2、

 瑛ちゃんと出会うまで、あたしはうまく息ができなかった。

 特段不幸な生まれだったわけではない。両親と弟のいる四人家族で、家族だからこそ煩わしい部分はあっても、虐待じみたひどいことをされた記憶はない。ちょっと口うるさい母、あまりデリカシーのない父と、生意気だけど出来のいい弟。そんなに裕福でも貧乏でもないありふれた家。だけどあたしはあそこにいると、言葉にできない何かで息が詰まった。

 中学生の時に好きな女の子がいた。すごく仲が良くて、手を繋いで一緒に帰っていた。友愛と性愛の区別は今でもつかない。大好きな友達で大好きな人間だった。

 ある時、母が下校中のあたしを見て、「ああいうのみっともないから、やめたほうがいいよ」と忠告したことがある。

「もう小学生じゃないんだし。そういう人だと思われたら、どうするの」

 心配そうな声音を聞いて、どきん、と胸が痛んだ。その時感じたのは違和感だけで、何がちくりと棘を刺したのか、当時のあたしはわからなかった。

 父も母も普通の人だったけれど、同性を愛する、ということに根本的に理解がなかった。「同性愛者が一人前に権利を求めるなよ」

 テレビのニュースを見ながら悪態をついた父に、ある時訊いたことがある。

「何がそんなに嫌なの?」

 たったそれだけを、あたしは必死に振り絞った。だって気持ち悪いだろと父は鼻で笑った。動物は異性と番って子どもを産むのが自然なのに、それをしないのはおかしいと。こういう勝手な奴のせいで少子化が進むのだと。

「不妊の人とかにも同じことを言うの?」

 あたしの言葉に、父はどこか苛立った様子で答えた。「むしろ、産みたくても産めない人がいるのに、産める人間が身体を無駄遣いするのが自分勝手だろ」

 身体を無駄遣い、という言葉の意味が、どうしてもうまく飲みこめなかった。食べられないものを無理に飲みこもうとしても、どうしても喉を通らないあの感じ。父の苛立ちは肌でわかっていたから、追及はしなかった。「なんだ、お前レズなのかよ」と、嘲るように言う父に、違うよとだけ言って、部屋に戻った。

 それからしばらくして、母が妙に改まった様子であたしの部屋に来た。お父さんには言わないから、私だけにでも正直に話してほしいと母は言った。母がわかってくれるのではないか、という希望を、あたしは捨てきれなかった。

「柚香ちゃんは、女の子が好きなの?」

 腫れ物に触るような口調。

「わからない」と言うと、母は露骨にほっとした顔をした。「そうかもしれない」と続けると、今度は傷つけられたような顔をした。

「大丈夫よ。そういうの、大人になったらちゃんと治るから」

 慰めのつもりでそう言って、母はあたしの部屋を出た。


 高校を出てからは、家にお金を入れるために働いた。弟はあたしよりうんと出来が良くて、母は弟を医大に入れたがっていた。医大はお金がかかる。二人分の進学費用は賄えない。なんとなくしか勉強をしてこなかったあたしは、父と母にそろって頭を下げられると、頷くしかなかった。

「女の子はいずれお嫁にも行くんだし。それまでの辛抱でいいんだから。ね?」

 うん、と吐き出された自分の声は、噛んで時間がたったガムみたいに何の味もなかった。

 真っ白な作業着と帽子を着て、毎日ベルトコンベアの前に立った。

 その頃から、弟はあたしを「高卒」と露骨に侮るようになっていった。弟のいる進学校では、高校を出て働く子など別世界の住人であり、蔑みの対象でしかなかったのだろう。「そんな生活で恥ずかしくないの?」と言われることもあった。「誰のために稼いでると思ってんの」と言ったら、「そういうのモラハラって言うんだぜ」とにやにやしながら言われた。

「あんたみたいなのが医者になるなんて世も末だ」

 そう言い捨てて部屋に戻ったあたしを、弟は「何あれ、だっせー」と階下から笑った。あたしはそれを背中で聞きながら、声を殺して泣いた。

 部屋だけが唯一心が休まる場所だったのに、その頃はそれすらままならなくなっていた。

 本棚には好きな少女漫画がたくさんあった。始まりは小学生の頃。友達が貸してくれた漫画雑誌だった。ドキドキするような恋の話。男の子と女の子が、その頃の自分の世界では信じられないほど、大人びたことをする。きらきらしていて、少しだけインモラルで、強い刺激に一瞬で虜になった。ひとつひとつが胸がときめく宝石のようだったけれど、その中に一つ、女の子同士の恋愛の話があった。女の子でも女の子を好きになる世界があるのだ、と初めて知った時、世界がぱあっと開けて、視界が明るくなったような気がした。

