第15話 ななちゃんとみのくん

 菜々と稔が沼津駅に着いたというので、父が駅まで迎えに行った。向日葵はそわそわしながら二人の到着を待った。


 親しい従兄弟たちと会えるのは嬉しい。先のお盆に会ったばかりで懐かしいというのは違うが、生まれた時からの付き合いで長い休みにはいつも一緒にいるので、大人になっても会ってしゃべれるというのは向日葵にとって楽しく幸せなことだ。


 しかし今回はいつもとちょっと事情が違う。

 向日葵の隣に椿がいる。


 正直なところ、菜々と稔のことは心配していない。大樹の言うとおり、あの二人は社交的で気のいいタイプだ。突然現れた従姉の婿にもうまく対応するだろう。

 問題は椿のほうだ。

 椿は表面的には人当たりがいい。当たり障りのない会話は得意だ。しかしこの先何十年と付き合っていく予定の人間が相手ではどうだろう。しかも実家では親戚付き合いに人一倍苦労してきた。妻の親戚というものを警戒するかもしれない。うまく打ち解けてくれるといいのだが、過去に椿が打ち解けて本音で会話できるようになった人間などいったい何人いるだろう。


 車の排気音が聞こえてきた。父のミニバンだ。

 それまで眺めていたインスタの画面を閉じ、スマホをパーカーのポケットに押し込んで玄関に向かった。そんな向日葵の後ろを椿がひょこひょことついてくる。紺色の長着に同色の羽織である。わりとちゃんとした恰好だ。初手からこんなで大丈夫だろうか。


 玄関の引き戸を開け、外に出る。予想どおり、父のミニバンが帰ってきて玄関前の駐車スペースに止まっている。


 後部座席のスライドドアが開いた。


「ひまちゃあん!」


 まず飛び出してきたのは菜々だ。蛍光ピンクのポンチョコートにデニムのショートパンツ、ストライプのタイツを身に着けている。髪は金になるまで脱色したショートヘアだが、根元が三センチほど地毛の黒髪になっていた。


 菜々は向日葵に向かって一直線に駆けてきた。この厚底ブーツでよくこんなにも素早く動けるものだ。彼女は返事をする間もなく向日葵を抱き締めた。


「お久しぶりぃ! 会いたかったよぉ」

「わたしも。わたしもななちゃんと会えて嬉しい」


 菜々の頭を撫でる。


「髪の毛プリンになってるよ。ブリーチしないの?」


 菜々が向日葵を抱き締めたまま首を横に振る。


「しない。もうすぐ就職だから黒染めしなきゃいけないの」

「なるほど」


 苦笑してしまった。


「なんだか悲しいねえ」


 菜々が首を横に振る。


「えー、まあ、いいんだよ。ななもおとなになるぅ」


 菜々の後ろを、しゃれた革風の素材のスーツケースをふたつ抱えた稔がついてきた。すらりとした長身痩躯、ワックスでわざとくしゅくしゅにした髪に流行りの丸い形の眼鏡の好青年だ。ニットシャツの上にシックなコートを羽織っている。向日葵の友達が見たら、女を殴っていそう、と言われるタイプの外見である。


「ひまちゃん、こんにちは」

「こんにちはー! 長旅ごくろうさま」

「電車だけなら二時間もしないよ、沼津駅を出てからここまでのほうが遠く感じるよ」

「ごめんごめん、田舎だからね」


 菜々が向日葵から離れた。

 稔がスーツケースから手を離した。

 二人の視線が、向日葵の斜め後ろ、椿のほうを向いた。


「こんにちは、初めまして」


 最初にそう言って右手を差し出したのは稔だ。


「あなたが『椿くん』ですか」


 椿が向日葵の後ろから出てきて、稔の手を握った。


「こんにちは。椿と申します」


 穏やかな笑顔をしているが、やはりどこか硬い。はらはらする。


「僕は池谷稔です。字はのぎへんに念じるの念で。父の正樹が広樹伯父さんの弟で、向日葵さんの従弟です」

「お話は聞き及んでいます」

「ななは池谷菜々ですぅ! 菜の花の菜にくりかえしの記号の菜々ですぅ! みのくんのおねえちゃんですぅ」


 開け放したような笑顔で両手を挙げた菜々に、椿が「初めまして」と言いながら会釈した。


「僕は大学二年生で二十歳です」

「大学生ですか。どちらですか」

「上智の文学部です」

「じょうち……どんな字を書かは――」


 向日葵は椿の後頭部をはたいた。稔が朗らかに笑った。


「ごめんね、この人関西にある大学しか知らないもんでさ」

「いやいいよ、大したところじゃないし」


 椿に「東京にあるキリスト教系の有名な大学だよ、関学みたいな感じだよ」と耳打ちする。合点したらしい椿は「すみません……」と呟いた。


「菜々さんは?」

「ななも大学四年生」


 菜々が少し舌足らずな口調で答える。


「ななはみのと違ってバカ大だから余計わかんないと思うー」


 椿が目をしばたたかせる。


「就職しはるんですよね。どんなお仕事ですか?」

「保育士!」

「ええやないですか。日本の未来に直接関わる責任重大なお仕事です。生半可な覚悟ではできない、立派なお仕事です。大学でちゃんと資格を取らはったからできるんやないんですか」


