後編 After Christmas

第14話 大樹お兄ちゃんのおなり!

 嵐のような土曜のクリスマスを終え、家族そろってののどかな日曜日を過ぎ、働いたり働かなかったり茶畑の様子を見たり映画好きの父が椿を映画館に付き合わせたりしながら三日ほどが過ぎた。


 二十八日火曜日、午後七時前である。


 満を持して、この男が帰ってきた。


 母屋の玄関のチャイムが鳴る。一度ではなく、四回五回と何度もチャイムを鳴らされる。母が「あーうるさいうるさいうるさい」と顔をしかめる。


「壊れちゃう!」


 しかし池谷家一同はこれを待っていたのだ。

 居間に彼以外の全員が集結している。宅配のピザとビールやコーラまで用意して待っている。


 祖母に穏やかな声で言われた。


「ひま、開け行ってあげなさい」


 向日葵は元気よく「はい」と返事をして立ち上がった。


 走って玄関に向かう。玄関の薄いガラス戸の向こう側で向日葵の気配を察知したらしい彼がチャイムを押すのをやめる。


 玄関の鍵を開けた。

 そして、ガラス戸を引いた。


「ひーまー!」


 ガラスが割れるのではないかと思うほどの、近所迷惑な大声で彼は叫んだ。


「お兄ちゃんがっ! 帰ってきたぞーっ!」


 向日葵より二十六センチ高い身長、分厚いパーカーの下だというのに存在を感じる筋肉、大きな目と口の大男――池谷家長男にして向日葵のこの世で唯一の兄、大樹である。


「お兄ちゃん」


 大樹は玄関に着替えが入っているとおぼしき大きなスポーツバッグを放り投げた。そして大きく両腕を広げた。


「おお、我が妹よ!」


 向日葵は一瞬引いた。この腕を広げるポーズは抱き締めてやるの意だ。二十五歳と二十三歳にもなって何をしようというのか。ここは日本だ。しかも自分たちは兄と妹だ。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。


 だが向日葵もそういうノリがまるっきり嫌いなわけではない。それに兄が疲れて帰ってきているのは間違いない。こいつは妹が可愛いのである。仕方がない、付き合ってやろう。そう思った向日葵は兄の腕の中に飛び込んだ。胸筋がしっかりしている。椿の胸板よりずっと厚い。


「お兄ちゃんっ、おかえりなさいっ!」

「おおーよちよちよち、妹は可愛いでちゅねぇ、兄はお前に会いたかったぞ」


 なんという茶番か。


 いつの間にか居間から玄関に出てきたらしい母が、「あんたたち兄妹は本当に仲いいわね」と言う。そうだろうか。悪くはないだろうが、向日葵が知る中でもっともテンションの高いこの男に振り回されているだけのような気もする。


 兄が向日葵を抱き締める腕に力を込める。向日葵は「ぐえっ、潰れる潰れる」と言って兄の腕を叩いた。


「なんだ、お前もか?」


 そう言って兄が腕の力を少し緩めたので、向日葵はもぞもぞと動いて体を反転させ、居間のほう、廊下のほうを向いた。

 そこに椿が立っていた。

 椿はあからさまに、この上なく、心底嫌そうな顔をした。人前ではいついかなる時も澄ました笑顔をしている彼にしては珍しい。

 向日葵は安心して笑った。

 兄は、椿にとって、露骨に嫌な顔をしても嫌われないと思えるだけ信頼できる相手なのだ。


「違うっ!」


 珍しく腹から声を出した椿に、大樹が腕を伸ばす。スニーカーを脱ぎ捨て、廊下まで追いかけ回す。

 椿は居間のほうに向かって逃げ出したが、椿の反射速度が身内で一番運動神経のいい大樹に敵うわけがない。あっと言う間に捕まって抱き潰された。椿の「いややーっ」という悲鳴に続いて、大樹の「ちゅうーっ」というおそろしく間抜けな声が聞こえてくる。大樹が椿のこめかみにキスしている様子が見えた。


「ちょっと! お兄ちゃんのバカ! 汚い! 椿くんが汚れる!」

「汚いとは何だ汚いとは、兄に向かって! ぷんぷん!」

「触んないでーっ、わたしの椿くんだよ! わたしの椿くん返してよーっ」


 椿の腕を引っ張り合う。椿が「お人形さんちゃうんやぞっ」と声を張り上げる。息子が床に放り出した巨大なスポーツバッグを拾い上げつつ、父が「お前ら本当に仲いいな」と呆れた声を出した。


「ほら、ピザ冷めるぞ」

「ピザ!?」


 大樹が椿を離して居間のほうに入っていった。向日葵は一度椿を抱え込み、大樹にキスをされたこめかみを服の袖で拭いてから、椿を離して後をついていった。


 向日葵が居間に入ると、兄は当然のような顔をして食事用テーブルの誕生席であぐらをかき、父に缶ビールのプルタブを起こしてもらっていた。王子様かよ、と突っ込みそうになったが、王子様なのかもしれない。貴族の御曹司である椿とはレベルが違うが、大樹も一応親族経営の大きな農家の本家の長男としてそれなりにちやほやされて育った男である。


