私たちは自由になれない

澄田ゆきこ

1、

「この間、猫を拾ったの」

 と、二人でお酒を飲んでいる時、茜さんは言ったらしい。

「毛並みの黒い猫でね、きれいなのよ。ボロボロになって必死で鳴いてたから、可哀想で連れて帰っちゃった」

 ふうん、と瑛ちゃんはグラスを置いた。モヒートを舐めて、小さく溜息を一つ。

「それで、今度はどんなダメ男なの?」

「あら、ばれちゃった?」


 瑛ちゃんからその話を聞いた時、あたしは思いっきり「何それ」と笑ってしまった。

「本当に、あの子ったらしょうもない男ばっかつかまえるんだって」

 はあーっと長い溜息をついて、瑛ちゃんがモスグリーンのコートを脱ぐ。ばさばさと振ったコートから細かな水滴が飛び散る。重そうなロングコートが様になるくらいには、瑛ちゃんは背が高い。

「漫画家志望のギャンブル野郎と別れたと思ったら今度はミュージシャン崩れだって。相当女癖悪いらしいよ。懲りないよねえ」

 自分だってミュージシャン崩れのくせに、瑛ちゃんはそんなことを言う。

 瑛ちゃんの仕事はドラマーだ。スタジオミュージシャン、というやつらしい。リビングの片隅には、真っ黒な電子ドラムが置いてある。

「茜さんは彼の何が好きなんだろう」

「顔じゃない?」

 瑛ちゃんはにべもない。

「まあヒモ養うのはあの子の趣味みたいなもんだからね」

 コートをハンガーにかけ終えると、瑛ちゃんは真っ先にあたしの隣に座る。ソファがぼふんと沈んで、瑛ちゃんの腕が肩のあたりに回される。やんわりとした体温の中に、かすかに感じるアルコールのにおい。あたしは少しだけ寂しくなる。

 茜さんと瑛ちゃんは中学時代からの友人だ。瑛ちゃんが通っていたのは中高一貫の女子校で、曰く、「みんなが自分を中流家庭だと思ってる裕福な子」ばかりがいるような学校だったらしい。瑛ちゃんはその頃から自由人で、昼休みにバスケをやっては女の子たちから嬌声を浴びていた。一方、茜さんは成績優秀な優等生で、高校三年生の時には生徒会長も務めた。選挙の時は瑛ちゃんが推薦のスピーチをしたらしい。茜さんはそのまま推薦で有名私大に入り、今では立派なキャリアウーマンだ。だけど男の趣味が最悪。

「下戸だからお酒で不安定になることもないし、暴力もない、ギャンブルもしない。料理もできるいい子なのよーって。ありゃ末期だね」

 うわあ、と思わず声が出てしまう。

 茜さんはことごとく破滅的な恋愛ばかりを繰り返している。瑛ちゃんの説では、原因は極度の面食いだ。頭がいい子なのにこれだけは腑に落ちない、と瑛ちゃんはいつも言っている。

 肩に回された手に指を絡める。外から帰ってきたばかりの瑛ちゃんの手は、凍ってしまったみたいに冷たい。

「完璧な人ほど欠落したものを求めんのかねえ。……確かにいい男だったけどさー」

「会ったの?」

「べろべろになった茜を送り届けた時にね。今までの男の中でも破格の美形だったよ。だけどありゃだめだな。見るからに軽薄そう。女食うのに慣れてる感じ」

 幸せになってほしいんだけどな、と静かな声。胸の底がちりりと焼ける感じがした。

 瑛ちゃんとは知り合って半年。茜さんと瑛ちゃんとの仲は、もう二十年近くになる。長年の友人、と瑛ちゃんは言っているけれど、瑛ちゃんの口ぶりには時折、それ以上の感情が見え隠れしている気がする。

