井戸

 離れの裏庭には井戸がある。

 埋めるのも手間だし、小さい子供がいるわけでもないなら落ちる心配もない、蓋をしておけばいいだろうと、トタンの切れ端を乗せただけの井戸だ。

 そんな扱いなので、錆びたトタンに穴が開いても誰も直すことはなかった。夏場にその穴へ顔を近づけると、ひんやりとした風が吹いてくる。クーラーもない家で涼むにはちょうど良い。日当たりが良くないためにじめじめとした裏庭自体は好ましくないものの、井戸から吹き上がる風は心地よい。


 高校生の夏休みに、その井戸から生白い腕が出てくるようになった。あの風と同じようにひやりとした、水のように冷たい肌の細い腕は、数度頬を撫でるだけですぐに帰ってしまう。右腕で、やはり細くしなやかな指先と、整った薄い爪が生えた女の腕だった。

 不思議と恐ろしくはなく、それよりも心地よかった。暗闇に落ちていく腕の先に体はなく、長い腕だけが蛇のようにぞろりと這い出す。この腕の持ち主はどんな顔をしているのだろう、と想像する。美しい指の形と頼りない細腕に、儚げな女の姿が浮かぶ。

 手のひらの全てで、確かめるように輪郭をなぞる腕がすうと離れ、井戸に落ちていこうとしたとき、咄嗟にその腕を掴んでしまった。待って、と口走り、腕は驚いたのかびくりと震え、井戸からは冷えた風がぶわりと吹き上がる。

 そのとき、なぜかすぐ近くまで彼女が来ていると思った。錆びたトタンの隙間から覗いた暗闇の先は、光が届かないだけで今までも近くに来ていたのかもしれない。慌ててトタンを押さえる重石ごと引き剥がし、井戸の底を覗き込む。

 期待に弾む胸で見下ろした先には、紅をさした大きな唇と、濡れた肉壁がみえた。舌があるべき場所から伸びた白い腕を掴むのは自分で、その巨大な口よりもはるかに小さな双眸は慈しむように細められ、瞼の先に広がる闇と目が合う。

 冷え切った吐息が身体中をざわざわと撫で、アブラゼミの叫びだけが変わらずに響いていた。

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