 それぞれがビールなりコーラなりの缶を開け、高く掲げた。


「おかえりお兄ちゃんの意を込めて!」

「かんぱーい!」


 家族全員が一斉に缶ジュースに口をつけた。


 大樹がうまそうにビールをごくごくと飲んでから、わかりやすく「ぷはあ!」と音声付きの息を吐いた。


「いやー、マジ、サイコーだね。俺の年末年始が始まったって感じだね」


 祖母が「本当にねえ」と微笑む。


「大樹が帰ってくるとお休み入ったって感じがするね。やっと落ち着いた」


 母が「大掃除もおせち作りもこれからよぉ」と言う。しかしその声は嫌そうではない。彼女にとって大掃除もおせち作りも楽しいイベントだ。家族全員で同じことをしてどったんばったんする、というのが彼女は楽しいのだ。


「ほら、食え。ピザ、食え」


 大樹がビールを置いてピザに手を伸ばす。向日葵も負けじと手を伸ばす。大樹と向日葵の動きをきょろきょろと見回して状況を確認してから、椿も着物の袖を押さえてピザをひと切れ手に取った。


「うめぇ。ビール飲みながらのピザは格別だな」

「お兄ちゃんの好きなもの作って待っててあげようかと思ってたけど、明日の昼も夜もあるからいいかなって。ごめんね」

「いいのいいの、お袋の好きなようにして。社食の飯もおいしくて満足してて食事に不自由してないし。あ、ママのご飯が世界で一番好きですけど」

「よかったよママのご飯しか食べられないマザコンにならなくて」


 兄は普段裾野市にある大きな企業の社員寮にいる。日本を代表するような大企業の研究職だ。この会社は二十一世紀になってもなお強大な力を持ち、令和の今でも社員の人生を丸ごと抱え込む傾向にある。この会社にいる限り大樹の将来は安泰だろう。


「お仕事忙しい?」


 尋ねると、大樹は手を振った。


「大学院時代の研究室のほうがよっぽどブラックだったぜ。今九時には寮帰って飯食ってるかんな」

「この家七時には家族全員揃って夕飯を食べて九時には全員お風呂に入って十時には寝ちゃうけど」

「まあまだ一年目じゃどうとも言えないっしょ。アメリカ送りも少なくとも丸三年過ぎてからって言うし」


 池谷家はこういう人生を選択した彼を後継者に指名するわけにはいかなかった。やりたい研究に没頭するために、静岡県の片田舎にある茶畑は忘れて世界に羽ばたくグローバル人材になってもらいたいのだ。大樹自身が辞めて帰ってきたいというのならまた別の展開もあるだろうが、入社して最初の年度が残り三ヵ月という今、本人は満足そうである。


 たった一度の人生だ、好きに生きてもらうのが一番だ。


 本音を言えば、向日葵も寂しくないわけではない。口ではなんだかんだ言っても向日葵はやはりお兄ちゃんっ子で、彼が高校を卒業して東京の大学に進学すると同時に一人暮らしを始めた時はこっそり泣いたし、いつかは海を越えてアメリカに行ってしまうのだと思うとちょっぴりつらい。池谷家の先祖伝来の墓は近所のお寺にあるが、最終的には兄もそこに入ってほしいと思う――それは七十年ぐらい気が早いか。


「さっそくだけど」


 母が言った。


「明後日の夕方からみのくんとななちゃんがうちに来るから。正樹まさきさんと和枝かずえさんは三十一、大晦日にするって言ってたけど。先発で、みのくんとななちゃんが遊びに来るって。大樹に遊んでほしいってさ」


 それを聞いた向日葵は本格的な冬休みの到来を感じてテンションが上がった。

 が、向日葵の隣にいた椿は小首を傾げた。


「みのくんとななちゃん? どちらさんでっしゃろ」


 向日葵が答えた。


「従兄弟。お父さんの弟の正樹さんの娘が菜々ななちゃんで息子がみのるくんって言うの」

「ああ、なるほど」

「普段は一家で千葉に住んでるんだけど、ゴールデンウィークの新茶摘みと盆暮れ正月に本家に来るだよね。昔からそう、子供の頃は学校が休みになると夏休み一ヵ月とかぐらいここにいたんだけどさ」

「仲ええんやな」

「うん。すごくいいよ」

「うまくやれるやろか」


 大樹が「大丈夫だろ」と笑った。


「ななもみのも人懐っこくて愛想がいいからよ」

「……僕やなくて先方さんがね?」


 向日葵は「また椿くんはそういうひねくれたこと言う!」とたしなめたが、大樹は「わーっはっはそのとおりだそのとおり!」と煽った。


「がんばれ椿っ!」

「げえ……」



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