第4話 ミカ
村を出てすぐに、道は谷あいにさしかかった。故郷の外に出るのは初めての経験だったので、ミカにはなだらかな山が見えるという景色が、すでに物珍しい。どこかで北に向かえばよいはずなのだが、それがこの辺りなのかもう少し先なのか。迷って立ち止まっていると、少し後ろを歩いていた男が追いついてきた。
おや、どうされましたか。道にでも迷いなさったか。エルサレムかね。それならここを北にたどってもいいし、このままもう少し真っ直ぐ進んで、谷を抜けた頃に北に向かってもいい。なに、エルサレムだったらどこを行ってもたどり着くさ。
あんた、ユダヤ人に見えるけど、この辺りは初めてなのかね? モレセテから来た? なんだい、すぐ近くじゃないか。村を出るのは初めて? なるほど、それで早くも迷いそうってことかね。ああ、私かい。私はイシュマエル人のゲラっていうんだ。一族は皆シュルの荒野で天幕を張っていてね。私は商売のためにいつも旅をしているんだ。実は私もエルサレムに向かっていてね。よかったら一緒行くかね。いやいや、迷惑じゃあない。旅は一人よりも二人の方が、何かと心強いしね。
あんた名前は。ふうん、ミカっていうのかね。村を出るのは初めてってことは、農夫ってとこかね。ああ、当たりだな。いや、詮索しようってんじゃないけどね。
それにしても、今日もよく照っていますなあ。もうそろそろ始めの雨の季節が終わりかけているっていうのに、まだ当分降りそうにない。この分だと今年も種まきが厳しそうだ。あんたたちの村あたりは本格的な飢饉になっちまうのかもしれんな。いや、失敬。悪意はないんだよ。ただどこも暗い顔でピリピリしてるからねえ。それでなくても、近頃は何でも馬鹿みたいに物の値段が上がっちまったから、いよいよ来年あたり、畑か家畜を手離さす、なんて話がたくさん出るかもねえ。
いやいや、そんなことを待ってるわけじゃあないですよ。確かに売るとなれば我々商人の出番だけどね。でもそんなものは一回きりさ。大きくはなくたって、続けて物が動く方が、ありがたいね。
天気だけじゃなくて、税もひどい。なんでも、ユダのヒゼキヤ王がアッシリヤに神殿の宝物を根こそぎ渡したっていうじゃあないかね。それを民の税にして取り戻そうなんて、迷惑な話だ。
サマリヤはすっかり敗れて廃墟になったらしいが、エルサレムも同じことになるのかね。そうなったらここらも無事じゃ済まんのでしょうなあ。
おや、王の話になると途端に顔つきが険しくなったねえ。そう言えばあんた、エルサレムに何しに行くんだい。
ゲラと名乗ったイシュマエル人は、あけすけだった。道に不案内なミカにとっては、旅慣れた道連れができたことはありがたかったが、余計な話を聞いたり、余計なことを尋ねられたりするのはやや煩わしい。もとより、おしゃべりが好きな方ではない。それだけに、適当に話を濁すということもできなかった。
「エルサレムには、神の警告を王に伝えるために行くのです。サマリヤがああなった後でもエルサレムだけは大丈夫と言われていると聞きます。決してそうではなく、不義の歩みを続けていれば、神はエルサレムも敵の手に渡される。それを伝えに行くのです」
ゲラは驚いたように目を大きく見開いて、ミカの顔を覗き込んだ。
「王にって、あんたは何者なんだい。見たところ、普通の農夫のようだけれど」
「普通の農夫ですよ。生まれた村から一歩も出たことのない、貧しい農夫です。ただ、神が語ってくださることがある。それを周りに伝えることが、私の使命なのです」
「それあ、普通の農夫とは言わないな。なんだっけ、よ……よげんしゃ、だったか。あんたたちの国でときどき見かけるあれだな。我々の国にはいないのでね」
ゲラは少しだけ、ミカとの距離をとった。とくに気味悪がったり嫌ったりしたからではなく、預言者というものに対する敬意とかすかな恐れが無意識にそうさせたものだった。はるか昔、ゲラの先祖たちは今よりもずっと、この国の民と親しくしていた。元をたどれば、同じ先祖から生まれた兄弟だったのだ。だから、この国の民の神は彼らにとってもやはり神だった。
「そう言えば」
話題を変えようとして、ゲラは周りを見渡しながら言った。
「この辺りはイスラエルのダビデという王様が、ペリシテ人の巨人を倒した場所だったな。あんたたちにとっては誇り高い場所だろう」
「その誇りが、残念ながら今は仇となっているのです。神は確かに、ダビデの王座を固く立てると約束なさいましたが、正しく歩むなら、という条件があります。正しく歩めないなら、断ち切るとも言われていた。都合のいいところだけを取り出して安心しているなど、愚かなことです。そのために、民の暮らしは荒れ果ててしまっているのですから」
ミカの声は怒りのためか、微かに震えていた。ゲラはその機微に気づかないふりをして、何気ない様子で答えてやった。
「エルサレムの王様が、あんたの言葉に耳を傾けてくれたらいいな。我々の商売も、その方が安泰だ」
言いながらゲラは、広々とした古戦場を見渡した。本当に、そうであればいい。アッシリアか何か知らないが、よその国のことは放っておいてほしいものだ、と思った。
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