第10話 沼津城本丸跡 1

 沼津駅南側の市街地は狩野川の下流から河口の沼津港にかけて広がっている。湾曲する狩野川の流れにあわせて橋がいくつか架かっており、その橋と橋との間に商店や住宅が集中している。


 特に有名なのは夜間にライトアップされ夏には花火大会も催される御成橋だが、そのひとつ北側、あゆみ橋の付け根には公園がある。その名を中央公園という。沼津駅から南に徒歩五分で、周辺には複数の銀行をはじめとするビジネス街とそれを下支えする無数の飲食店があり、まさに沼津駅南側の中央と言える立地だ。


 中央公園自体はさほど大きな公園ではない。だが、かつて沼津城という城があった跡地で、二百五十年ほどの歴史がある。江戸幕府の譜代大名であり幕閣も勤めた水野家の当主の城である。石垣は残っているが物々しさはない。あくまで水運の要であり、防衛のための城塞ではない。静かな駿河湾と穏やかな狩野川を臨む平和な城であった。


 この公園は市民の憩いの場であり、いつも誰かしらがくつろいでいる。ベビーカーを押す若い親、日光浴をするお年寄り、スケートボードに励む若者、周辺をマラソンしてきたランナーたち――常に市民に愛されている公園だ。


 特に毎月第四土曜日には『週末の沼津』というイベントが催されている。今時のカフェから由緒正しき農園までが出店する市場のようなイベントだ。主催しているのは市の産業振興部であり、ともに沼津の『新しい日常』を作りたいという気持ちをもった人々が思い思いの屋台を作って楽しい休日の昼間を演出する。


 今年はたまたまクリスマスとかぶってしまったが、『週末の沼津』が目指しているのは日常なので、主催者側から特別かこつけたことはしない。クリスマスリースを作るブースはあるものの、全体としてはいつもの『週末の沼津』だ。イベントだがお祭りではないのである。


 本日の『週末の沼津』に、向日葵は椿を連れてやってきた。近くのコインパーキングに車を止めて中央公園まで歩く。ちなみにこの駐車料金は後で里香子が精算してくれる手筈になっている。向日葵はあくまで仕事で『週末の沼津』に取材に来たというていなのだ。


「わあ……!」


 椿が感嘆の声を上げた。


「沼津ってこんなに人間いるんや!」


 向日葵は椿の後頭部をはたいた。

 しかし椿が歩き回っている平日昼間の沼津駅周辺はオブラートに包んで言えば閑静だ。中央公園の人口密度がここまで上がっているところを見たのは初めてに違いない。もっといろんなところに連れ出してやらねばと決意を新たにする。


「過疎過疎言うてるけど子供いっぱいいはるやん」


 椿の言うとおりだ。屋台と屋台の間を大勢の子供たちが駆けずり回っている。奥の植木に吊るされたハンモックに揺られてみたり、地元のみかんジュースで初めてのお買い物をしてみたり、工作ブースで作業してみたり、あっちからもこっちからも子供の声が聞こえる。涙が出るほど豊かな光景だ。統計上は沼津も少子高齢化に喘いでいるが、ここだけ切り取って見ているとこの街が家族連れであふれているように錯覚する。


「入ってもええ?」

「ちょっと待ってね」


 向日葵はバッグからコンパクトデジタルカメラを取り出した。そして、中央公園の正面出入り口と『週末の沼津』の横幕を撮影した。

 その背後には小春日和を通り越して目に痛いほど輝く太陽があった。

 快晴だ。いつもの沼津の空だった。


 天気予報に騙された。


 期待していた雪は降らなかった。雨は降ったが、道路を湿らせる程度でそれほど激しい雨にもならなかった。現在午前十時半、太陽はぎらぎらに輝いていて、雨が降っていた痕跡すらもう消えてしまっている。