 菜々は目を真ん丸にした。


「……ありがとう。なな、もう椿くんのこと好きになっちゃった。親戚になれて嬉しい」

「僕もです」


 他の誰でもなく向日葵が胸を撫で下ろした。菜々は明るく能天気に振る舞うが、賢い弟に対してほんのりコンプレックスがあり、自己卑下してバカだから、バカだからと言いがちである。椿もすごく学歴にこだわるタイプなのに菜々についてはうまくフォローしてくれてよかった。そこはやはり椿も賢くて大人だ。内心ではどうかしれないけれど、と思うと少し頭が痛いが、菜々本人の前で言わないでくれればいい。いや、言わないだろう。大丈夫だ。椿を信じる。


「遊んでられるのもあと三ヵ月だよぉ。頭黒くしなきゃー」


 稔が「そうだね、ななちゃんが本家に遊びに来られるのも今日が最後かも」と言って意地悪く笑うと、菜々が明らかに悲しい顔をしたので、向日葵が「こら、そういうこと言わない」とたしなめた。


 父が四人の脇をすり抜けて玄関に上がろうとする。


「おら、入れ入れ。こんな寒いとこで立ち話すんな」


 菜々と稔がそれぞれに「お邪魔します」と言って伯父の後に続いた。


「大樹兄ちゃん帰ってきてるぅ?」

「いるよ、溜め込んだ鬼滅の刃のアニメの録画見てる」

「やったぁ、ななも一緒に見るぅ」


 稔が振り向いて「伯父さんはこう言うけど沼津は市川より暖かいよ」と微笑んだ。椿が「京都よりも暖かいで」と微笑み返した。


「お兄ちゃんも裾野よりあったかいって言うよ」

「大樹にいも大変だね。いや、実家からはそんなに離れていないからいいのかな」


 家の中から菜々の「大樹兄ちゃん!」と叫ぶ声と大樹の「うおあ!」という悲鳴らしきものが聞こえてくる。おそらく後ろから抱きついたのだろう。


「……大樹さんは『大樹兄ちゃん』で、僕は『椿くん』なんやなあ」


 椿がぽつりと呟いた。菜々が二十二歳、稔が二十歳で、椿は菜々より一学年上の向日葵の同級生だ。年功序列がどうこうやらナメたりナメられたりがどうこうやら言い出したらどうしようとつい焦ってしまった。

 今度口を開いたのは稔だ。


「ひまちゃん準拠なんだ。ひまちゃんがお兄ちゃんお姉ちゃんと呼ぶ親戚が僕らにとってもお兄ちゃんお姉ちゃんで、ひまちゃんは『ひまちゃん』なんだよね。『椿くん』が嫌なら改めるよ、何がいい? 椿さん? 椿兄さん?」

「あ、そういうことなんや。ほな僕は『椿くん』やな」

「気になることがあったら何でも容赦なく言ってね。これから長い付き合いになるだろうし、僕もななちゃんもあんまり深く気にしないタイプだから、そっちも遠慮せず」


 そこまで言うと、稔もスーツケースを抱えて玄関に上がっていった。


 稔の姿も完全に玄関から消えてから、向日葵は小声で椿に話しかけた。


「どう? 第一印象」


 どきどきしながら待った。

 椿は大きく息を吐いた。やはり緊張していたのだろう。


「わるないな。おおかた聞いてたとおりやし」

「よかった」


 口ではそう言ったが、まだ気は抜けない。親戚は菜々と稔だけではないのだ。それに菜々と稔はしばらく宿泊することになる。泊りがけになったらまたちょっと変わるかもしれない。


 そんな向日葵の背中を、椿が優しく叩いた。


「変なの。ひいさんのほうが緊張してるように見える」


 心臓が跳ね上がる。


「……ごめん」


 結局、素直に打ち明けることにした。

 ここは、きっと、信頼してもいいところだ。椿も子供ではないのだ。


「椿くんがななちゃんみのくん姉弟を嫌がらないか心配になっちゃって」


 すると椿が笑った。


「わからへん。まだ会うたばかりやし」

「そうですよね」


 しかしかえって救われる。大丈夫と即答されたらむしろ不安になっただろう。


「そんな心配せんといて。僕も僕なりにがんばってみる。ひいさんにとっては大事な従兄弟なんやろ」


 頷いたら、椿はいつになく力強い声で「ほんなら僕も好きになれるよう努力しようかな」と言ってくれた。




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