 茜さんにはあたしも一度会ったことがある。瑛ちゃんがあたしを紹介するためにうちに呼んだのだ。タイトスカートがよく似合う、華やかで垢ぬけた人だった。ウェーブがかった長い髪がつやつやしていて、艶めいたアイシャドウの下の瞳は理知的で、その上スタイルもよかった。大きくてやわらかそうな胸元は、思わず目が行ってしまいそうな迫力があった。ウエストが細いから余計だ。見た瞬間、負けた、と思った。胸は普通以下で、すぐお腹の周りにお肉がつくあたしとは天と地の差だった。瑛ちゃんとお似合いなのは間違いなくこの人だ、と思ってしまった。

「なに、やきもち?」

 瑛ちゃんが悪戯っぽく微笑む。

「違うよ」

「私はずっとゆずに会いたかったよ」

「ほんとかなー」

 茶化すと、瑛ちゃんはあたしを正面から抱きしめて、肩に頭をこすりつけてきた。眼鏡がかちゃんとずれる。近づくとお酒の匂いが強くなる。その中に少し、いつもの瑛ちゃんのにおいがあった。瑛ちゃんの背中に手をまわして、瑛ちゃんのにおいを胸いっぱいに吸い込む。安心するにおい。あたたかくて優しいにおい。

「ゆずが足りない」

 瑛ちゃんの短い髪が頬に触れてくすぐったい。少し身をよじったら、瑛ちゃんが服の上からブラジャーのホックに手をかけた。瑛ちゃん? と言おうとした口がふさがれる。何度もついばむように唇が触れる。唇に、頬に、首に、耳に。皮膚と一緒に、身体の中心がじんわり熱くなる。

 ん、と小さく声が漏れる。あたしの眼鏡をはずして、かわいい、と瑛ちゃんが囁いた。溶けそうになる、甘い声。涙が瞳を満たしていく。ゆずは本当にかわいいね。瑛ちゃんの熱い舌があたしの唇をぺろりと舐めて、口の中に割り込んでくる。絡み合う唾液の奥の方に、ミントとライムの香りを感じた途端、ぱちり、と背中のホックが外れた。胸元が頼りない感触に包まれる。

「寒いから、ベッドに行こうか」

 耳のすぐ近くで、瑛ちゃんが囁いた。


 こんなに寒い夜なのに、終わるころには全身が汗だくになっていた。長い長い愛撫。瑛ちゃんは決まって最後に軽いキスをして、あたしの頭を撫でる。熱のこもった髪の中に瑛ちゃんの指が入ると、すうっとして気持ちがいい。さっきまであたしの中に入っていた指。少しふやけた指先が頬を撫でる。甘いようなしょっぱいような、濃い女のにおいが、鼻を掠める。自分からこんなにおいがするなんて変な感じだ。ふわふわした頭の中で、思う。

 瑛ちゃんの身体も汗をうっすらまとっている。瑛ちゃんは先にベッドから降りて、スポーツブラとボクサーパンツを拾う。普通の女もののショーツは足の根元が締め付けられて好きじゃない、と瑛ちゃんは言っていた。均整のとれた、少し筋肉質な瑛ちゃんの身体に、灰色のボクサーパンツは、できすぎているくらいにしっくりくる。

 あたしも布団から這い出て、いそいそと自分の下着を手に取る。

「あら、今日のブラかわいいね。新しいやつ?」

 ホックをつけることに苦心していると、大きなスウェットを着た瑛ちゃんがこちらを見ていた。

 今日の下着は、繊細なレースのついた黄色。持っていた下着がくたびれて毛玉だらけだったので、いい加減新しくしようと買ったものだ。

「そうだよー、なのに瑛ちゃんってばすぐ脱がせちゃうから」

「それは失礼」

 軽口をたたきながら、服をまとう。先に着込んだ瑛ちゃんが水を差しだしてくれる。こくこくと飲んでいる間に、瑛ちゃんの手にはすでにマルボロ・メンソールの箱が握られていた。

