閑話 ソフィア視点(1)

「じゃあ次、ルーカスくん」

「…………」

「ルーカスくん?

「ふぁいっ!?」


 隣の席のルーカス様が、弾かれるように立ち上がります。

 どうやら少しうとうととされていたようで、慌てて口元の涎を拭っていらっしゃいます。

 きっと夜遅くまで侯爵家の事業や領地のことで悩まれていたのでしょう。


「続き、読んでください」

「あ、はい。えーと……」


 先生に促されて教科書を手に持ちますが、開いているページが全然違います。

 わたくしは、小声でルーカス様に囁きました。


「37ページ、5行目ですわ」

「……えーと。『この戦争は我が国の歴史の中でも大きな転換期となり、その後の法整備が……』」


 教科書を流れるように読み始めたルーカス様に、ほっと息をつきました。

 未来の妻ですもの。このくらいのサポートは出来て当然ですわ。


「はい、そこまで」


 先生の合図で読むのを止めると、ルーカス様ががたがたと椅子を引き、座り直しました。

 そして教科書に隠れてこちらを向くと、こそっとわたくしに囁きました。


「サンキュー、ソフィアちゃん!」


 ルーカス様が、白い歯を見せて笑います。

 その眩しい笑顔に、きゅんと胸が高鳴りました。


「ルーカスくん。いつもソフィアさんに助けてもらってばかりいないで、きちんと授業を聞きなさい」

「いやー、すんません」

「ソフィアさんも。甘やかすと彼のためになりませんよ」

「は、はい……」

「もう。将来が思いやられるわね」


 クラスメイトたちがくすくすと笑います。

 ルーカス様も苦笑いで頬を掻いていました。


 少し前までだったら、ルーカス様が笑いの中心にいるなんて、考えられないことでした。

 ルーカス様の様子が変わられたのは、この春からです。


 誰も寄せ付けず、怜悧で孤高の存在であったルーカス様が、どういうわけか、とても人懐っこく他人に接するようになったのです。

 そして今までであれば接することを嫌がられたはずの庶民の編入生に対しても、分け隔てなく……いえ、むしろ積極的に話しかけ、あまつさえ行動を共にされるようになりました。


 わたくしを含め皆が驚きましたが……何かわたくしたちでは思いもよらないような、お考えがあってのことでしょう。

 将来領民の上に立つものとして、庶民の心を学ぼうとされているのかもしれません。いいえ、きっとそうですわ。

 さすがルーカス様。思慮深くていらっしゃるわ。


 わたくしとルーカス様の両親は互いに親しく、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきました。

 子供のうちから婚約するようなことは王族以外ではほとんどなくなってしまいましたから、正式には何も取り交わしておりませんけれど……それでも、わたくしも、両親も。

 そして周囲の方々も皆、わたくしとルーカス様がやがて婚約をして、結婚をするものと……そう、信じておりました。


 ですから、ルーカス様が庶民の子にやさしくしていても、仲睦まじく話していても。

 わたくしはルーカス様のご高配に感心するばかりで、さして気にすることも、重く受け止めることもいたしませんでした。


 貴族の妻ですもの。そのくらいで目くじらをたてるような浅ましい女だと、思われたくなかったのです。


 ですが、わたくしの心を動揺させる出来事が起きました。


 ある日、クラスメイトのユーゴ様とスターク様の喧嘩――これはいつものことですけれど――に、ルーカス様が割って入られたのです。

 正直に言ってユーゴ様とスターク様の喧嘩には皆うんざりしておりましたが、同時に諦めてもおりましたので……ルーカス様がわざわざ仲裁役を買って出られたのには驚きました。


