第3話 オバデヤ

 地響き。あわてて外に飛び出した。それは、無数の馬蹄が岩を叩く音だった。すぐに、空気を切り裂く音が耳をかすめる。いつの間に出てきたのか、自分の周りに立っていた一族の者たちが、ものも言わずに倒れた。皆、今起こったことが信じられないという驚愕の表情をして、身体から何本かずつ、矢を生やして倒れていた。

 世界から音が消え去ったような静寂の一瞬があり、その後、立っていた者たちが一斉に悲鳴を上げながら、走り出した。必死で、後を追う。先を走る者たちが次々に倒れていった。足がもつれ、倒れる。瞬く間に、馬蹄の響きが追いせまった。矢ではなく、蹄に引き裂かれる。頭のどこかでそう思ったが、次の瞬間には、景色は真っ暗になった。

 額の汗が、拭われた。心地よさに目を覚ますと、白い手が、見える。身体を拭いてくれているらしい。死んだのだろうか、と思ったが、その心地よさが、まだ自身の魂が肉体に留まっていることを示していた。

「ここは、どこだ」

 声は、出るらしい。ついでに指先に力を込めてみた。なんとか、拳を握ることも、できそうだった。

「気が付かれましたか」

 聞いたことのない、柔らかな、歌うような声だった。

「俺はやはり、死んだのか」

 声の主に対してではなく、自分に問うように、つぶやいた。

「ここは、エルサレムです。あなたは城門の手前で倒れていた。しかし、まだ息はありました。私たち夫婦で運んできたのです。ご安心なさい。何があったのかは存じませんが、もう大丈夫ですから」

 身体を拭いていた白い手とは別の方角から、声がした。少々甲高いが、男の声だった。その声のする方に、顔を向けてみた。まだ若い男だった。そで付きの服を着ているところを見ると、身分のある人間らしい。エルサレム、か。知らぬ間に、ずいぶん離れたところにまで、来ていたのだ。セイルの山を転げ落ちるようにして駆け下ったことを、少しずつ、思い出した。

「ネブカドネツァル。ここには来ないのか。奴は速い。とてつもなく速いぞ」

 名も知らない相手に、警告をしてやる義務もないが、何故だか、黙ってはいられなかった。それに、助けられたらしい恩義はある。

「言葉のなまりからすると、あなたはエドム人ですね」

 男の声は穏やかではあったが、迷いや曖昧さはなく、たとえれば鋭利な刃物のような、切れ味の鋭さがあった。イスラエルの民とは敵対しているわけではないが、友好な関係を保っているとも言えない。警戒心とわずかな不快感が湧き上がった。

「すみません、不躾でした。他意はありません。私の名はエゼキエルと言います。この宮で祭司として仕えています」

 こちらの感情を察したのか、男はあわててそう言い繕った。少なくとも、陥れようなどというつもりはないらしい。

「いや、俺も無用に警戒してしまったのかもしれない。こうやって助けてもらったのにな」

 そう応じながら、自分達がかつてエジプト王の侵攻にあたってこの町を助けようとはしなかったことを思い出した。それは自身の幼い頃の出来事ではあったが、その際にエジプト王を阻まない見返りとして、銅の精錬技術を学んだ。そんな経過があることを思えば、エドム人は敵と思われていても不思議ではない。そのエドム人である自分が、無意識にせよエルサレム付近で倒れていたのだ。殺されていても文句は言えない。

「長い間、俺たちに敵はいなかった。岩山の上まで攻めようとする者はいなかったし、間違えて迷い込む者があっても、山塞が寄せつけなかった。ところが、だ。ネブカドネツァルは大群で上って来た。しかも、騎馬で。気付いた時には囲まれていて、抗う間もなかった。自分が今こうして生きていることが信じられないくらいだ」

 言わずもがなのことだったが、何故か憑かれたように話していた。エゼキエルと名乗った男は黙ってひとしきりそれを聞いた後、少し遠くを見るように顔を上げた。

「この町にもネブカドネツァルは来ました。あなた方が攻められるよりもずいぶん前にです。確かに圧倒的な勢いでした。神殿の財宝を明け渡して服従することでとりあえずはことなきを得ていますが、エルヤキム王はこの状態にいつまでも耐えられないでしょう。反旗を翻す時がこの国の滅びる時なのだろうと、皆言っています」

 やはりそうか。ネブカドネツァルはエジプトを追い払った後、カナンの全体を併呑するつもりなのだ。しかし、エゼキエルの目はさらに何かを語ろうとしていた。

「バビロンの軍勢に包囲され、皆が不安に震える中でひとり、エルサレム以外にも目を向けていた人物がいました」

 何を言おうとしているのだろうか。束の間、理解をしかねた。エゼキエルはその疑問に答えるように、続けた。

「オバデヤ、という人でした。あなたと同じようにセイルの山から来たということしか、私には分かりません。彼はあなた方エドム人の山塞が打ち破られるということを預言していました。誰も耳を貸そうとはしませんでしたが、それでも神のことばだからと、語ることを止めようとはしませんでした。私は彼の預言のことばを書き留めて、神殿に納めました。孤独な預言者の使命と覚悟を教えられたような気がします」

 オバデヤと名乗ったその男の何かを、このエゼキエルという男が引き継いだのだろうか。ふとそんな風に感じた。

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