 底抜けに青い沼津の空が頭上に広がっている。


「雪、降らなかったね」


 向日葵がぼやくと、椿が「まだ言うてる」と嫌な顔をした。


「雪なんか降らんほうがええやん。こんな屋外イベントがあるのに雪なんか降ったら大変やで」

「まあ、そうなんだけどさ。雪、見たいじゃん。雪を見れたらいろいろ吹き飛ぶと思うんだけどなあ」


 そう言うと、椿が今度はふと笑う。


「ひいさん大学の時も言うてはったね。雪、ほんまに好きなんやね」


 向日葵はこくりと頷いた。


 しかし京都も実は雪が積もらない。正確に言えば、京都市郊外の山々には積もるのだが、向日葵が大学時代に住んでいた下宿の周りは街中の平地だったので降ってもすぐ溶けて消えてしまった。でも毎年どこかのタイミングで降ってはいた。防寒着の上に降り注ぐ白いかたまりを見られるだけで向日葵は結構満足だった。


「僕は嫌いやけどね。風邪ひくし」


 それもそれで、向日葵は頷いた。この人は病弱で少しでも天候が変わると発熱して倒れていた。そう考えると毎日飽きるほど晴れている秋冬の沼津の気候は彼の体質に合っているのかもしれない。そういえば結婚してからはまだ一度も入院していない、と思って、毎年のように京大病院にぶち込まれていたことを思い出す。健康第一、長生きしてほしい。

 そんな彼の体調を考慮して今日も厚着させてきたのだが、かえって汗をかかせてしまうかもしれない。カシミヤのコート、絹の羽織と長着、洗える襦袢の下にヒートテック、首元にはモヘアのショールをマフラーのように巻いている。革の手袋、ショートブーツ。完全防寒である。

 一方向日葵は合繊のハイネックの上にオレンジ色のダウンコートだけだ。このダウンコート一着あれば何にも怖くない。風の子だ。


 コンデジをしまってスマホを取り出す。ホーム画面のウィジェットに天気予報がある。開いて見る。午後の予想気温はいつの間にか15℃にまで上がっている。しかもこの快晴では体感気温はもっと上がる気がする。冬とはいったいいつからいつまでを指すのだろう、年を越すまではこの天気か。


 スマホもしまい、今度はネームホルダーを取り出す。市から授けられた取材許可証が入っている。一応仕事なのは忘れてはいけない。首からかけ、誰からも見えるようにした。

 そんな向日葵の様子を椿がじっと見つめている。もの言いたげだが向日葵は気づかなかったことにした。


「よし、行こう」


 大股で歩き出す。その後ろを椿がちょこちょことついてくる。


 ブースの位置は毎回決まっているわけではない。大雑把に左手奥が飲食ブースで複数のテーブルが設置されているが、出入り口入ってすぐの右手にもカフェの出張テントが並んでいた。


 すぐ呼び止められた。


「ひまちゃーん!」


 若い女性が二人テントの下に立っている。顔なじみのカフェの店員だ。マフィンとコーヒー、その他軽食を販売しているらしかった。


 椿のコートの袖を引っ張り、二人でテントに近づく。女性店員二人が手を振ってくれる。


「一ヵ月ぶり! 今日暑いね!」

「でもコーヒーそこそこ出てるよ。カレーもいくつか売れたし」


 口では向日葵と会話しつつも、二人の視線は椿のほうにちらちらと向けられている。そんな二人に対して、椿が愛想よく、にこ、と微笑む。椿は注目されることに慣れている。向日葵も胸を張り、深呼吸をしてから言った。


「紹介が遅れました。こちら、わたしの夫です。よろしくね」

「椿と申します。何とぞおたのもうします」


 二人はきゃあと黄色い声を上げてからそれぞれ自己紹介してくれた。


「噂には聞いてたけど、この人が! とうとう会えた! 本当に美形だ!」

「ありがとうございます」

「どんなイケメンかと妄想してたけど、あれね、どちらかというとイケメンっていうより美青年って感じだね。高校生役をやる若手俳優さんみたいな」

「高校生?」


 向日葵は震えた。椿は自分の童顔を指摘されるのが本当に嫌いなのだ。高貴な身分である彼がそれを表で顔に出すことはないが、家に帰ってからぎゃあぎゃあとわめくのが見える。これ以上ここにいるのは危険だ。


「じゃ、わたし全部のブースに挨拶しに行かなきゃいけないから、ごめんね。また後で撮影させてもらいに来るね」


 二人は何の疑問も持っていない顔で「はーい」と言って送り出してくれた。


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