自由
帰宅すると飼い犬の姿が消えていた。軒下の犬小屋の前では、鎖に繋がれた首輪の隣で膝を抱えた男がいた。足音でとっくに気付いているだろうに、男は空っぽの犬小屋を見つめているだけでこちらを振り向こうともしない。
「こんばんは。どなたですか」
「……こんばんは。穂積といいます」
「そうですか。穂積さん、ここはあなたのおうちではありませんよ。酔っていますか?」
「素面です。肝臓悪くして、もう飲んでません」
「そうですか。では、帰っていただけませんか。それと、うちの犬がいないようですが、穂積さんがなにかしましたか」
ずるずると座り込んだままこちらに向き直った穂積さんは、小さく溜息をつきながら首輪を掴み、顔の前で持ち直すとその輪のなかから私を見る。
「自由にしてやりました」
「自由に。……逃したと?」
「自由にしただけです。逃げたかは知りません」
「……はあ。まあ、三十分くらいで帰ってくるとは思いますが。じゃあ帰ってください。断るなら通報しますよ」
幾分脅すつもりで口にした言葉に、穂積さんは特に動揺するそぶりを見せなかった。手持ち無沙汰なのか、両手で掴んだ首輪をくるくると回し始め、その度に地面と擦れた鎖がじゃらじゃらと音を立てる。落ち込んでいるのか、元々の顔つきかわからない脱力しきった瞼の奥でぬるりとした黒目は変わらずにこちらを眺めている。
暗がりに目が慣れ、穂積さんはどうやらスーツを着ているようだと気付く。サイズが合っていない、体つきより少し大きなジャケットには皺が付いていた。
「終電なくて。財布も」
「尚更警察行ったほうがいいですよ」
「俺は犯罪者なんでしょうか?」
「どうでしょう。勝手に人の家に入ったのは、多分なんらかの罪でしょうけど」
「……あ」
私の後ろを見た穂積さんの目が僅かに開く。どうしたのかと振り返れば、飼い犬が困ったようにこちらを見ていた。
「犬も帰ってきたので。交番なら駅の方にありますよ、敷地を出たら右にまっすぐ、突き当たりを右に。二十分も歩けばつきますから」
「自由にしてやったのに……」
「自由にした上で帰ること選んだだけだと思いますよ。ほら、立って」
「おれの、俺の人生なんてやりたいことひとつもないのに……なにしたらいいかわかんねぇのに、お前、犬、畜生……っ」
「右ですからね。右行って右」
腕を掴むと案外素直に立ち上がった穂積さんは、首輪を地面に叩きつけるとぐすぐす鼻をすすりながら敷地の外に向かっていった。酔っていないと口にして、実際アルコールの匂いはひとつも感じなかったが、足取りは危うさがあった。摺り足で怠そうに歩む姿はよく見ると靴は泥で汚れているし、スラックスのポケットからは萎びた花とくしゃくしゃのスーパーの広告がはみ出している。
飼い犬は怯えきって穂積さんを避け、避けた犬に穂積さんは「お前なんか知らねえからな」と吐き捨てた。あんなにしゅんとした犬の姿を見たのは初めてだった。
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