 それからずっと少女漫画が好きだった。子供じみた趣味だと馬鹿にされることはあったけれど、あたしの大事な宝物で、誇りだった。

 だけどそれが、高校を卒業してしばらくして、あたしの前から忽然と消えてしまった。ある日仕事から帰ったら本棚の半分が空になっていて、残っていたのは高校までに使っていた教科書や参考書の類と、母が買ってくれた「ちゃんとした本」だけだった。

 犯人は母だった。

「いい加減大人なんだから、卒業しないと。周りに恥ずかしいって思われるよ」

 あたしの抗議に母は悪びれもせず言った。本当に恥ずかしいと思っているのは母だったのだろう。怒る気力すら湧かない。あるのはひんやりとした諦念だけだった。

 女の子も、少女漫画も、あたしは何かを好きになってはいけないのだと思った。


 毎日は味気なく過ぎていった。弟は第三志望の私立の医大に受かった。面接では「自分を支えてくれた家族に恩返しがしたい」と言ったらしい。笑える。

 いつからか、目の前の景色が灰色がかって見えるようになった。工場はどこもかしこもモノトーンで、作業着もみんな真っ白で。好きなものもなくて、好きな人もいなくて、何のために生きているのかわからなかった。飲み会で遅くなって帰ってくる弟や、街を歩く大学生らしき子を見ると、どうしてあたしはそっち側にいないんだろうと泣きたくなった。

 それでも帰れる家があるだけ恵まれているのだと自分に言い聞かせていた。母は毎日お弁当を作ってくれる。いくらかお金は入れているけれど、実家暮らしだから家賃も光熱費もかからない。手元に残ったお金は使うこともなく、少しずつ無意味に増えていく。

 昼休み。休憩室でお弁当を食べていたら、一個上の先輩に話しかけられた。何かの流れで、実家暮らしだとか一人暮らしだとか、そういう流れになっていた。

「柚香ちゃん実家暮らしだっけ?」

「そうです」

「いいなあ、家事とか全部やってもらえるじゃん」

 お嫁に行って困らないようにと言われ、家事の半分はあたしがやっていた。反論するのが面倒で、口には出さない。思ったことをすぐ口にする子、なんて言われながら育ったはずなのに、その頃は口を開くのがひどく億劫だった。

「一人暮らししたら親のありがたみわかるよー」

 一方的にマウントをとりたいだけの言葉。

 そうかもですねー、とあたしは笑う。

 あたしの心は深いところに避難しているから、何も感じない。

 休憩室でも家でも、時々こうなることがある。女の子なんだから、という言葉を使って、母が小言を口にするとき。イライラした気持ちでいたら、父が「生理か?」と下品なからかいをしてきたとき。雑談の中で、「柚香ちゃんってどんな男の子がタイプ?」と悪気なく聞かれたとき。

「聞いてる? 柚香ちゃんまたどっか飛んでってたでしょー」

「はい?」

 あたしはびっくりして顔を上げる。もー柚香ちゃんほんとかわいー、と嘘か本当かわからないことを言って、先輩があたしをじっと見つめた。

「高橋さん、あんたのこと気になってるって」

 高橋さんは二十五歳くらいの朴訥な男の人だ。大卒で、本社から来ている人。口数が少なくて真面目そうないい人。話したこともないのに、どうして?

「前に柚香ちゃん、恋愛興味ないって言ってたじゃん? いい機会だって、つきあってみたら良さがわかるかもよ」

 正直なところ、全然乗り気じゃなかった。それから一度高橋さんと食事に行った時も、お互いに話題を探すのが下手で、ひどく気疲れした。口下手だけど、悪い人ではない。優しい。顔だって、それほど悪いわけじゃない。それでもあたしは彼が魅力的だとどうしても思えなかった。

 けど結局、あたしは高橋さんとつき合うことにした。決め手は、彼が一緒に住んでもいいと言ってくれたことだった。家を出られる、ということにあたしは一番心惹かれた。好意に好意で応えられないのは申し訳なかったけれど、このくらいの見返りは求めていいんじゃないかと思った。

 家を出る、他の人と暮らすと言った時、父も母もひどく驚いていた。だけど、もういい歳だもんね、二十歳だし、と妙に納得したような顔をされた。

「ちゃんと男の人なのね、よかった」という母の言葉は聞こえないふりをした。

 高橋さんとのつき合いは最初は穏やかなものだった。教科書通りの正しい恋愛。三回目のデートでキスをされた。ぶに、と唇が触れた感触。子供のころ夢見ていたはずの初めてのキスは、ひどく無機質で味気ないものだった。初めて彼の家に上がった時、セックスもしたけれど、男性器に身体を広げられる感触は、痛いばかりでちっとも気持ちよくなかった。

 色々と準備が終わって、一緒に住み始めた途端、男性の連絡先を消すよう言われたあたりから、雲行きが怪しかった。次第に、コンビニひとつ行くのにも、お菓子一つ買うのにも、彼の許可が必要になった。増え続ける決まりを破れば、罰が与えられた。僕は柚香が心配だから。愛しているから。高橋さんは何度もそう言った。お腹や脚に痣がたくさんできた。

