。ナホムはこのところ、それを繰り返し見てきたのだ。
はじめのうちは何のことなのか、分からなかった。しかしやがて、それが自分たちの民族を導いてきた神の声であることがはっきりしてきた。ナホムはその声についても話した。
「幻に、神の声か。それは神がお前を預言者として選ばれた、ということか」
笑うかと思った父はしかし、ナホムの目を正面から見つめながら、確かめるように言った。預言者。神の言葉を預かり、人々に伝える役割。意外な父の反応と、考えてもいなかった言葉にナホムは戸惑った。幻の中で繰り返された声が神のそれであると分かり、黙っていられなくなって話してみただけなのだ。
ガリラヤの漁師だったという父は、若い頃にこの町に捕囚として連れて来られた。ナホムが知っているのは、難しいことはよく分からんと言いながらいつも陽気に笑っている姿だった。ただ時折、一人で顔をしかめて考えこんでいることもあり、日頃の陽気さはどこか無理をしているようでもあり、深刻な話題を避けているようにも思えた。
「預言者とは。どうしてそんな風に」
戸惑いながら、問い返した。少なくともナホムの記憶の中にそんな言葉を父から聞いたという覚えはなかった。神のことや律法のことは、共に捕らえ移されてエルコシュに住んでいたレビ人の祭司から教えられてきた。父がそんな言葉を口にするとは、想像もしていなかった。
「神が何の意味もなく、幻を見せるはずがない。もしもそれが神から見せられたものだとするなら、そこには目的があるはずだろう」
「目的……それは一体何でしょうか」
「言葉というからには、誰かに伝えよ、ということだろうな」
「しかしなぜ私が。そんなことならレビ人の祭司がいるというのに」
「預言者に選ばれるのに身分は関係ない。サウルもまた預言者なのか、ということわざもあるくらいだからな」
真剣なまなざしでナホムを見つめたまま、父は言った。そんな様子の父を初めて見たナホムは、戸惑い、半ば呆然としながら重ねた。
「誰に、ということでしょう」
「ワシにも分からん。分かるわけがなかろう」
そう言っていつもの笑顔に戻った父は、それ以上答えるつもりはなさそうだった。自分で考えてみるしかないか、とナホムは思った。
この川をたどって、かつてイスラエルからニネベに来た預言者がいた。その時にはニネベ中が悔い改めたと伝えられている。しかし、その後再び暴虐に手を染めたこの国は、ついにサマリヤを滅ぼし、他にも多くの国を踏みにじり続けてきた。現王のセンナケリブは、再びエルサレムを攻めつつあると聞く。
この幻の内容を伝えたところで今度はその暴虐を止められはしないだろう。ならば今、自分に見せられたニネベの裁きの宣告は、誰に伝えるべきなのだろうか。考えた挙句、ナホムはガリラヤに向かうことにした。
国の北半分が失われ、今また都が攻められようとしている故国の人々にとって、この幻は希望と慰めを与えるものになるだろう。きっと神はそのために自分を召し出したのだ、と思った。
まだ見ぬ故郷の湖はどんな色をしているのだろう。父たちが連れ去られた後、わずかに残された人々は、どんな暮らしをしているのだろうか。そもそも、アッシリアで生まれた自分がいきなり訪ねて行って語ったところで、人々は自分のことを受け入れてくれるのだろうか。とりとめもなくそんなことを考えながら、ナホムはゆっくりと歩き始めた。
はるか後年、彼の伝えた言葉に慰めを受けた人々が、ガリラヤ湖のほとりに再建した町をカペナウム(ナホムの村)と名付けるということは、この時のナホムには知る由もない。
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