3、

 高橋さんが目の前に立っている。

 心臓がどくどくと痛い。頭が真っ白になる。

「心配かけないでよ、もう」

 高橋さんがあたしの手を強引につかむ。戻るなんて嫌なのに、力が強くて振りほどけない。物陰に入った途端、顔を殴られる。

「こんなことをした柚香が悪いんだからなっ。あんな女に誑かされて、ほいほいついていきやがって……」

 なんで高橋さんがそれを知っているのか。聞く間もなく、こぶしが降り注ぐ。

 ゆず、と振り起されて目が覚めた。

 ――夢。

 久しぶりの悪夢だった。瑛ちゃんと暮らし始めてから、少しずつ見なくなっていたのに。

 あたしは瑛ちゃんの腕の中にいて、前髪が汗でべったり貼りついていた。零れた涙が瑛ちゃんのスウェットを濡らす。

 落ち着くまで瑛ちゃんはあたしを受け止めてくれた。お水を飲ませて、いっぱい泣いたからねと、蒸しタオルを目にあててくれた。瑛ちゃんはどこまでもあたしを慈しむ。あたしは瑛ちゃんに何をあげられているんだろう。瑛ちゃんが見せようとしないから、あたしは彼女の欠落を知らない。

 初めてこの家に泊まった日、瑛ちゃんはひとりで住んでいるはずなのに、部屋には二人分の生活を受け入れるだけの用意があった。長身の瑛ちゃんには合わないサイズの服もあった。予備の歯ブラシを受け取りながら、前にもこんな風に拾われた子がいたのかなと思った。

 どうしてこんなことを、今思い出したんだろう。


 次の日、仕事に向かおうとする瑛ちゃんに、あたしは初めて駄々をこねた。仕事になんていかないで。一緒にいて。瑛ちゃんは苦笑しながら、うーん、と躊躇うそぶりを見せた。

 瑛ちゃんは優しいけれど、決してあたしと同じ場所には降りてこない。岸の上から、溺れているあたしに手を差し伸べるだけ。決して一緒に溺れてはくれない。同じ苦しさを共有してはくれない。

 一緒に溺れるよりそっちの方がいいんだってことは、理性ではわかっている。瑛ちゃんは賢い。だけどそれが、時々、たまらなく寂しい。

「ちょっと待ってて」と言って、瑛ちゃんがあたしの頭をぽんぽんと撫でた。どこかに電話をかける。

「もしもし。今日なんだけど、ちょっと風邪ひいちゃって。……うん、お腹にくるやつ。伝染したら悪いからちょっと休ませて」

 うっすらと相手の声も聞こえてくる。女遊びばっかりしてるからだろ、なんて声が聞こえて、心臓がどきんと跳ねた。

「やだなあ、今はしてないよ。……じゃあ、そういうことで。埋め合わせは後日。ごめんね、迷惑かけて」

 迷惑。あたしは迷惑なんだろうか。あたしなんていなくなった方がいいんだろうか。――今日はだめだ。思考がどんどんネガティブな方に引っ張られてしまう。

 瑛ちゃんがスマホをことんと置いた。今回だけだよ、という瑛ちゃんは、微笑んでいたけれど、少し困った顔をしていた。

 瑛ちゃんはそれから、温かいお茶を入れてくれた。甘い香りのするハーブティーだ。飲むと少し、ざわざわしたものが落ち着いていく。

 それからの休日は夢のようだった。一緒にホットケーキを作って朝ごはんに食べた。瑛ちゃんの好きな昔の洋画を、ソファに並んで座って観た。お昼は出前をとった。瑛ちゃんに何度も抱きしめてもらった。夢のような甘美な時間だったから、胸の中にある少しの孤独感が、余計に冷たかった。

「ゆずは何をそんなに怖がってるの」

 そっと髪を撫でられる。無意識のうちに肩が強張っていたことに、その時気がついた。

「あたし、迷惑かな」

「全然。頼ってくれるのは嬉しいよ」

 瑛ちゃんが優しすぎて、ますます、負担になっているのではないかと不安になる。

「じゃあさ。あたしが元気になったら、瑛ちゃんはあたしから離れちゃう?」

「まさか」

 瑛ちゃんは薄く笑うけれど、その中に一瞬、物悲しげな色が映った。瑛ちゃんのそんな表情を初めて見た気がした。

「元気になって離れてくのはいつも、女の子のほうだったよ」

 あたしはじっと瑛ちゃんを見つめる。聞きたい? と言うので、こくりと頷いた。

「じゃあ一本、つき合って」


 かちり、とライターの音がする。マルボロ・メンソールの上品な白が、瑛ちゃんの指にはよく映える。瑛ちゃんは煙草の力を借りないとうまく自分の話ができないのかもしれない。一本、と言ったのに、煙草は早いペースで灰になっていく。

