第32話 今日のラッキーアイテムは金属製のバケツ。


   





「ちょっと!何とか言いなさいよ!」



 焦茶色の髪を後ろで一つに束ねた少女が叫ぶ。憂に水を掛けさせよう、と言いだしたのはこの少女だった。いつも紅緒の顔色を窺っていたくせに、こんな大きな声が出せたんだな、と他人事のように思う。



(……あー、うざ。)



「ねえ、護衛役に決まった子が、大怪我したらどうなるだろうね……?」

「そうだ!……………紅緒、憂に怪我させてきなさいよ。」



(………あなたたち、鏡見てみたら?すっごい醜い顔してるわよ。)



「ねえ、パパから聞いたんだけど、あんた家から、護衛役になれなかったら勘当だって言われてるんだって?」

「え、何それ。初耳。」

「親から見捨てられたの??はっ、ざまあないわね!」



(………そうよ。)



「じゃあ、せめて私たちの役にたってから消えなさいよ!」

「そうよ!雑魚のくせに、私たちを騙してたなんて許せない!」



 馬鹿だなあ……。そんなことしても、もうどうにもならないのに、分からないなんて随分幸せな頭ね?と紅緒は思ったのだが、口にも出していたらしい。真っ赤になった少女たちの一人が、水の入ったバケツに手をかける。



(………………呆れた。それしか出来ないわけ?)



「……っ反省、しなさいよっっ!!!」



 手が滑ったのか、意図的になのか分からないが、バケツごと投げつけられる。スローモーションのように近づいてくるバケツを見ながら、紅緒は思う。



(……も、どうでもいいや。)



 父と母の顔が脳裏に浮かぶ。想像の中の二人は、怒ってさえいなかった。紅緒のことをいないモノとして見ている。……静かな、目。



(……あたしは、何がしたかった?何者になりたかった…………?)



 父と母が後ろを向き、歩き去っていく。



(………あたしは、お父様とお母様に……喜んで、欲しかった。)



 手を伸ばしても、名前を呼んでも、許しを乞うても、二人は振り返ってくれない。どんどん遠ざかっていく。



(そのためだったら、何を犠牲にしても、何を傷つけても、後悔はしない。)



 ついに、二人は跡影もなく消え去る。



(…………でも、もう終わり。もう、お父様とお母様があたしを見てくれることは、ない。)



 ――なら、


 ―――もう、


 ――――どうでも、


 ―――――いっか。














 ガツッ……パシャッ………………





「なっ、」

「えっ……えっ……」

「あっ、ああっ、ひ、ヒィ………………」







「あ、アンタ……」



 紅緒は、目を瞑るなんて情け無いことはしない。だから、目の前で起こったことは、一部始終よく見ていた。



 紅緒にバケツが近づいたとき、横から滑り込んでくる黒い影があった。影は紅緒の前に立ちはだかり、まるでそう、紅緒を守るように両手を広げた。雛を守る親鳥のようなその仕草。紅緒がついぞ、実の親からはしてもらうことがなかった、「守られる」という行為。



 そうして………………



 影は、紅緒の代わりにバケツを被った。



 …………。

 ……………………。



 もう一度言おう。


 影は、紅緒の代わりに、バケツを被った。





■■■





(え、ダサくない??)



 視界が塞がる薄暗闇の中、稀子は思った。

 ぽたぽた、と滴り落ちていく雫たち。ひとーつ、ふたーつ、と数えたくなるほどには、現実逃避をしたい。



(えっ……なんで……ジャストで頭??)



 ぶらぶらと揺れるバケツが間抜けすぎる。静まり返った周囲。沈黙が怖い。


 紅緒にバケツが投げつけられるのを見て、つい身体が動いてしまったのだが、その時点では、稀子は無意識に身体が動いた自分のことを誇らしげに思っていた。「いやー、大人として、子どもが傷つけられそうになっていたら、当然守りますよね!私はそういう大人になりたい!」とかなんとか。


 ちょっと自分に酔っていたので、バケツが頭に鈍い音を立てて被さった時は、何が起きたか分からなかった。


 そして、ちょっと高尚なことを考えていた分、想像上の自分(かっこよく身代わりになった自分)と、現実の自分(バケツを被った間抜け)のギャップに、恥ずかしくて埋まりたくなった。



(……私さ?紅緒ちゃんやこの子たちのためを思って割り込んだわけじゃなかったよね?身代わりになれる自分に酔ってたよね??ああ、恥ずかしい。めちゃくちゃ恥ずかしい……何が大人だよ!大人として恥ずかしいよ!!埋まりたい……穴があったら入りたい…………。)



 そしてものすごく反省した。

 事情も知らない他人が、ずかずかと物知り顔で入っていくことではなかったもしれない。会話を聞いていると、紅緒も他の少女たちも、いろいろ抱えていることが多そうだ。



(うう…どんな顔で見られてるのだか…………最早バケツとりなくない……)



 しかし、それではいつまでたっても話が進まない。ここはもう一息に、と稀子はがつ、と両手でバケツを掴んだ。



「ひっ……」

「あ、あう……」

「……っ!……っ!!」



 しかし、掴んだところでもう一度、稀子に羞恥心が沸き起こる。そういうことって、よくあるよね?洋服屋さんで、店員さんに、あの、試着室入ってもいいですか?て声かけたいけど、なんか忙しそうだしな……って理由をつけてUターンみたいな………………とかなんとか考えているうちに、稀子に自覚はないが、バケツを掴む手がぶるぶると震えていた。



「……ッッ」

「ふ、ふええ……」

「……ァーーー」



(はっ、現実逃避に夢中になってた…………)



 一気にとるような気分じゃなくなったな……もうあれだ、ゆっくりいこう、ゆっくり。と稀子はそれはもう、ゆっくり……ゆっくり……バケツから顔を出した。



「  」

「  」

「  」



 鈍色に光るバケツをがっしりと掴む両手。

 水に濡れ、白い顔に張り付く黒い髪。

 にやり、と歪む口もと。



(あ、あは……恥ずかしいな……せめて笑ってくれないかな……。)



「 ァァァ」

「ゴ、ゴメンナサイ」

「ユゥ、ユユシテ……」



 三人の少女たちは脱兎の如く逃げ出した。後に残されたのは、稀子と紅緒だけ。



「あ、あれ?……え、ええ……最近の若者の情緒難解すぎん?」

「…………………。」





 



 

 

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