閑話 ソフィア視点(2)
どこに向かうのか自分でも分からないまま走って、いつの間にか、いつもジャンさんと作戦会議をする校舎裏に行きついていました。
ベンチに腰を下ろして、息を落ち着けます。
自分が不甲斐なくて、涙が出てきます。
もっときちんと止めるべきだったのです。
だってわたくしはジャンさんと、アカリさんには危害を加えるようなことはしないと、お約束したのに。
そして、ルーカス様がわたくしを庇うためにあのようなお芝居までしてくださったのに、逃げるような形になってしまいました。
わたくしが、もっときちんと止めていれば……そうすれば、ルーカス様にもあんなことをさせずに済んだのに。
ジャンさんに……あんなに困った顔をさせずに済んだのに。
俯いていた視界に、革靴が入りこみます。落ちる影に、ふっと顔を上げました。
そこには、ジャンさんが立っていました。
走っていらっしゃったようで、僅かに息が上がっています。
「ソフィア様」
ジャンさんがわたくしを呼びました。
視界が涙で歪んでしまって、わたくしはまた俯きます。
貴族たるもの、人前で涙を見せてはいけないのです。
授業の開始時間を告げる鐘が鳴りました。
しばらくそのまま立っていたジャンさんが、やがてわたくしの隣に腰を下ろします。
「授業、始まっちゃったっすよ」
「……」
「そんなに落ち込まなくても。ルーカスもちゃんと分かってると思うっすよ」
困ったように笑いながら、ジャンさんが話しかけてくれます。
けれど、口を開くと嗚咽が零れてしまいそうで、なかなかお返事が出来ません。
「あんなルーカス見たくなかった、って言うなら、それはもうご愁傷さまとしか言えないっすけど……あいつオレたちといるときは基本あんな感じというか」
「わたくし」
やっとのことで、言葉を絞り出しました。
少しだけ声が震えてしまったけれど、何とか泣き出さずには済みました。
「わたくし、慰めていただく権利なんてありませんわ」
「え?」
「アカリさんに危害を加えるようなことはしないと、お約束しましたのに」
膝の上で、ぎゅっと手を握ります。
手の甲に、ぽたりと滴が落ちました。
「あなたに合わせる顔がありませんわ」
堰を切ったように、涙がぼろぼろと零れます。
ああ、どうしましょう。せっかく、我慢していたのに。
ここへ走ってくる間も……一番最初に頭に浮かんだのは、それでした。
どうしてでしょう。
わたくし、あの時……ルーカス様に失望されることよりも……ジャンさんを失望させてしまうことの方が、ずっと怖かったのです。
わたくしが落ち着くまで、ジャンさんは黙って待っていてくれました。
制服のポケットから取り出したハンカチで涙を拭って、ふぅと息をつきます。
「貴族失格ですわね。取り乱すなんて」
「いや、あれで取り乱さないのは無理だと思うっすよ」
ジャンさんはそう言ってくれますが……ルーカス様がせっかく庇ってくださったのに、きちんと話を合わせられなかったのは、わたくしの落ち度です。
きっとすべてが丸く収まるような方法を、ルーカス様は考えていたはずですもの。
「こんなことでは……ルーカス様に見限られても、仕方ないわ」
「見限る?」
「……結婚の話を白紙にと、侯爵家から父に、申し入れがあったそうです」
ぽつりと零したわたくしの言葉に、ジャンさんが目を見開きました。
そして何だか言いにくそうに、視線を落とします。
「……ルーカスの、ことなんすけど」
ジャンさんが、頬を掻きながら視線を彷徨わせます。
しばらくもごもごと口ごもった後、言いました。
「なんか、侯爵家継ぐの辞めるらしいっす」
「……はい?」
「いや、オレもよく分かんないんすけど」
ぱちぱちと目を瞬きます。
一瞬、何をおっしゃっているのか分かりませんでした。
侯爵家を? 継ぐのを、辞める??
「弟のマルコに家督を譲るとか何とか言って、家を飛び出してきたらしいんすよ」
「そんな、だって、ルーカス様は、嫡男で」
「そうなんすよ」
「ずっと侯爵家の跡取りとして」
「そうなんすよねぇ」
「だから、わたくしも我が家のために、ルーカス様に嫁ぐのだと」
「そうなんすけど」
ジャンさんが、困ったように笑います。
笑いごとではありませんわ。
「聞けば聞くほど、そんなやついるかよって感じなんすけど。……どうも、本当らしいんすよね」
「だって、そんな。貴族としての、義務や、責任や」
涙が一気に引っ込みました。
喉の奥がからからになって、乾いた唇が張り付きます。
「わ、わたくしが、今まで、積み重ねてきたものは?」
わなわなと手が震えます。
何ということかしら。
そんなことが、あっていいの?