 煙草を初めて吸ったのは、瑛ちゃんと初めて寝た夜だった。大人だから一度くらい煙草を吸ってみたかった。月明りに照らされながら、悪いことをしている気がして、心が躍った。瑛ちゃんの顔を染めるオレンジ色がきれいだった。

 瑛ちゃんの八ミリの煙草はあたしにはキツすぎて、だけど瑛ちゃんと一緒にベランダに並んでいたくて、今は一ミリの細い煙草を吸っている。ゆずの手はきれいだから細い煙草が似合うね、と瑛ちゃんが言ってくれた時は嬉しかった。

「言っても、特に話すことはないんだけどね」

 瑛ちゃんは少し照れくさそうで、なんだか新鮮だ。

 小春日和というのか、風は冷たいけれど、ベランダに降り注ぐ日差しがあたたかい。

「だいたい、さっき言った通りだよ。私が好きになる子は、どっかで欠落がある子ばかりで――そのへん、茜に対して人のことは言えないのかもな」

 急に茜さんの名前が出てきて、ざらりと心が擦れる。

「ゆずみたいに彼氏からDVされてたり、家庭でひどい目に遭ってたり、何か深いトラウマを抱えてる子ばかり、気づくと選んでた。私は何か依存してくれるものを探してたのかもしれないし、それで自尊心を満たそうとしたのかもしれない」

 妙に自嘲的で、露悪的な口調。何も言えないでいると、だけどね、と瑛ちゃんが煙草に口をつける。一本目は早くもなくなりそうだ。灰を落として、瑛ちゃんは二本目に火をつける。

「私がどれだけ愛を注いだつもりでも、女の子は傷が癒えると、自分から離れていくの。これ以上迷惑はかけられないからって」

 沈黙が苦しい。あたしは無意味に煙を吸い込む。深く吸いすぎて、少しむせそうになる。 苦味が口の中に満ちていく。

 瑛ちゃんとの沈黙は、いつだって優しかったのに。こんなことは初めてだ。

「ゆずもさ」

 静寂に不自然に声が割り込む。何かを話そうと必死なのが、肌で伝わってくる。

 ゆずも離れていっちゃうの、だろうか。私を一人にしないでと縋られるなら、悪い気はしなかった。

 けれど、続く言葉は予想だにしなかったものだった。

「私から離れたくなったら、いつでも離れていいんだよ」

 え、と口からこぼれるのと同時に、煙草が指先から落ちていった。燃えさしの煙草は地面へゆっくり落ちていく。ああ、後で拾いに行かなきゃ。そんなことを考えるのは、目の前の言葉から逃げたいからかもしれない。

 まるで、別れようと言われたような気分だった。胸がきりきりと痛い。

「どうして、そんなこと言うの? 瑛ちゃんはあたしが離れたら寂しくないの?」

「寂しいよ」

 きっぱりと断言する。ならどうして、という震え声を、彼女は遮る。

「でも、私にゆずを縛る資格はないし、離れようと決めた人に行かないでって縋るほど、相手の心は離れていく。……ゆずも彼氏の束縛が嫌だったでしょう?」

「でもっ」

 それきり言葉が続かない。

「自由と同じだよ。求めようとすればするほど、苦しくなるだけで、離れてしまう。あなたには、私からも自由でいてほしい。だから、離れたくなったら離れていい」

 それが瑛ちゃんなりの優しさであり愛なのだろう、ということは痛いほどわかった。だけどあたしは苦しかった。彼女には、もっと身も蓋もなくあたしを求めてほしかった。

 これもきっと、あたしのわがままなのだろう。

 瑛ちゃんは大人だ。何かを諦めた方が楽だということを、どうしようもなく学んでしまっている。馬鹿な政治家の差別発言だって、瑛ちゃんは呆れたように笑うだけで、受け流してしまう。

「……ねえ、瑛ちゃん」

 ベランダの手すりにもたれる。涙がひとりでに零れる。眼鏡をとって水滴を拭う。瑛ちゃんが頭を撫でようとしたから、あたしは頭を振って振り払う。瑛ちゃんの悲しげな顔は見なくてもわかる。

