閑話 マルコ視点

「いやぁ、お前にだけ打ち明けると、兄ちゃんの夢は実は運送屋になることだったんだ! だから侯爵家なんか継ぎたくない! 親の敷いたレールの上を走るだけの人生なんて真っ平御免だ! 運送王に、俺はなる!」

「に、兄さん!?」

「親の支配から解き放たれたい! 長男の呪縛からも解き放たれたい! 誰にも縛られたくない! 盗んだ馬車で走り出したりしたい! これぞロックンロール!」

「????」

「ってわけだから、兄ちゃんのためにもそこんとこよろしく頼むよ」


 兄さんがまた訳の分からないことを言い出した。


 ここ数ヶ月、兄さんの様子がおかしい。

 前髪を引っ張り上げて束ねたような変な髪型だし、へらへらとした、気の抜けた態度でいることが多くなった。


 ぼくを無理矢理背負って空を飛んだりもした。どのくらい重いものまで持って飛べるか知りたかった、などと嘯いていたが、それなら麦の入った袋でも持って飛べばいい。

 たぶん嫌がらせだろう。


 時々ぼくにはわからないような言葉を使うこともある。

 学校でつるんでいるという庶民から聞いた言葉なのかもしれない。


 昔から気に食わなかった。

 少しぼくより先に生まれたからというだけで、家を継ぐことを約束された人生。

 そのくせに、つまらなそうな、何にも興味がなさそうな顔ばかりしているのにも腹が立った。

 ぼくより恵まれているくせに。そんなに興味がないのなら、その席をぼくに譲ればいい。


 たしかに兄さんは優秀だったけれど、貴族として大切な人脈づくりの才能は欠けていた。

 それでも人の目を集めるカリスマ性のようなものがあるのは、気に食わないけれど。


 ぼくのほうがよほど、貴族社会をうまく渡っていく術を知っている。

 兄さんよりもぼくの方が、この侯爵家も、領地も……うまく経営していけるはずだ。


 近頃の兄さんの態度は、ぼくを一層腹立たせるだけだった。

 庶民の女に誑かされて、へらへらとして、貴族としての高潔さも忘れてしまって。

 ぼくが喉から手が出るほど欲しいそれを、簡単にくれてやるなどという。

 本当にそんなこと、する気もないくせに。



 ◇ ◇ ◇



 ぼくのその認識が誤りだったと知るのは、それからしばらく経った日の夕食の席だった。


 兄さんが庶民と親しくしていることについて、父さんが苦言を呈した。

 いや、苦言というより、命令という方が正しいだろう。

 「もう付き合うな」と、そう言った。


 貴族に限らず、家長の意見は絶対だ。子どもに逆らうという選択肢はない。

 だが兄さんは。


「俺が誰と友達になっても父さんには関係ないだろ」


 と言った。

 ぼくに言ったのと同じことを、そっくりそのまま父さんにも言ったのだ。


 父さんは怒った。侯爵家の跡継ぎともあろうものが、と、ぼくと似たようなことを言った。

 それに対して兄さんはまた、ぼくに言った言葉と同じことを返す。


「俺、家継がない」


 そこから先は圧巻だった。

 兄さんは立ち上がって、朗々と語り上げた。

 やれ運送屋だとか、長男が向いてないだとか、マルコの方が向いているだとか、誰にも縛られたくないだとか、夜の校舎がどうとか、何とか。


 怒っていた父さんがぽかんと口を開けて、ただ見ているだけしかできなくなるほどつらつらと、怒涛の勢いで意味のわからないことを捲し立てた。

 その場にいた全員が思った。

 ああ、この人は、おかしくなってしまったんだ、と。


 やがて、父さんが小さな声で、絞り出すように言った。


「もういい、好きにしろ」

「え? マジ? やりぃ!」


 勢いよく喋っていた兄さんが話すのを止め、ぱっと表情を輝かせた。

 椅子に座り直して、機嫌良く食事を再開する。

 兄さん以外は、誰も食事に手をつける気をなくしていた。


「あ、じゃあさ、俺寮から学校通っていい? 独り立ちの練習しないとだし」

「……好きにしなさい」

「ほんと? 手続きとかは?」

「こちらで済ませておく」

「あざーっす!」


 母さんが席を立った。

 母さんは泣いているようだった。貴族の妻の手本のような、いつも気丈に振る舞う母さんが泣いているのを、ぼくは初めて見たかもしれない。


 よろよろと部屋の出口に歩いて行く母さんに、父さんが付き添った。

 父さんの顔にも、この場に長く居たくないと書いてある。

 こんなに憔悴した様子の父さんを見るのも、初めてだった。


 ドアが閉まる。

 食堂にはぼくと兄さんだけが残された。

 兄さんはぺろりと食事を平らげると、席を立つ。


 そして部屋の出口に向かう道すがら、ぽんとついでのようにぼくの頭を叩くと、小さく呟いた。


「あとはよろしくな、マルコ」


 その声に、はっと目を見開く。

 振り向くと、兄さんはひらひら後ろ手に手を振りながら、食堂を出て行くところだった。


 その瞬間に悟った。兄さんはおかしくなってなどいなかった。

 兄さんは本気だったのだ。

 長男が家を継ぐ。そんな当たり前のことを覆すには、こうでもしなければ……父さんたちが兄さんのことを見限るように仕向けなければならない。


 ぼくを呆れさせたあの日、兄さんがやたらと嬉しそうに笑っていた理由に思い至る。

 あれは今日という日の予行練習だったのだ。

 こうなることまですべて、兄さんの計算のうちだった。

 父さんも母さんも、ぼくも。兄さんの手のひらの上で踊らされたのだ。


 冷酷で、高潔で、人を寄せ付けなかった兄さん。

 それでも周囲は兄さんを侯爵家の当主に相応しいと持ち上げていた。

 長男だからというのがもちろん大きいけれど……人柄を差し引いても、ぼくなどでは及びもつかないくらい、兄さんは優秀だった。


 ぼくが必死で人付き合いを覚えて人脈を作っても、その差は開くばかりで。

 ぼくはそれが、悔しかった。

 ぼくがどれだけ努力しても手に入れられないものを手にしておきながら、まるでつまらないもののように扱う兄さんのことが。


 でも、兄さんは。

 自分が侯爵家を出て行くという方法を取ってまで……地位も名誉も投げ打つような真似をしてまで、それを、ぼくに託した。

 それまでに、いったいどれほどの葛藤があったのだろう。

 並大抵のことではないはずだ。


 そしてその覚悟の大きさがまた、兄さんにとってこの侯爵家が、ただのつまらないものではなかったことを物語っていた。

 本当につまらないと思っていたなら……わざわざ「よろしく」なんて言うものか。


 あの日、ぼくの頭を撫でた兄さんの手のひらを思い出した。

 頬を涙が伝う。


 さまざまな感情がないまぜになって、一言では言い表せない。

 今まで感じたことのないようなあたたかい感情が湧き上がる。


 だが、それでも一番は、悔しさだった。

 結局ぼくは、最後まで兄さんに勝てなかった。


 こんなのは、勝ち逃げじゃないか。

 勝ち逃げなんて、許さない。



 ◇ ◇ ◇



 兄さんは程なくして、家を出て学校の寮へと移り住んだ。

 父さんが許可したことだ。誰も、止めなかった。


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