そんなことが許されるの?
ルーカス様は……すべてを擲ってまで。
アカリさんとともにあることを、選ばれたというの?
足元がぐらりと揺らぐような心地がしました。
では、わたくしは?
わたくしが信じてきたものは?
投げ捨てられた側のわたくしは、どうすればいいの?
今までの人生で抱いたことのないような、激しい感情が胸の内を暴れまわります。
とても一言では言い表せません。
何で、どうして、どうすれば。
ひどい、苦しい、悲しい、腹立たしい。
言いたいことはたくさんあるのに、言葉が出てきません。
握り締めた手を震わせることしか出来ないわたくしを見て、ジャンさんが遠慮がちに言いました。
「取り乱すのは貴族らしくないってことだったんで。これは、庶民の『お友達』としての提案なんすけど」
そこで、ジャンさんは一度言葉を切ります。
そしてにやりと口の端を上げて、笑いました。
「庶民はそういうとき、『ふざけんな』って言うんすよ」
「ふ、ふざけ……」
思わず口元を手で覆いました。
今まで言ったこともない、汚い言葉です。
ですが、彼の提案したその言葉は、わたくしの気持ちをすべて表すようなものに思えました。
手を降ろして、息を吸い込みます。
「ふ、ふざけんな、ですわ!」
ぎゅっと目を瞑って、意を決して声に出しました。
何故でしょう。妙にすかっとしたような。
気分が不思議と高揚しています。
まだまだ言い足りない、と、そう感じました。
先ほどよりも、大きく息を吸い込みます。
「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんなー!!」
思いっきり大声で叫んだわたくしに、ジャンさんが目を丸くしていました。
叫んだ勢いのまま、ぐるりとジャンさんの方を振り向きます。
「他には!?」
「え?」
「庶民の方は、こういうとき、他にどうなさるの!?」
しばらくきょとんとした顔でわたくしを見つめていたジャンさんが、ふっと噴き出しました。
「……じゃ、庶民のやり方、教えてあげるっす」
◇ ◇ ◇
「ルーカス様!」
「な、なに?」
教室に戻ると、ルーカス様たちも魔法学の授業から戻っていらしたところでした。
ああ、そうですわ。授業を休んでしまいました。
今更ながらに、その罪悪感が仄かに胸を過ぎります。後できちんと、先生に謝っておかないといけません。
揺らぎかけた気持ちを引き戻して、目の前に立つルーカス様を見上げました。
「お、お顔を貸してくださいまし!」
「顔? えーと、こう?」
ルーカス様が身体を屈めて、わたくしに顔を近づけます。
あまりに美しいご尊顔に、一瞬決意が揺らぎました。
いいえ、いいえ、いけません。
わたくしが前を向いて進むためには……これしか、ないのです。
小さく深呼吸して、そして。
ばっちいいいいん!
「ありがとうございますッ!」
振り被った手のひらで、ルーカス様の頬を思い切り、叩きました。
ものすごく大きな音がして、わたくしの方がびっくりしてしまったくらいです。
だって、他人様の頬を手で叩くなんて、初めての経験ですもの。
手のひらがぶつかったときの音に紛れて、何かお礼を言われたような気がしますが……気のせいかしら。
わたくしは自分の左手を胸の前で抱き締めて、くるりとルーカス様に背を向けました。
「こ、このくらいで勘弁して差し上げます!」
ルーカス様の頬を張った手のひらが、じんじんと熱を持っていました。
それ以上に、カッカした頬が熱く感じます。
ちらりと振り向けば、ルーカス様は私を見下ろしていました。
叩かれた頬が、手の形に赤くなってしまっています。ですがルーカス様は、ふわりと微笑んでいました。
「うん。ほんと、ごめんね」
やさしい瞳を向けられて、ぎゅっと胸が締め付けられます。わたくしはつんと顔を背けました。
このままだとまた、涙が零れてしまうかもしれませんから。
ああ、本当に、ルーカス様はもう……戻るおつもりがないのね。
「ありがとう、ソフィアちゃん」
今度こそ、ルーカス様はわたくしにお礼を言いました。
ぽつりとわたくしだけに届くようなその小さな呟きで……わたくしのほのかな恋心と重苦しい義務は、驚くほどあっけなく、終わったのでした。
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