「瑛ちゃんの初恋の人は、女の子だった?」

「……うん」

 あたしが何を言いたいのかは察しているのだろう。瑛ちゃんは小さな声で頷いた。

「茜さん?」

「どうかな」

「誤魔化さないで。そうなんでしょう?」

 瑛ちゃんは溜息と一緒に煙を吐いて、うん、と低く呟く。

 自分で聞いておいて勝手に傷つくあたしは自分勝手だ。

「まだ好き?」

「そうだね。友達として」

 瑛ちゃんはやっぱりはぐらかすような言い方をする。

「気持ちは伝えないの?」

「伝えたってどうにもならない」

「わからないじゃん」

「どうにもならないよ。あの子は男が好きなんだから。私が女の子を好きなのと同じ。そのくらいどうにもならない」

 瑛ちゃんの感傷が、煙と一緒に流れていく。

「実らない初恋なんて山ほどあるよ」

 声はやっぱり、何かを諦めたような色をしている。

「気持ち、伝えてよ。茜さんに」

 これは嗜虐心だ。仕事に行かないでと言ったのと同じわがまま。あたしは瑛ちゃんを傷つけようとしている。好きで好きでたまらないのに。

 あたしはわざと、瑛ちゃんが一番聞きたくない言葉を使った。

「じゃないとあたし、瑛ちゃんを嫌いになりそう」

 このまま心の片隅に茜さんがいるままなんて嫌だ。これはあたしの身勝手だけど、仮にあたしが瑛ちゃんだったとしても、そんな気持ちで誰かとつき合うのは嫌だ、と思う。だって苦しいじゃないか。これはたぶん責任転嫁で、中心にあるのは嫉妬と怒りだ。

 瑛ちゃんにあたしだけを見てほしい、という。

 傷つけているのはあたしのはずなのに、涙はあふれて止まらない。ず、と洟をすする。泣くのはドラマみたいにきれいにはいかない。

「約束してよ」

 振り仰いだ瑛ちゃんの顔は、涙でぼやけてよく見えない。

「瑛ちゃんだってあたしに縛られなくていいんだよ。茜さんのほうが好きなら、そっちにいったっていいんだよ。結果はどうなったっていいの。気持ちを伝えてほしい。そのうえで、あたしと一緒にいたいかどうか選んでほしい」

 長いこと考えた後、わかった、と瑛ちゃんは静かに言った。そのあと、煙草を置いて、ぎゅっとあたしの身体を抱いた。

「これだけは信じて。私はゆずが世界で一番好きだよ」

 わかってる。わかってるから、怖いんだ。


「じゃあ、行ってくるね」

 ひらひらと手を振って、瑛ちゃんは例のモスグリーンのコートで出かけた。ロングコートにヒールブーツは、瑛ちゃんの長身が際立ってかっこよかった。行ってらっしゃい、とあたしは精一杯余裕ぶって見送った。

 ドアが閉まった途端、あたしは膝から崩れ落ちそうになった。静けさと不安がどうしようもなく襲ってくる。しばらくそわそわしていたけれど、あたしは自分のコートをとって、靴を履く。

 これは彼女の信頼に対する裏切りだ。それでも跡をつけずにはいられなかった。どうしても彼女の行く末を見守りたかった。それがあたしとの離縁なら、それでもいい。瑛ちゃんが幸せになれるなら。苦しいけれど、それでもいいんだ。無理してあたしのところにいるよりは。好きだからこそ自由であってほしいという瑛ちゃんの気持ちが、今なら少しだけわかる。

 夜の街は寒い。冷えた風が無機質なビルの間を抜けていく。すれ違う人々。腕を組み合って歩く男女。彼らは寒そうだけど幸せそうで、あたたかそうで、あたしは余計に心細い。

 瑛ちゃんのぴょこんと飛び出た長身は、雑踏の中でも簡単に見つけられた。一七五センチある瑛ちゃんは、ヒールを履くと一八〇を超えてしまう。その上銀髪。瑛ちゃんとすれ違った人が思わず振り返るのを見て、ふっと笑う。どうだ、あたしの恋人は素敵だろう。