 2人を諫めるために、ルーカス様がアカリとかいう庶民の子と向かい合って、「テオシズモウ」なるゲームについて説明して、実践することになりました。

 2人が手を合わせて向かい合い、互いの手を押し合います。


「え、わ、きゃっ!?」


 悲鳴と共に、アカリさんがルーカス様の胸に倒れ込みました。

 ルーカス様が急に力を抜かれたので、勢い余ってしまったようです。


 そんなに簡単に倒れるかしら。アカリさん、力比べでも殿方に負けないくらいなのに。

 一瞬過ぎった意地悪な考えを、慌てて振り払います。いけませんわ、そんなことを考えていては。


 アカリさんの頬が、真っ赤に染まっていました。

 ルーカス様はとても素敵な方ですもの。

 そんな方にやさしく接してもらって、あんなふうに近づいてしまったら……ドキドキしない女の子なんて、いませんわ。


 たとえ庶民であっても、ドキドキする権利くらいは差し上げます。

 叶わぬ恋ですけれど……叶わないと分かった上で、淡い恋心を抱くことまで、取り上げようとは思いません。

 お伽話に憧れるようなものですもの。


 そう自分に言い聞かせて、わたくしは余裕を持った表情を取り繕いました。

 いつルーカス様が、こちらを振り向かれてもいいように。

 未来の婚約者の反応を気にされるようなこともあるかもしれません。

 そんなときに、わたくしが動揺していては、がっかりされてしまうかもしれませんもの。


 ですが、ルーカス様はこちらを振り向くことはありませんでした。

 それどころかアカリさんを抱きつかせたまま、まるでそれが当然のように、ユーゴ様とスターク様に話を続けています。


「る、ルーカス、あの……」

「あ、ごめんねアカリちゃん。ありがとう」


 アカリさんが声を発して、やっとルーカス様はその身体を抱き起こしました。


 まるで壊れ物に触れるかのように……大切なものを扱うかのように、ほんとうに優しく、慈しむような手つきで、彼女の肩に、そっと手を置いて。

 ふわりと浮かべられた微笑みも……やわらかく、嫌悪感も、冷たさも感じられない、ひどくあたたかなもので。


 わたくしは、すぅと血の気が引きました。


 周りの音が遠くなって、目の前の世界から、色が失われていきました。

 目の前の二人の姿が、どこか遠い世界のことのように思えてきます。


 わたくしとダンスをされたとき、そんな表情をされたことがあったかしら。

 そんなに優しい手つきで、触れてくださったことがあったかしら。

 わたくしが、ルーカス様と過ごしてきた時間のうちに……一欠片でも。


 あんなにあたたかなものを、感じたことがあったかしら。



 ○ ○ ○



「あ、」

「おっと」


 少しぼんやりして廊下を歩いていたところで、角を曲がってきた方と危うくぶつかりそうになりました。


 その方は急ブレーキでわたくしとの衝突を避け、一歩後ろに下がります。

 正面からその姿を捉えて、気が付きました。


 アカリさんのお友達の……確か、そう、ジャンさんです。

 ジャンさんもわたくしが誰か気づいたようで、そっと頭を下げました。


「失礼しました」

「い、いえ」


 わたくしの言葉に顔を上げると、もう用事は済んだとでも言うように、そのまま歩いていこうとするジャンさん。

 わたくしは咄嗟に、彼を呼び止めました。


「あ、あなた!」

「……何すか? オレに、何か?」


 こちらを振り向いたジャンさんが、怪訝そうに眉根を寄せました。

 突然呼び止めたわたくしがいけないかもしれませんけれど……そんな顔をなさらなくても、いいのに。


 ルーカス様とは大違い……と思って、ふと、この春以降のルーカス様を基準にしてしまっていることに気付きました。

 それより前のルーカス様だったら、もっと冷ややかな反応をされていてもおかしくありませんもの。


 ジャンさんが首を傾げ、私の顔を見下ろします。

 呼び止めてしまったのですから、もう、後戻りはできません。

 わたくしは頭に浮かんだアイデアを、彼に提案する決心をしました。


「あなた、……わたくしと協力しませんこと?」


 わたくしは緊張で裏返りそうな声を押さえつけて、出来るだけ平静を装いながら、続けます。