「ゆずも吸う?」

「つきあうー」

 瑛ちゃんが買ってくれたもこもこの部屋着を着こんで、リビングに放置されていた眼鏡を拾いあげる。ベランダに出るなり吹き付ける風は、気持ちいいのは一瞬だけで、すぐに刺すような冷たさに変わる。

「さすがに寒いね」

 かち、とライターが灯って、瑛ちゃんの口元に火がついた。

 あたしのはピアニッシモの細いやつ。瑛ちゃんが火をつけてくれる。二本の煙がベランダから斜めに流れる。針のような雨がうすぼんやりと光っている。煙草の先端が瑛ちゃんの横顔を照らす。あたしはそれを見るのが好きだ。すっとした鼻筋と、涼しげな目元に下りる長いまつげ。耳に光るピアス。マッシュに刈り上げられた瑛ちゃんの髪は、夜空に溶ける煙と同じ色をしている。

 普段は自分の話をあまりしない瑛ちゃんは、こうしてベランダで煙草を吸っている時は、いろんな話をしてくれる。三姉妹の長女だってこと。男を産めないせいでお母さんは親類からひどく責められたってこと。昔バレエをやっていたけれど、お父さんの事業が傾きかけた時にやめてしまったこと。お父さんがすぐ外に女を作ること。帰省した時、お母さんに「あなたはお父さんに似てどんどんハンサムになるわねえ……」と言われて、どきっとしたこと。

「瑛ちゃんは、長男になりたかったの?」

「どうだろう……最初はそうだったかもね」

 瑛ちゃんが煙草を深く吸って、吐く。

「長女だったから、全部を背負わなきゃいけない気がしてたの。バレエを辞めた時に髪をばっさり切った。最初は『なんでそんな男の子みたいな髪型をするの』って母に泣かれたけど。女から、自由にならなきゃいけない気がしてた。母が背負わされていたものを少しでも担いたかったのかな」

「瑛ちゃんは、もっと自由だと思ってた」

 少なくともあたしにとって、瑛ちゃんは自由と解放の象徴だった。誰になんと言われても自分のスタイルを崩さない気品。女のまま女を愛することは何も悪くないと教えてくれたのは瑛ちゃんだった。瑛ちゃんとつき合うようになってから、あたしは何かから少しずつ、自由になれたような気がしていた。

「無理に自由になりたいと思うほど、余計に不自由になってくんだよ」

「何それ、難しいね」

「うん。すごく難しい」

 瑛ちゃんの溜息は憂いを帯びている。吐き出された紫煙までうっとりするほどきれいだ。とん、と灰皿に灰が落とされる。あたしの煙草は細いから燃えるのが早くて、もうほとんどフィルターしか残っていない。少し物足りない気持ちで、灰皿に擦り付ける。

「小六の時から身長が一六〇あったの私。それからもどんどん背が伸びてさ。からかわれることもあったし、女であるというだけで生きづらいことなんて山ほどあるし、色んなものにぎくしゃくしてた。だから自由になりたかったけど、それでも身体はどうしようもなく女のままだし、毎月生理はくるし。昔はね、パンツが血の色になるたびに絶望してたよ」

「そっか……」

「女であることを捨てて何かニュートラルでフラットで自由なものになりだかった。けど今は、どっかで割り切れたから、私はただの私だと思って生きてる。私は女としての私も好きだしね。自由になろうとするのをやめたら、逆に自由になれた気がする。……やっぱ難しいね。なんだか哲学的だ」

 ガラにもないこと言ったから頭が痛いや、と瑛ちゃんはおどけて笑う。その笑みはどこか、何かを諦めたような悲しさを孕んでいる。

 細い指先が煙草を灰皿に押し付けた。話は終わり、の合図。

「ねえ瑛ちゃん」

「ん?」

「あたしは瑛ちゃんの全部が大好きだよ」

「……ありがとう」

 瑛ちゃんがあたしをぎゅっと抱きしめてくる。

「私もゆずが大好きだよ」

 寒風の中で、瑛ちゃんの体温だけがあたたかい。

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