 瑛ちゃんは電車をのりつぎ、とある店に入った。そおっと遠くから中を覗くと、中には茜さんらしき人も見えた。目が合いそうになって、あたしは慌てて物陰に隠れる。

 そのまま一時間、二時間経った。瑛ちゃんたちは店からなかなか出てこない。

 あたしは手をこすり合わせる。吐く息の白さが寒々しい。手足の先は随分前から感覚がなかった。あたたかい場所に入りたい。瑛ちゃんと一緒にあの家に帰りたい。

 待ち焦がれるほどに、時間が経つのは遅くなる。

「お姉さん、寒そうだね」と声をかけられたのは、そんな時だった。

 声の主は、若い男の人だった。夜闇に溶けそうな真っ黒な髪。はっきりとした切れ長の目は、どこか冷たい。息を呑むほど美しい造形なのに、怖い、と思ってしまう。

「暇ならあったかいお茶でも飲まない? おごるよ」

「いいです」

 立ち去ろうとしたら、目の前を塞がれた。壁に片方の肩をつけながら、彼は不敵に笑う。外国の映画みたいなその所作が、妙に様になっていた。

「どう見たって寒そうじゃん。風邪ひいちゃうよ?」

 笑みに差した翳に、既視感があった。

 ――私が、悪い大人なんだけどな。

 悪い、大人。間違いない。

「人待ち? ならなおさら、あったかいとこ入ろうぜ」

 どうしよう。

 ナンパ、だろうか。こんなことをされたのは初めてだ。どうしよう。どうあしらったらいいんだろう。あたしは瑛ちゃんを待たなきゃいけないのに。

 おろおろしていたら、「ちょっと」と馴染みのある声がした。

「瑛ちゃん!」

 あたしは瑛ちゃんに縋りつく。

「ゆずってば、こんなところに来てたの? 馬鹿だなあ」

 瑛ちゃんが肩を抱き寄せる。瑛ちゃんの体温に、ゆるゆると緊張がほどけていく。

 瑛ちゃんは男の人の目を見て、はっきりと言った。

「人の女の子に手を出さないでくれる?」

 男の人は興がそがれた顔をする。瑛ちゃんと並ぶと、男の人の方が少し背が低い。

「なら名前でも書いとけよ」

「あら、印ならたくさんあるけど?」

 ね、と瑛ちゃんが首から腰をなぞってくる。瑛ちゃんがいつも強くキスをするところ。あたしはぽっと顔に血が上って、すぐに暑くなってしまった。

「陽介! 何やってんのあんたはもう」

 続いて茜さんが店から出てきた。ごめんね、とあたしに優しく微笑む。

 そうか、この人があの「女癖が悪いミュージシャン崩れ」か。確かに女癖は最悪だし、抜群に顔がいい。

 帰ろうか。あたしにだけ聞こえる声で、瑛ちゃんが言った。その声はあまりにいつも通りで、彼女の行動がどんな結果になったのか、あたしには想像がつかなかった。


 帰りのタクシーの中で、瑛ちゃんは窓の外ばかり見ていた。何か話しかけるのが怖くて、あたしは瑛ちゃんの横顔を見ながら、ずっと黙っていた。

「ずるいよね」

 不意に、瑛ちゃんが言った。聞いたことのないほど冴え冴えとした声だった。

「私が渇望してもどうにもならなかったものを、あの男は持ってるんだもの」

 それは、男の身体だろうか。あるいは――茜さん。

 意味を問いただすことはできなかった。

 玄関扉をくぐった途端、瑛ちゃんはあたしにキスをした。唇からはいつもと違う口紅の味がした。

「成功したの?」

「ううん。ふられた」

 嘘。ならなんで、

 思考がまとまる前に、瑛ちゃんがあたしの身体に手をまわした。

 感じたことがないほど強い力だった。ぎゅううっと、痛いほどに身体が締めつけられる。圧迫されて息ができない。背中に回された瑛ちゃんの手はかすかに震えている。こんな風に乱暴に、力強く抱きしめられるのは、初めてだった。瑛ちゃんのやわらかな胸から、どくんどくんと鼓動が聞こえてくる。

「『これで許してくれる?』ってキスされちゃったよ。ゆずに怒られちゃうね」

 ……茜さんもどうやら、悪い大人、だったようだ。

 魔性だなあ。唇のシックな赤色を思い出す。

 本当に素敵な人だ。憎たらしいほどに。

「……がんばったね」

 あたしはうんと手を伸ばして、瑛ちゃんのさらさらの髪を撫でる。

「うん」

 瑛ちゃんの声は潤んでいて、子供みたい。

「あたしが、離れてもいいやって思う?」

「思わない」

 思わず唇が綻んだ。今あたしも悪い顔をしているのかもしれない。

「……なんであんなクズなんだろうなあ」

 瑛ちゃんの吐息が熱い。

「何がいいんだろうなあ。たぶん男だからだよなあ。顔なら私も負けてないと思うんだけどなあ……」

「うんうん。瑛ちゃんはかっこいいよ」

 瑛ちゃんの泣き言が珍しくて、いいぞもっと言え、とあたしは少し楽しくなる。

 あたしは瑛ちゃんを強く抱きしめ返す。瑛ちゃんの体温が、身体に馴染んでいく。

 今日はめいっぱい彼女を甘やかそう。一緒にごはんを作ろう。映画を見よう。普段は瑛ちゃんがあたしにしてくれる甘いキスを、あたしからもいっぱいしよう。

 瑛ちゃん。

 世界で一番、大好き。

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