おだいじに

 談話室を通りがかる先生を呼び止めると、いつも振り向く男の人がいる。

 先生、と呼べば必ず振り向いて、真っ白に笑う。だから先生を呼ぶときには名前をつけなければいけない。長谷川先生、中谷先生、柳先生。精神科の先生は多くない。でも、いつかあの男の人と同じ名前の先生が来たらどうしよう。

 ほづみさん、と看護婦さんに呼ばれる男の人は、眉を顰めて「先生ってつけないと駄目だろう」と叱る。悪戯した子供を諌めるような、小さな怒りを優しい声色に乗せる。看護婦さんは困ったように笑い、「ほづみ先生」と呼び直す。男の人は満足そうに、ポケットから取り出した紙切れを渡す。そうして、紙切れを受け取った看護婦さんはそれをそっと屑かごに捨てる。

 紙切れにはなにも書かれていない。コピー用紙を千切っただけの、ただの紙切れだった。

 私は一度だけそれを拾い、病室に持ち帰った。なにかが書かれているはずだと思っていた。しかし、いくら目を凝らしてもそこにはなにもない。

 看護婦さんがそうしたように、屑かごに捨てた。それを、病室の扉から男の人がじっと見ていると気づいたのは屑かごの底にひらひらと紙が落ちた直後で、背筋が冷たくなる。

 淀んだ目は長い間こちらを眺め、吐き捨てるように「馬鹿にしやがって」と呟く声が聞こえた。睨みつけるわけでも悲しむわけでもなく、感情を読み取れない顔はすうと廊下の暗がりに消えていく。

 それからも、変わらずに男の人は先生と聞こえるたびに振り向く。私は先生を呼ぶことができなくなった。男の人は、私の声で先生と聞こえるたび、あの温度のない顔でじっと私を見るようになったからだ。爬虫類や昆虫に似た視線は脳裏に纏わり付き、やがて目を閉じていても見えるようになった。

 眠れなくなり、呼ばれるようになり、笑い声が聞こえて、頭のなかにラジオがあるようになって、私は格子の窓がついた部屋にいれられた。ようやく訪れた静寂に、それでも私の頭は元に戻らない。

 排水管から鼻歌が聞こえてくる。私の喉が震えると、排水管が歌うのだ。そしてそれは、あの男の人の声をしていた。

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