 罰を与えたあとの彼は妙に優しくて、執拗にあたしを抱きたがった。あたしは唇を噛んで耐えた。生理の時は口でしてと言われた。頭の後ろを掴まれながら、喉の奥が苦しくて吐きそうだった。

 ある時急に、このままでは死んでしまう、と思った。はっと目が覚めてから、あたしは着の身着のままで彼の家を出た。電車をいくつも乗り継いで東京まで向かった。全部のお金を口座から引き出して、スマホを解約した。ひとところに落ち着くのが怖かった。今にも見つかって連れ戻されるような気がして、母の嫌う強い化粧で人相を変えながら、ネットカフェを転々とした。

 家から、高橋さんから、何もかもから自由になったはずなのに、あたしは常に何かに怯えていた。高橋さんは心配しているだろうか。警察に届け出なんかしていたらどうしよう。何日も、誰かに見つかって連れ戻される夢を見た。「誰か」は高橋さんだったり、なぜだか両親だったりした。

 瑛ちゃんと会ったのは、そんな、何日目になるかわからない放浪生活の最中のことだった。


 レズビアンバー、という場所に初めて行ってみた日のことだ。あたしは薄っぺらな意味で人恋しかった。一人でいるのが急に耐え難いほどつらくなって、一晩でもいいから誰かと一緒にいたかった。誰かに抱きしめられたかった。

 一人寂しくお酒を飲みながら、やけに背が高くて姿勢がいい人がいるな、と思っていた。ツーブロックで、ピアスがたくさん開いている。銀色とミントグリーンの光沢のあるジャケット。黒いスキニーから伸びる脚が長い。服装も顔立ちも体躯も一見男の人のようだけれど、すんなりした首と胸のふくらみは女の人だった。

 美人だけどちょっと怖いな、と眺めていたら、「未成年がこんなところにいていいの?」と声をかけられた。童顔のせいか、低い身長のせいか、あたしはいつも年齢よりも低くみられる。それを無邪気に喜べない程度にはもう大人になっていた。幼く見えるのは垢抜けないことの裏返しだ。

「一応、成人してるんですけど」

 強い声が出せたのは、その日していたメイクのおかげだったからかもしれない。はっきりした色のアイシャドウと、まつ毛の隙間を埋めた黒いアイライナー。化粧はおまじないだ。

「本当かな」

「本当だよ。ほら、免許証」

 むすっとした顔で取り出した免許証には、化粧の薄い、ぼんやりとした顔のあたしが映っている。丸い眼鏡と小さな目。ノーメイクの日は中学生に間違えられることもあるのも頷ける、地味でとぼけた顔。

「あら、本当だ。ごめんね。お詫びに一杯おごったげる」

 涼しげな、落ち着いた声。頬杖をついて微笑まれた瞬間、忘れ去っていたはずのときめきが、身体中に満ちていく感覚がした。

 あたしのリクエストのカルーアミルクと一緒に、彼女はモヒートを頼んだ。「カルーアミルク、似合うね」と彼女は冗談めかして言った。彼女のグラスのミントの緑が、やけに鮮やかに見えた。

「あなたみたいな子がこんなところにいると、悪い大人につかまっちゃうよ」

 忠告だったのだろう。あたしは半ばなげやりだった。どこか試すように、「じゃあお姉さんがつかまえてよ」と返す。

 彼女は一瞬困った顔をして――それから少しだけ、翳のさした微笑を浮かべた。

「私が、悪い大人なんだけどな」


 その日も細い小雨が降っている夜だった。寝る場所がないと言うと、うちに泊めてあげようかと言われた。一緒の傘に入って店を出た時に、名前を聞かれた。

 彼女は瑛子と名乗った。瑛子さん、と呼ぼうとしたら、「瑛ちゃんと呼んで」と言われた。

「子の部分は好きじゃないの、自分が女だってことを突き付けられる気がするから」

 自分と同じものを抱えていた人がいるのだ、と思ってあたしは嬉しかった。

 家に着くころには雨はやんでいて、雲間にはうっすら月があった。ベッドに入ろうとした時、瑛ちゃんがジャケットをさらりと脱いだ。黒いタンクトップと、うすく筋肉がついた肩が、逆光に照らされていた。

「言ったでしょ。悪い大人だって」

 そのまま瑛ちゃんは傍に座る。顎に指が添えられる。顔が近づいてくると、シトラスとミントの混ざった香りが、ふわ、と身体を包んだ。目を閉じたのに、唇には何も触れない。怪訝に思って目を開ける。

「……嫌だったら言って」

 どこか不安な、子供じみた表情。だけど余裕がないのが愛おしかった。

「嫌じゃないよ」

 言った瞬間、かすかな溜息とともに、瑛ちゃんの唇が触れた。唇が溶け合う。甘美なしびれが身体中を満たす。あたしはそのまま瑛ちゃんの肩に手を回した。

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