「あなた、あのアカリさんとかいう子のことが好きなのでしょう?」


 ジャンさんは何も答えませんでした。

 その瞳が、わずかに細められたような気がします。


「あなたはわたくしとルーカス様がうまくいくように協力する。その代わりにわたくしは、あなたがあのアカリさんとうまくいくように協力して差し上げます」


 クラスメイトとはいえ庶民とこんなふうに話をするなんて……あまつさえ、協力を申し込むなんて。

 少し前のわたくしだったら、考えつかなかったことでした。


 いえ、たとえ考えたとしても、実行になど移さなかったでしょう。

 ですが、今は。


 脳裏に、アカリさんに笑いかけるルーカス様のお姿が浮かびます。

 ルーカス様がなさるなら、わたくしだって。


「悪い話ではないでしょう?」

「……オレは」

「庶民は庶民同士、貴族は貴族同士。本来あるべき姿ですわ。庶民ならともかく、わたくしたち貴族にとって、恋愛や結婚は本人だけのことではありませんもの」


 庶民であるジャンさんには分からないかもしれませんけれど……貴族とはそういうものなのです。


 わたくしはずっと、ルーカス様と結婚して……我が伯爵家に利益をもたらすために。そう言い聞かせられてきました。

 それが当たり前で……そして貴族として生まれたわたくしの、運命さだめなのです。


「祝福されない結婚なんて、誰も幸せになりませんわ」

「…………勘違いしてるみたいっすけど」


 わたくしの言葉に、ジャンさんがゆるゆると首を振りました。


「オレは、アカリのことはそういうふうには見てないっす。たしかに幼なじみっすけど、妹みたいなもので」

「いいえ、そんなはずがありません」


 即座に否定いたしました。

 ジャンさんが少し刺々しい言葉で、言い返します。


「どうしてアンタにそんなことが分かるんすか?」

「恋をしているかどうかなんて、見たら分かりますもの」


 だってわたくしも……ずっと、ルーカス様を見てきたのですから。

 そう答えたわたくしに、ジャンさんはぐっと口を噤みました。


「……ルーカスは、オレが協力したところでどうにかなる奴じゃないっすよ」


 しばらくわたくしの顔を見つめていたジャンさんが、ふぅとため息を吐きました。


「オレもあいつが何を考えてるのか、全っっっ然、分かんないんすから」

「それでも」


 わたくしは、スカートの前で揃えた手を握ります。


 こんなことをしても、何も変わらないのかもしれません。

 けれど……だからといって、「何もしなくていい」のではないと思うのです。


「わたくしはルーカス様の妻になるために、これまで過ごしてきたのです。たとえどんなことでも……わたくしに出来ることを、諦めたくありません」


 わたくしは、ジャンさんに向かって頭を下げました。


「お願いいたします。協力してくださいまし」

「ちょっ、やめてください! ……あー、もう」


 ジャンさんがわたくしに一歩近づいてきました。


「分かったっすよ。だから早く頭上げてください。こんなとこ誰かに見られたらほんとにヤバいんで」


 慌てた様子で言われて、わたくしは顔を上げました。

 たしかに他の方が見たら、何事かと驚かれるかもしれません。

 ジャンさんが頭を掻きながら、またため息を吐きます。


「できる範囲で協力するっす。……その代わり、アカリに危害を加えるようなことはナシっすよ」

「分かっていますわ」


 彼の言葉に、頷きます。

 協力するしないは別にして、誰かに危害を加えるような行いは、いたしませんけれど。


「……はぁ。みんな、あいつのどこがそんなにいいんすかねぇ」

「ジャンさんは、ルーカス様のことがお嫌い?」


 言ってしまってから、それはそうかもしれない、と思い直しました。

 だって恋敵ですもの。好きになれなくて当然ですわ。


 ですが、彼は困ったように笑って、首を振りました。

 その笑顔は、何故でしょう。

 少しだけ……嬉しそうに見えました。


「どーにも嫌いになれないから、困ってるんすよねぇ」


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